第123話 雨宿り
居住スペースをするりと抜け、塔を縦断する渡り廊下へと差し掛かったその時、シヅキの脚は簡単に止まった。
ぱちくりと瞬きをし、シヅキは唖然とする。
「な、なんだよこれ……」
無機質な白の床を叩く無数の透明な水滴を前に、シヅキは力なく呟いた。それは彼にとって見たこともない光景であったのだ。
源を欲し、恐る恐ると天井を見上げる。 ……灰色に薄ぼやけており、先を見通せない。ちょうど高度の把握が出来なくなった辺りから水滴群は降っているようであった。
彼は自身の後ろ髪をポリポリと掻く。
「自然現象……なのか? さっきの床の揺れといい、何が起きてるんだよ」
明らかに状況がおかしい。やはりシーカーが必要だという結論に至ったシヅキは、渡り廊下へと差し掛かろうとしたが直前で足を止めた。この水滴は触れてしまってよいものなのだろうか、と。辺りに漂ってくる空気は湿気を伴っており、なんとも言えない独特な臭いが鼻をついた。棺の滝にかかっていた霧のようだ。直感的には有害性を感じないが。
…………。
その拳を握り込む。
「……我が身可愛さなんか、クソだろ」
そのように吐き捨てたシヅキは、今度は躊躇わずに足を繰り出した。一気に無数の水滴が降りかかる。冷たい。軽い。やはり害はないようだ。それこそ、かなり弱めなシャワーでも浴びているような…………ん?
渡り廊下の前方に、小さな影をひとつ見つけた。それが誰かなんて言うまでもなかった。
「…………シーカー」
その髪先からぽたぽたと水滴を垂らしつつも、シーカーはそれを気にする素振りは見せない。ただ、引きこもっていたあの部屋を出て、ここまで来たということには大きな意味があるのだろう。
ソレはシヅキを十分に視認できる範囲まで歩いてくると、ただこう呟いた。
「タオルか代用出来るもの、ここにある。急な雨だったから」
※※※※※
「感謝する。風邪をひくところだった」
部屋に備え付けられていたタオルで自身の髪をわしゃわしゃと掻き乱したシーカーは、やはり抑揚のない声で礼を述べた。
ソレに対してシヅキは視線を逸らしながらぶっきらぼうに言う。
「……礼はいいから、さっさと服着ろよ」
「濡れている服は不適切。不満があるなら新しいものを所望する」
「んなもの無ェって」
「……不思議なこと。生殖をしないホロウにも性概念が残っている。雨は無いのに霧はある。つまり人間の記憶が引き継がれたもの、なかったものが――」
「んな堅ェ考察を今すんなボケ! あぁクソこれでも着てろ!」
吐き捨てたシヅキは自身の外套を強引に脱ぎさると、それをシーカーへと投げ渡した。そして、ソレが外套へ袖を通した時に初めて視線を向けたのだった。
……そこにはブカブカで、ヨレヨレで、しわくちゃな服未満のナニカがあった。
思わずシヅキは左手の指を差し向ける。
「その服……」
「なに」
「いや、少し驚いただけだ。んなボロボロだったんだなって……」
「今まで自らを省みる余裕はなかった」
「……あぁ、そうだな」
そう吐いたシヅキが徐に向けた視線の先は案の定、トウカだった。バカみたいに静かに眠る彼女でしかなかった。
シヅキは溜息を吐く。
「シーカー、さっきの床の振動とあの水滴が落ちる現象はなんなんだよ。 ……お前の仕業なのか?」
「異なる。さすがの僕でも地震や雨といった自然現象の創出は手に負えない」
「地震? 雨?」
「かつて星が起こしていた自然現象。霧や風の類い」
「人間の記憶が引き継がれたってのはそういうことか。 ……ん? 待て!」
突然大声を上げたシヅキがその場に勢いよく立ち上がる。遅れてシーカーの淡緑の瞳が見上げた。
恐る恐るシヅキが尋ねる。
「お前今、“かつて”って言ったよな? 何だよそれ。生命時代の現象が呼び起こされたってのか?」
「正解。人間が滅んでから初めて見た。
「……マジか。どうなんだそれ」
「どうなんだ、とは」
「さっきの現象は俺とトウカに益があるのかってことだ。正直、今は心の整理なんかつかなくて――」
「何を言う。生命を取り戻す兆候としては十分すぎる。それもこれも君たちのおかげ」
シーカーの言葉にシヅキは首を傾げる。咀嚼できないその言葉を口の中で反芻し、尋ねる。
「地震や雨には俺とトウカが関係をしているのか?」
「関係どころの話ではない。トリガー」
「何の自覚も無ェぞ。そもそも生命の取り戻し方なんて知ったこっちゃ無えしよ」
「君は知らなくても、僕は知っている」
「……お前そんなことを一度も――」
「話した。君が聴き逃しているだけ。ひょっとして、個の崩壊を知ってからというものの、しばらく絶望でもしていた」
淡々と言葉を重ねるシーカー。相変わらず要点は分かりづらいが、今回ばかりはソレの発言意図を読み取ることが出来た。
シヅキは頭を搔いた。気がついた時にはこの部屋に座り尽くしていた……そういうことだ。
「すまんがもう一度頼む」
「うん。別に難しい話じゃない。 ――生命世界が滅んだのは、魔素が負の感情に満たされた……“汚染”されたから。ならその負の感情を書き換えればいい。有り体に言えば、不特定多数の魔素へ正の感情をぶつけ、中和させる。正の感情ってどういうものか分かる」
「……楽しいとか、嬉しいってことか?」
無い頭を絞りシヅキが出した言葉だったが、シーカーはすぐに
「それらでは弱い。負の感情に満たされても、楽しいとか嬉しいは感じるよ。一時凌ぎにしかならないけど」
「なら、強い正の感情ってのはなんなんだよ」
「尋ねる。君はトウカに救われている。光と捉えている。傍に居たいと。役立ちたいと。守りたいと。頼られたいと。認められたいと。花なんかよりも自分のことを見てほしい。そして、しんで欲しくない。喜怒哀楽の全てが彼女にかかっている…………合ってる」
「…………………あぁ」
たっぷりと時間を置いた後に、シヅキはシーカーの問いを肯定する。そこには妙な気恥しさを伴った。……身体が熱い。
それを気にする様子もなく、シーカーは続ける。
「人間もその営みの中で、君と同じ感情を抱いた。あまりにも多くの人間が、君と同じ感情を様々なモノとコトへ抱いた。殊更に同種の人間へと。故に、人間はこれら全ての感情を包含する言葉を創ったよ」
「…………何なんだよ、それ」
「“愛”だよ」
……シーカーが言い放った言葉に、シヅキの中の時間が止まる。愛、愛、愛。反芻すればするほどに、心が熱を帯びてゆく。何だこれは。何なんだこれは。
そんなシヅキに追い打ちをかけるように、シーカーはこう言った。
「地震と雨が起きたのは、塔内の魔素が君の愛感情に共感を覚えたから。負の感情の一部が打ち消されたから。 …………ピンと来ない。つまり、君はトウカのことを何よりも愛していて、その愛こそが生命世界への必須条件。 ――最期に星を救えるのは、愛だけだよ」
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