第38話 目覚め


 真っ黒な闇の中で眼を覚ました。


 普段、生活を送っている闇空の下。そんな世界とは比にならないほどに暗い闇だ。上下左右すら曖昧な空間はひたすらに静寂だった。


 ――なんだここ。


 戸惑いながらも辺りを見渡す。しかし、一切の視覚が効かない闇の中では意味を成さない。

 

 しばらくその場に立ち尽くしていたが、それで何かが起きるわけでもなかった。仕方なく、歩いてみることにした。


 1歩、また1歩と足を進める。その度にカツ、カツと足音が響いた。その反響音がこの闇には何もないことを強調しているようだった。


 ――気味が悪いな。


 やはり暫く歩いてみても、何かが起きるわけではなかった。溜息を溢し、再びその場に立ち尽くす。


 なぜ自分はこんなところにいるのだろうか? どうも意識が曖昧で、思考が働かない。ただ自分から何か行動をしたところで、この闇の中からは抜け出すことは出来ないのではないか? と直感的には思った。


 ……そう。は、だ。



 ズズズズズズズズズ



 その時、身体が一気にひり付くような感覚に襲われた。この感覚には嫌なほどに覚えがある。そう、魔人が近くに居る合図だ。


 考えるよりも先に、反射的に身体が動いた。体内の魔素を脈立たせて、応戦を試みようとする……しかし。


 ――魔素が……回らない!?


 明らかな異常だった。いつもとは異なる変な世界の中に居るせいだろうか? 自分の身体を制御出来ないことに気がついた。


 焦燥に駆られながら齷齪あくせくとしている間にも、ノイズは段々と大きくなってくる。間も無くして、周囲一体が濃いノイズ反応で囲まれてしまった。


 ――くそ! んだよこれ!?


 相変わらず空間は闇のままだ。何も見えず、何も聞こえない。ただノイズだけが身体を大きく蝕んでいく……


 ただ、いつまでもそのままという訳ではなかった。自身が発したものではない音が聴こえてきてたのだ。


「…………」


 何の音かは分からない。ただ、物音の類いでは無さそうだった。掠れ掠れのその音の最中には息が混じっていた。 ……つまり、声だ。


 ――魔人が発したもの?


 再び声が聞こえてくる。


「………イ」


 だんだん鮮明になってくる。


「……シイ」


 大きく衝撃を受けた。


 ――言語を話そうとしているのか!?


 魔人は、魔人特有の声を発する。それはホロウが普段遣いする言語とは程遠いものだ。だからこそ、耳を疑わざるを得ない。


「クル……シイ」


 ――苦しい?


 男か女かも判別できない声だった。それを認識してからというもの、あらゆる方向から、いくつもの声が一斉に降りかかってきた。



「クルシイ」「ツライ」「ダルイ」「シンドイ」「ユルサナイ」「シニタイ」「タスケテ」「シンデクレ」「オワリタイ」「オワレナイ」「ナニモナイ」「カワイタ」「オナカヘッタ」「アツイ」「サムイ」「オモイ」「コワイ」「カエシテ」「カエリタイ」「クライ」「イタイ」「トホウモナイ」「ジカンガナイ」「ジカンシカナイ」「ナニモナイ」「ヒトリダ」「サビシイ」「キボウガナイ」



 ――やめろ。


 止まない。



「センソウ」「デンセンビョウ」「テロ」「ジサツ」「キガ」「フサク」「ジシン」「カサイ」「ツナミ」「サギ」「ドレイ」「スリ」「コロシ」「イジメ」「ムシ」「ボウリョク」「リョウジョク」「オセン」「ゼツボウ」「ゼツボウ」「ゼツボウ」「ゼツボウ」「ゼツボウ」



 ――やめろ!!!!!


 止まない。いくつもの負の言葉が浴びせ続けられる。制止の声を叫んでも、耳を塞いでも……何一つ変わらない。


 ――やめろ、やめろ。


 何度も、何度も繰り返す。無数の声は、それでも増え続け、闇に覆われた空間は完全に支配された。


 反響を続ける声の圧に耐えきれず、その場にうずくまる。身体の自由は効かなくなってしまった。


 ついに自分の中のナニカが決壊し、弱々しく呟いた。


 ――何なんだよ……お前ら。


 ふと、すぐ傍にナニカの気配を感じた。耳元に誰かが居る。しかし、石のような身体は全くといっていいほど動かない。


 何も抵抗できず、為す術はなく。その気配はゴソゴソと動いた。耳元で言葉を囁いたのだ。





「ナニモシラナイクセニ」






「ああああああああああ!!!!」

「うぉ……ビックリしたなぁ」


 激しい動悸と共に、シヅキは眼を覚ました。


 肩で息を繰り返しながら、辺りを見渡す。すぐに真横に居る見知った存在に気がついた。


「ヒ……ヒソラ?」


 そこにいたのは頭身がやけに低いホロウ。性別は男だが、他と比べて声も高く、背も小さい。故に一目見れば誰か分かるくらいには印象的なホロウ……ヒソラだった。


「うん。僕だよ。おはよう、シヅキくん」


 自身の胸元あたりで手を小さく振ったヒソラ。その顔に親しげな笑みを浮かべていた。


「医務室か……ここ」

「そだよー。さすがシヅキ。状況把握が早いね」

「……じゃああれは夢だったのか」

「あれって?」

「いや、今はいい」


 シヅキが軽く首を振ると、ヒソラは口元をへの字に歪めた。


「シヅキくん、ここ数時間くらいずっとうなされていたよ? いくら夢でも、現実の身体に影響は出てくることもあるんだ。話してみてよ。一応、ボク医者だし」

「……」


 シヅキはヒソラのことが苦手だった。毎回話すたびに会話のペースを握られてしまうからだ。ヒソラの指示には逆らえない……とまでは言わないが、どうも従う癖のようなものが身についてしまっていた。


 ハァ、とシヅキは溜息を吐いた。思い出したくない記憶を掘り返し、出来るだけ細かくヒソラに伝える……



………………。



「――って感じだ」

「なるほどねぇ」


 両腕を組み、ウンウンと頷いたヒソラ。シヅキには、まるでそれが心当たりのあるように見えた。


「なんも分かんねーだろ。こんなの聞いたって」


 吐き捨てるように言ったシヅキ。しかしながら、予想に反してヒソラはかぶりを振った。


「……いや、特定のホロウには起こる症状だよ。稀なケースだけどね」

「特定の……ホロウ?」

「言い方がクドイかな。ホロウの中にはそんな夢を見る個体も居るってこと」

「病気の類いか?」

「んーーー言い切れないかな? サンプル数が少ないから。でも、僕が知っている限りはその系統の夢が、身体に影響を及ぼしたことはないね」

「……そうか」


 ヒソラの言葉を聞いても、シヅキの表情は晴れなかった。ただ悪夢を見るだけ……だったら良いかとは割り切れない。


「ま、心理面でのサポートも行うことはやぶさかじゃないよ? 医者だし」

「別に、んなやわじゃねーって。 ……それより、俺の身体はもう治っちまったのか? 魔素の過剰利用だろ」

「完治はしてないよ。ボッロボロだったからね。暫くは絶対安静だよ」

「……分かった」

「まぁ、傷の具合で言ったらトウカちゃんよりは――」


 トウカ。その言葉を聞いた瞬間、シヅキの身体がビクリと跳ねた。


「トウカ……そうだ。トウカはどうなったんだよ!?」


 ベッドに横たわっていた身体を無理に起こし、ヒソラの両肩を強く掴む。


「おぉ、ビックリしたなぁ。トウカちゃんなら……あっち」


 ヒソラは人差し指を自身の首元に寄せた。それが指していたのは部屋奥のスペースだ。


「話は後だ」

「ちょっと! あんまり無茶は……あぁ、もう」


 ヒソラの注意の声を聞くことなく、シヅキはベッドから飛ぶように降りた。身体を引き摺り、部屋奥の空間を目指す。


「んだこれ……重い」


 全身に重りでも纏っているように、身体は自由が効かなかった。地面に押さえつけられる感覚がシヅキを襲う。それでも、歯を食いしばり歩を進めた。


 1歩、2歩、3歩。眼前に現れたのは、巨大な布で仕切られた小空間だった。


「〜〜〜〜〜〜」


 近づくと、小空間からはくぐもった声が聞こえてきた。中に……誰かが居る。脚を懸命に引き摺り、シヅキはついに布へと手をかけた。


 シャッ


「ちょっと誰……シヅキ!? 眼を覚ましたの!?」


 勢いよく布を引いたシヅキ。するとそんな驚嘆の声が飛び込んできた。


「……ソヨか」


 普段の制服ではなく、私服を着たソヨがそこには座っていた。驚き半分、呆れ半分の声で彼女は言う。


「あんた……急に開けないでよ。デリカシー考えて!」

「説教は後で聞く。 ……それより、トウ――」

「シ、シヅキ」


 凛とした、しかしながらどこか頼りのない声。聞き覚えのある声が聞こえた。ハッと息を呑んだシヅキ。ソヨに合っていた焦点をゆっくりとズラした。



 ――琥珀に透き通った大きな眼。筋の通った鼻筋、僅かに紅潮した頬、薄桃色の唇。そして……白銀色をした長い髪。



「あ……」

「急に現れるから、ビックリしちゃった。でも……良かった、シヅキもちゃんと眼を覚ましたんだね。私もちょっと前に起きたばかりで、あんまりよく把握できていないんだけど、ソヨさんが色々と話してくれているとこ…………わっ!」


 その少女の声は、途中で小さな悲鳴へと変わった。彼女にとって予想だにしないことが起こったからである。


「シ、シヅキ? ど、どうしたの急に……」


 困惑の声を漏らす少女。一方で、その光景を見ていたソヨは開いた口が塞がらなかった。


「トウカ」

「は、はい……え? な、なに?」

「……良かった」

「そ、それはどうも。 ……ぇっと、急に抱きつかれるとは思わなかった」

「…………」

「な、何か喋って欲しいんだけど」


 右に左に視線を向ける少女……基いトウカ。何を言えばいいのか、何をすればいいのかよく分からない。助け舟を求めようにも、ソヨは固まったままだし、ヒソラはただニコニコと笑みを浮かべるだけだった。


「あー……うぇ……」


 情けない呻き声のみを発し続けるトウカ。彼女が最終的に搾り出した言葉は、何ともまあ他愛のないものだった。



「お、おはよう……シヅキ」


 シヅキの胸の中で、トウカはぎこちなく笑いながらそう言った。

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