諸論
堂目雷同
人間の概念視野角について
対立する概念は、しばしば数直線上の両端に位置するように思われるが、それは異なる。誤解だ、と主張する。
地球が我々にとって余りにも大きいばかりに平面に見えるように、それは数直線ではなく、弧であるのだ。それも、短い方の。
我々の論理的概念視野角は180度を超えられない。更に、時代などによって、恣意的に変動しうる。
だから、新しい概念が生まれたり、忘れられたり、新しい「対立する概念」が表れたりする。
そして、その見えない裏側で、全ての対立物は接続され、実のところ、一つの存在として「在る」。
更に言えば、これは一本の線としてのみでなく、より球体的にも、かつ或いは多元的にもありえる。
ところで先程、「人間の論理的概念視野角は180度を超えられない」とした。これは真である。
だが、概念視野角は論理的なものだけではなく、それらを用いる事で、既存する論理的概念視野角の真裏を見、180度の壁を超える事ができる。
それは、「直感」であったり、もしくは「極めて深い(かつ半ば狂気じみた)洞察力」である。
これらにおいて重要なのは、上記にある通り、「論理」や「合理」に依存した存在ではない、という事である。
ここであらかじめ述べておくと、確かに「洞察力」にはそれらの力が必要である。
だがまた上記した通り、これは「極めて深い」洞察力であり、「半ば狂気的」な洞察力である。
その領域は自然哲学や宗教的事柄にまで及びうり、かつ常識的には想定されない事をも想定する洞察力である。
例えば、「何故人を食べてはいけないのか?」はこの洞察力の初歩であり、「人を食べる事が正義である場合、その社会の宗教は何を教義とするだろうか?」という事を考える人間は、この洞察力に関する基礎的な才能を持っているとして良いだろうと思う。
つまり、この洞察力は論理などの延長線上にあるのだが、余りにも遠く、かついくらかの変容を得たので、最早論理や合理の枠を逸脱した、という事である。
そして私は、これらによる概念視野角を、「神霊的概念視野角」と呼びたい。昔の聖職者やプラトンなどの自然哲学者ないし近代の著名な哲学者の一部は、これを持っていたと考えられる。
これにより、我々の概念視野角は簡単に180度を超え、様々なものの姿が多元に見えるようになる。
様々なものの姿が多元に見えるようになった人間は、しばしばその身を狂気の濁流の中に晒される。
気をつけたまえ、ここで流されると完全な狂人に堕ちてしまう。
それはよろしくない。
狂人は狂気によって神秘や真理を得る一実在だが、神霊的概念視野角を適切に用いようとするこの理論上においては、避けねばならない状態なのである。
何故ならば、神霊的概念視野角を得た人間は、それで持って何らかの発表をする必要があるだろう、と言えるからだ。
しばしば、「力/才能あるものは、それを適切に行使する義務がある。」と論ぜられるように、それと似たような事がこの神霊的概念視野角を獲得した人間にもある、と私は考えている。
私が創作する理由はここにある、と言える。
さて、話が本題からズレてきたので、概念的視野角に関する話はこれにて一旦終了とさせていただくとする。それでは。
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