第101話 これはそういう物語だ。


 土埃と自身の体内魔素に塗れたコクヨがシヅキへとすがる。外套を掴む華奢な手に力がこもり、血の通わない血管が浮き出た。


「ワタシはホロウがホロウを尊重する世界を構築したいだけなのだ。そこに命が……光があってはならない。陰と鬱で満ちた黒の世界……今よりもずっと闇に満ちた世界だ。しかしそこには――」

「コクヨさん」


 小さく名前を呼んだシヅキ。彼はただ、ゆっくりとその首を横に振ったのだった。


「そこにトウカは居ないなら、俺は肯定できねえよ」

「……ああ、そうか」


 呆気なく、コクヨは引き下がった。シヅキの答えを分かっていたのかもしれない。彼女はずっと外套を握っていたその手を離すと、闇空へと向けて伸ばしたのだった。


 彼女の琥珀の瞳から、涙が溢れてくる。


 

 ………………。



「俺は、俺はよ。トウカの眼が好きなんだ。琥珀に透き通ってて綺麗で……アレは光を見ているんじゃないかって思う。だから俺は惹かれたんだ。自分の望みをちゃんと持っていて、ソレを叶えるために歩いているあいつがずっと羨ましかった」

「……ワタシのコレも、同じモノだと言うか?」

「きっと出会うタイミングの違いだけだったんです。トウカを知る前にコクヨさんのことをちゃんと知れていたなら、俺はきっとあんたを選んでいました」


 静かに立ち上がったシヅキ。そして異形に果てた腕を、弧を描くようにしてゆっくりと動かした。ソレが最後に行き着いた先とは、コクヨの首元である。


「俺さ、頭悪いからよ。あんたを選ぶのが道理なんだろうけど……出来ないんです。トウカは俺を頼ってくれて……俺ぁそれに応えたい」

「……狂うてる」

「ごめんなさいコクヨさん。俺ぁあんたのことを今でも尊敬しています」


 腕を振り上げた。重心が上方向に一気に動き、身体がぐらつく。重みが重い。なんて重いのだろうか。


 その光景を見たコクヨは、自身の瞳を閉じたのだった。その意図とは何なのだろうか? 自身がころされることへの諦めか、あるいは瞼の裏に楽園を描いているのだろうか。 ……あぁ、きっと後者なのだろう。

 

「最期に一つだけ、言伝があります。 ――お身体には気をつけて、と」

「……エイガ、か」

「コクヨさんはありますか?」

「ヒヒ! フヒヒ! ………………無念だ」


 

 ――“コクヨ”というホロウの最期の言葉は、そのようなものであった。

 


 霧散し、立ち昇る魔素。闇空に融けてしまう魔素の末路とは一体何なのだろうか? そのような答えの分からない問いが、頭の中に浮かんだ。


 間も無くして、シヅキは今までに経験したことのない妙な感覚に襲われた。それが解読の能力だということをすぐに理解する。


 そこでシヅキは、口下手な彼女のことをいたく知ったのだった。


 もとのコクヨとは人間を畏怖していたこと。

 密告により人間の罪を知り、怒りにまみれたこと。

 それから人間の“根絶やし”を心に誓ったこと。

 初めて同族をころした時、大きな自責の念に苛まれたこと。

 知恵の種インデックスの発芽の為に、何十という単位のホロウをころしたこと。

 魔人あるいはホロウを複製できる者に出会ったこと。

 精神が擦り切れ、歪な笑い方が悪癖となったこと。

 同様の理由で、自身が裁かれる悪夢が習慣化したこと。

 本物の虚ノ黎明を追い、辺境区へとやってきたこと。



 犠牲に次ぐ犠牲。重ね続けた罪。その全てをコクヨは忘れたことの無かったのだ。 ……だからどうだって、そういう話ではないのだが。


 シヅキはその場に膝をついた。嗚咽と涙。叫声を上げた。


 もっと他にやり方はなかったのだろうか? 俺たちとコクヨさんは分かり合えなかったのか? 犠牲を生む方法以外にも何か……策はあったんじゃあないか?



 ――例えば、トウカかコクヨ……どちらかが自身の望みを諦めてしまえれば。



「……出来る訳が……無えだろ」


 涙でぐちゃぐちゃになった視界に右腕が映る。望みを諦めることの無謀さなんて、自身が一番分かっているのだ。



 ――1秒でも長く、トウカの傍に居たい。



 その願いのために、一体誰を捨て置いた? その捨て置きへの後悔はあるか?



 人間の罪……つまり、自身の望みの為にその他あらゆるを犠牲とする在り方を、人間の罪の化身である“ホロウ”はなぞっていることに、頭の悪いシヅキはようやく気がついたのだった。

  


 

 そう。これはそういう物語だ。



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