第5話 頼朝という男【前】



「義経様、いらっしゃいますか?」


 にっこり笑顔で尋ねた郷子さとこを、振り下ろされた棍の一撃が襲う。それを軽く飛んで躱す郷子に、頼朝はにやりと笑みを浮かべて棍を構え直した。


「なかなかやるな、河越郷子……だが、俺に秘奥義完膚魔殺は流石に避けられまい……」

「幼稚園児相手に何やってんの!?」


 玄関先で繰り広げられる攻防を目にして、義経が全速力で居間から飛んできた。義経の姿を目にすると、郷子はにっこり可愛らしく笑う。


「おはようございます、義経様」

「おはよう、郷子」


 源家のお隣さんである河越家の長女は今年で五歳。頼朝とはなかなかに物騒な攻防を繰り広げることもあるが、義経にとっては男三人兄弟の日常の唯一の癒しである。

 ぶーたれる頼朝をどついて武器を仕舞わせ、義経は鞄を肩にかけて靴を履いた。


「おい、義経。急がないと遅刻するぞ」


 居間から範頼が顔を出す。


「範兄ちゃんこそ、今日は遅刻だよ」

「夕べ遅くまでお前の宿題やらされてたせいだろーが!」


 自分でやれ、そしてもっと早く出せと憤る範頼と、その言葉を聞き流す義経を恨みがましい目で見つめ、頼朝が呟いた。


「二人とも行っちゃうのかー……」


 どよどよと黒い蛇のようなオーラをまとわせて三和土に正座する頼朝の迫力に、ビクビクしながら範頼が言う。天下人の負のオーラ怖い。


「え、ええ行きますよ。一応、学生ですから」

「そっかー、そうだよなー……」


 度を超えたブラコンの頼朝にとって、平日の朝は何より辛い時間帯なのだ。義経は中学へ、範頼は大学へ行って夕方まで帰ってこない。


「仕方がないから、この小さな物体と一緒にホラー映画でも観るか……」

「頼朝様! 郷子も幼稚園……っ」

「僕ら今、遊んでる暇ないんだよ兄さんっ! 郷子返して!」


 素早く郷子を抱え上げて拉致しようとした頼朝を、義経が必死で引き止める。

 源家では毎朝だいたい同じような光景が繰り広げられる。ので、弟二人は遅刻常習犯である。




 義経達が慌ただしく出ていった姿を遠くの垣根の陰から眺めていた教経は、頼朝が家に一人になったのを確認してほくそ笑んだ。


「くっくっく……何も知らずに登校しやがったぜ。この平教経様が学校サボって貴様の家の前にいるとは夢にも思うまい」


 サボったという言葉通りに、教経は制服ではなく動きやすい私服である。今日の教経にはある目的があった。


「これであの家には頼朝一人! さあ、スパイ活動開始だ!」


 意気揚々と、背後にいる相手に向かって呼びかけた教経だが、背後からは何の反応も返ってこない。無表情のまま佇む相手に、教経は傍に寄って口元に耳を近づける。

 そこでようやく、ほんのかすかに声が聞き取れた。


「え?「勝手にこんなことしたら忠度様に怒られるぞ」って? あのね、通盛みちもり兄さん、シャイなのは知っているけど、もう少し大きな声で話そうね」


 源家の兄は相当の変わり者だが、こちらの兄もなかなかのものである。無口というレベルを超えている。これで果たして自分以外の人間とのコミニュケーションが取れているのだろうかと、教経は実の兄の日常生活が心配になった。

 ともあれ、通盛教経兄弟は首尾よく源家への侵入を果たす。平家の屋敷は呆れるほど広大だが、源家は普通の一軒家である。住んでいるのも兄弟三人だけだ。他の源氏や臣下がどこに潜んでいるのか、教経は知らない。


 他にも色々、源氏については謎が多い。特に、頭領頼朝は得体が知れない。これまでこちらが差し向けた刺客のことごとくを退けてきたというのは知っているが、源氏側からこちらへ仕掛けてきたことは教経の知る限り一度もない。先日、義経とは相見えたが、頼朝とはまだ一度も相対したことがない。


「やっぱ、相手の総大将は間近で見ておくべきだよな」


 大義名分を掲げて、風呂場の窓から侵入した教経は、慎重に廊下を進んで薄く開いた扉から居間でテレビを観ている頼朝を眺める。弟の一連の手慣れた侵入手口に少し不安になった通盛だが、無口なので口には出さない。

 そんな風に覗かれているとは知らず、頼朝はニュースを観ながら茶をすすっていた。


「なるほど。あれが源頼朝か」


 実物を見たのは初めてだ。前世でも見たことがなかった。義経とは似ても似つかない絶世の美形だが、のんきに茶をすする姿からは、かつて関東武士軍団を率いて天下を統一した猛々しさは感じられない。


「頼朝の奴、しばらくは動かなそうだな……先に家捜ししてくるか」


 教経はそう呟いてそーっと移動し始めた。本日は戦いが目的ではないので丸腰である。もし見つかったら通盛の御霊の力で逃げるつもりだ。

 源氏の頭領と戦ってみたいという欲求はあるが、今はまだその時ではない。


 楽しみだ。その時が来るのが。


 ふつふつと湧き上がってくる高揚心に、教経は口の端を引き上げた、





 茶を飲み終えた頼朝は、ほっと息を吐いて時計を見た。


「……そろそろ行くか」





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