第36話 12年越しの決断

あの日以来、真琴は妊娠のことを一度も慎也の前に言及しなかったが、彼女はずっと何かを考えているような顔をしていた。だけど、慎也は真琴からまた問い詰められることを危惧し、何も聞けず見て見ぬふりした。それにも関わらず、真琴は慎也のために飯をいつも通り作って来た。唯一の違いは二人が食事中の会話は前より少なくなった。


実際のところ、これは慎也への当て付けではなく、ただ真琴の体調が優れないことが原因であった。食欲が無く、だるさや吐き気に襲ってきたから、機嫌もよくないのは当然だった。一歩の慎也は自分がどうしたらいいかを分からないかったし、子供のことについても自分なりの結論がまだ出していない。


ある平日の朝、つわりがあまりにも酷くて、真琴は仕事を休むことになった。辛そうな彼女がベッドに横になったところを見た慎也は、彼女に声をかけた。


「真琴、大丈夫?顔色が悪いぞ。」

「大丈夫、つわりが酷いだけ、ちょっと休めばよくなるから。もう遅いし、早く仕事へ行って。」

「病院に連れていた方がいいかな?」

「私は大丈夫だから、仕事へ行って。」


真琴は慎也の援助や同情などが今さらになってもう要らなかった。あの夜の会話で深く傷づいて、真琴は慎也にかなり失望した。いくら今結婚したくなくても、そう簡単に子供を諦めるのような発言は、お腹にいる我が子に愛情なんか微塵も感じられなかったでしょう。それに、直接に言ってないけど、子供が出来たのは自分の責任ではないという考えをどうして許せなかった。


てっきり慎也は仕事へ行ってきたと思ったけど、真琴は寝てる間にキッチンからいい匂いを嗅いだ。ダルそうな体を起こしキッチンへ向かったが、まさか慎也はそこにいた。


「どうしてここに?仕事は?」

「有給を取ったから。お腹すいた?」

「何で?」

「何が?」

「仕事を休むって、体調が良くない時でも休まないでしょう。」

「あなたはあんなに苦しそうだから、一人にさせたくない。ほうれん草スープを作ったから、ちょっとだけでも飲んでみたら。それと、後で一緒に産婦人科へ行こう。つわりのことに何とかならないか先生に聞いてみよう。」

「ほうれん草スープのこと、誰が教えたの?」

「晴夏に電話した。あなたと産婦人科へ行った時、先生から言ったでしょう?つわりが酷い時、野菜スープとか消化しやすいものを食べた方がいいって。丁度冷蔵庫にほうれん草があって、作り方も比較的簡単だって。」


真琴をダイニングチェアーに座らせ、慎也は温かいほうれん草スープを彼女の前に運ばれてきた。真琴はスープを啜りながら、涙目になったけど、必死にそれを慎也に見せたくなかった。その姿を見た慎也は、真琴の左手を優しく握った。


「ごめんなさい、あんな酷いことを言ってしまって。俺はただ動揺して、どう反応すべきか分からないだけど。それでも、あんな無神経なことを言うべきじゃない、俺が悪いことをした。」


しかし、真琴は何も言わずにただ下を向いていた。


「子供を要らないなんて、俺はそう考えていないからな。もし真琴はそうしたいなら、この子を産もうよ。そして俺たちで一緒にこの子を育てよう。」

「結婚したくないでしょう?そんなに早く家庭を持ちたくないでしょう?」

「計画より早かったけど、この子は神様から俺たちへのプレゼントだし、それに結婚相手はあなたしかいない。だからこれは元々するようなことを早めにやるだけだ。真琴こそ、まだ26歳なのに、今俺と結婚してもいいの?」

「それプロポーズなの?」

「今は花と指輪がないだけど、強いて言えばこのほうれん草スープを使って、プロポーズしようと思う。それでもいい?」

「酷いよ、いきなりこういう大事な質問されて、しかも涙が溢れてる状態で…」


慎也は真琴の前にひざまずいて、真剣な表情で彼女の顔を見つめていた。


「岸真琴さん、私窪田慎也と結婚してください。これから笑顔が絶えない家族を一緒に作ろう。」


しばらくしたら、真琴は手で自分の顔にある涙を拭いて、慎也に答えた。


「はい、よろしくお願いいたします。」


二人は笑顔になり、お互いを抱きしめていた。この瞬間、二人は信じていた。一緒に幸せな家族を作れるということを。


2018年12月24日・クリスマスイブ・静岡


真琴は未希のベッドの隣に座り、彼女の寝顔を見ながら、12年前にプロポーズされた時のことを思い出した。


あの時は本当に幸せになれると思っていた。


でも、結婚を決めたから、いろんな試練が二人を待っていた。


*2006年・夏 ~


結婚報告をするため、慎也は初めて真琴の実家訪ねて行った。そもそも、真琴の父は娘が同棲していた彼氏がいるなんてすら知らなかったし、いきなりできちゃった婚を知らされて、当然慎也にいい顔を見せなかった。しかし、今更反対したくてもできないし、それに反対しても真琴は父の言うことを聞かないだろうと分かった。仕方なく、真琴の父は嫌がっていた顔で娘の結婚を了承した。真琴の母は慎也の存在をずっと知っていたため、娘が結婚したいならそれでいいと応援した。


慎也の家族はすでに真琴のことをよく知っていて、彼女がようやく窪田家に入ることをすごく喜んでいた。しかし、両家の顔合わせの際、真琴の父さんの態度はあまりよくなかった。それで慎也は自分の家族が見下されたことを感じて、これから仕事で自分は真琴に相応しい結婚相手だと証明したかった。


7月に結婚届を出した二人は、なるべく早く簡単な結婚式を済ませたいと思ったが、結局岸家の意向でもうちょっと涼しくなる秋に挙式することになった。慎也は仕事で忙しく、真琴も妊娠中で体調がよくない時が多くため、それで晴夏は親友のために結婚式の準備を進んでいた。そして、10月上旬、両家の家族、晴夏の家族と新郎新婦の親しい友人しかを招いて、東京で結婚式を無事に挙げた。陸翔も二人の結婚式に参加したかったが、周りが騒がれて式に悪い影響を与えたくないと思って、結局新郎新婦と結婚式前に晴夏の家でお祝い会をすることになった。


真琴は妊娠で体調がよくないため、今年の一級建築士の試験を断念するになり、結婚式の後も寿退社をした。そして彼女はしばらくの間育児に専念した。今住んでいるところは家族3人にしてちょっと狭すぎると思い、慎也はある新築のタワーマンションで新居を構えた。今の収入ではローンの返済はちょっときついかもしれないが、いずれ自分の収入が増え、真琴も職場復帰したら何とかできると思った。


そして、二人の長女・未希は2007年の1月に生まれた。


初産だからかもしれないが、真琴は10時間をかけて出産を挑んだ。慎也は何もできなくて、ただそばで真琴の手を握り締めて、励ましをして、声をかけるぐらいだった。自分の無力さを痛感し、そして真琴の勇敢な姿に感心した。幸い、生まれてきた未希はすごく元気で、夜泣きもあまりしないことは二人にとって非常に助かった。


しかし、幸せな日々が続くことができなかった。


慎也は仕事で次々と成果を出して、出世することになった。でも、それには代価を支払わなければいけなかった。慎也の帰りはどんどん遅くなって、時には数日間一度も家に帰らなかった。真琴は彼が仕事で自分の実力を証明したいという思いを理解していたが、未希の成長過程にあまり参加しなかったことに不満を感じた。


真琴自身が経験したように、自分の親に無視されていたことはどれほど傷づくか、一番理解していた。だから、未希に同じ目に会わせたくなかった。慎也はこのまま仕事に夢中すると、未希との関係は次第に悪くなるでしょう。今のところ、未希はあまり父親と会っていないため、二人にはすでに距離感ができてしまった。未希は3歳まで慎也に遊ぼうとかを言い出して、甘えていた時もあったけど、彼はいつも素っ気ない態度で娘のお願いを応えようもしなかった。拒否され続けた未希は、慎也とはあいさつ交わしたが、それ以上のことを言わなかった。一方の慎也も、娘のことを全部真琴に任せきりで、未希についてあまり聞こうともしなかった。


状況改善をするために、未希を保育園に通わせ、自分も建築士の仕事を再開しようと言い出した。それなら、慎也はもう遅くまで仕事をしなくてならないし、もっと余裕ができたら、未希ともっと一緒に過ごせるでしょう。


しかし、慎也から見れば、妻が外で働くことは自分のプライドとしては許さなかった。結婚当初から今まで、真琴のお父さんは一度も自分にいい顔を見せなかった。今になって、もし真琴は建築士の仕事が再開したら、きっとお父さんは慎也の収入だけじゃ家族を養うことができないと思うだろう。


しかし、真琴の仕事復帰にはそういうこととは関係なく、あくまでも未希と慎也のためだった。散々言い争った結果、真琴は前の事務所に戻り、未希を保育園を通わせた。それから、真琴は未希が小学生になった前に、ようやく一級建築士の資格を取った。


未希と慎也の関係が改善しないまま、数年が立った。慎也は未希にとって重要の節目を一度も参加しないし、聞こうともしなかった。一方の未希は慎也が家にいたら、ずっと黙り込んでいて、彼がいない時だけはいつもの明るみを出した。それについて、真琴は未希に聞いた時、帰ってきた答えがとても悲しく感じた。


「パパは私のことを嫌いかな。だから、私と一緒にいたくないでしょう。それで、パパが家に帰ったら、私はどこかへ消えたいの。話をしないし、パパの前に現れないなら、パパも喜ぶでしょうね。」


真琴自身も限界が近づいていると感じた。自分がどんなに慎也と未希の関係を修復しようとしても、慎也の姿勢あまりにも協力的とは言えないし、彼は仕事に夢中する状況が依然より深刻した。事務所の上にあるホテルで長期的に部屋を取ったことから、よっぽど家に帰りたくないでしょう。結婚当初一緒に作り上げたこの家は、もはや彼にとってやすらぎの場所ではなくなった。だから、自分は時々思う、結婚しているのに、自分はシングルマザーみたいに一人で未希を育てた。


「これから笑顔が絶えない家族を一緒に作ろう。」

「俺たちで一緒にこの子を育てよう。」


自分が誓ったのに、何一つもできない。窪田慎也、この嘘つき。


自分の不満を慎也に見せつけようとして、頻繁に未希を連れ出して、旅行や実家へ帰ることが多くなってきた。しかし、慎也は二人が家を出たことすら気付かないし、探しもしない。いずれ帰ってくるだろうと確信があって、慎也は自分が思うままに生きていた。


真琴がようやく決心がついたきっかけは今年の夏の出来事だった。



2018年7月 東京


11歳になった未希はもう小学生6年生になって、来年は家の近くにある公立中学へ進学する予定だ。しかし、小学でずっと悩まされたことがあって、どうしても真琴に打ち明けられなかった。


慎也は一度も未希の学校行事に参加したことがないので、未希の周りの友達と保護者たちは時々彼女が母子家庭の子ではないかと密かにおしゃべりをした。そんなことを知ってでも、未希は一度も真琴に言わないのは、真琴を悲しませたくないと思ったから。自分にはちゃんと父親がいるのに、自分でさえ彼と会う回数が限られていた。だから、周りがそう誤解しても、未希はある程度納得できた。


しかし、夏休みの前のある日、未希がついに耐えられなくなった。おしゃべりした同級生の中に、真琴のことを馬鹿にして、そして彼女は何か悪いだから夫が逃げられるじゃないかと楽しく談笑していた。自分のことをどう言われてもいいけど、未希は自分にとって一番大切な母親の悪口を耐えられず、その同級生と喧嘩になった末、未希は突き飛ばされて階段から落ちてしまった。


学校からの知らせを受けた真琴はすぐ病院に駆けつけ、救命救急センターから慎也に連絡した。しかし、彼からの返事は真琴をどん底に突き落としたように冷たかった。


「これからとても大事な会議があって、終わったらすぐに行く。」

「未希はまだ緊急手当てを受けているのに、まだ仕事をする気?」

「俺は医者でもないし、いても何もできないだろう?とにかく、後で連絡する。」


電話が切られ、真琴は苦笑しながら涙が溢れた。


これって、12年前と同じじゃない?あの夜、慎也に妊娠のことを話してた時も同じような答えだった。真琴は自分が慎也を待ち続けることがどれほど愚かだったかと気づいた。もう目を覚まそう、窪田慎也にとって一番大切なのは自分と未希じゃない。最初は自分と未希のために必死に働いていたが、いつの間にかその初心を忘れ、家族を無視し仕事へ逃げてばっかりになった。


「もう期待しないでよ、彼は最初からそうだった。自分さえ良ければ、他人はどうでもいい。」


連絡を受けた晴夏はすぐ病院へ行って、真琴を支えていた。もっと驚いたのは、大スターである陸翔は周りが騒いでいることを気にせず、晴夏と一緒に来てくれた。陸翔は未希が生まれてから頻繁に遊んでくれたので、未希は彼になつていて、お互いの呼び名を「みっちゃん」と「りっちゃん」になっていた。血縁のない陸翔でさえ未希の容態を心配してくれたのに、実の父親である慎也の態度ってあまりにも冷酷だった。


幸い、未希は軽い脳震盪で一晩入院観察を受ければ、次の日に退院できた。結局、慎也はまた徹夜で仕事をして、そのまま事務所に残ったから、未希と会ったのは退院の二日後になった。その夜、真琴がもう一度慎也に離婚の件を切り出したが、彼は彼女の決心を甘く見ていて、無視することになった。


自分はどうであれ、真琴は未希がけがした原因は慎也に関係していると知って、もう我慢できないと思った。それで、彼女は着々準備を進めて、未希を連れて静岡へ戻ることを決めた。


2018年 クリスマスイブ


慎也からの不在着信はすでに30件以上が入って、真琴は音を立てずに未希の部屋から出てきた。庭にあるベンチに座り、真琴はようやく慎也の電話を出た。

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