第117話 大図書館

 

 トウカが眼を醒ました時、自身の手が握られていることをすぐに理解した。


 大きく、骨骨しく、硬い手だ。ソレに自身の手が結構強い力で握りこまれており、トウカは苦笑いを浮かべた。


「シヅキ、ちょっと痛いよ」


 そう呼びかけるが、彼の身体は椅子の上で丸め込まれている。呼吸を繰り返す度に、その背中が膨らみ縮む様は少し面白かった。意識がある時の彼とは、隙らしき隙を見せようとはしないものだから。その現れが彼の右腕ではないだろうか、とトウカは密かに思っていたりする。


 その姿をもう少しだけ見ていたかったから、トウカはそれ以上に呼びかけはしなかった。手に走る痛みだって我慢出来る程度だったし(むしろ加減出来る方がすごいのかもしれない)、それも放置。背後の枕を自身の胸元に抱いた。


 無機質な部屋の中に、彼の規則正しい寝息だけが聞こえてくる。



 …………。



 しばらくその姿を琥珀の眼に写していたトウカの、その眼が次第に透き通っていく。輪郭が曖昧となり、焦点を失い、ぼやけていった。


 しかし、ついに彼女が涙を流すことはなかった。 ……コレが流してはならない涙だと、悟ったからだ。だから奥歯を噛みしめ、嗚咽を抑え込み、シヅキの体温の高い手を必死に握り込んだ。


 だが全てを抑え込むことは出来なかった。溢れ出てしまったものは、涙というの代わりに、言葉という形でトウカの口を突いて出てしまう。


 震える喉にて彼女は呟いた。



「時間……ないなぁ」




 ※※※※※




 心の塔をトウカと歩くことは随分と久しぶりに感じられた。


 エントランス頭上に入り組まれた渡り廊下、その一つにシヅキとトウカは立っていた。足場は結構広いくせに、視界が真横まで開けているものだから常に浮遊感に襲われる。高いところが苦手なソヨであれば悲鳴の一つでも上げたかもしれない。


 シヅキはそんな廊下のちょうど中央あたりでゆっくりと眼を閉じた。そして頭の中でイメージを働かせる。それは煙に似たナニカ……魔素の形……意志を飛ばす、そのことだ。ホロウ独自の伝達手段である通心がちょうどソレに近い。


 そうして、音もなく眼にも見えず。しかし確かに達成のされた事象……それは扉の“呼び寄せ”であった。複雑な模様なんて何一つない実に無機質な真っ白な扉が、廊下の中央という実に似つかわしくない所へ現れた。それは他ならぬ心の塔が持つ性質だった。


 そのドアノブを握ったシヅキは、しかしすぐには開こうとせずに後ろを振り返る。


「……ん? どうした、の? シヅキ」

「いや、その……体調は大丈夫なのか? 外になんか出ちまってよ」


 おそるおそるとシヅキが問いかけると、トウカは口元に手をやり、くすくすと笑った。


「平気、だよ。別に体調がどうとか、じゃないから」

「でもお前、ずっと眠っちまっててよ」

「今は平気……平気、だから。 ――だから行こ? 私たち、は見つける必要があるの」


 そのように言ったトウカはシヅキの袖をギュッと掴む。細められた琥珀の眼からシヅキはすぐに視線を逸らした。


「……ああ」


 決して抵抗のできないその視線にシヅキは突き動かされ、ついに扉を開いた。 ……漠然とした不安感をその表情に滲ませながら。


(今は、か)




 ――扉の先に広がっていたのは渡り廊下なんかではなく、強く圧迫感を感じる空間だった。


 とは言うものの、そこは狭い空間ではない。むしろ横にも縦にも広い大部屋だ。ではなぜ圧迫感を感じるかという話だが、それは膨大な量の本が詰め込まれているせいだろう。 ……ここは大図書館。心の塔の役割の一つである“記憶と記録の保管庫”、その筆頭だ。


「わぁ……」


 そこに足を踏み入れたトウカは、ずっと向こうまで続く巨大な本棚の群れに感嘆の溜息を漏らした。


「すごい……ここに、人間とホロウの全てが、詰め込まれているんだ……!」

「全てかは知らねェけどな。ほら、トウカに渡した植生の本もここにあったやつだ」

「わぁ……わぁ……わぁ…………」

「聞いちゃいねぇ」


 右往左往へとそのキラキラした視線を飛ばすトウカに、シヅキは呆れの溜息を吐いた。知識を蓄えることが何よりも好きだったサユキならあぁなるのも頷けるが、トウカはそうではないだろうに。


 そんな彼女を視線の端に捉えつつ、シヅキも本のタイトルをつらつらと見ていく。しかしそれは何気のない行動ではなく、意味のあるものだった。


 先ほどトウカが言ったその言葉を思い出す。


 

『私たち、は見つける必要があるの』


 

 そう、シヅキたちも探しにきたのだ。生命とホロウが共存する世界……それを実現するための方法を。その足掛かりとしてまずは人間が何をしたのかを知る、記憶をさかのぼる。監視者であるシーカーですら見つけられなかったナニカがあるのではないか、とそんな淡い期待を込めて。

 

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