第3話 天狗の目覚めた夜の事【前】



***



 帰宅した義経は国語便覧と歴史の教科書を畳の上に広げて頭を抱えていた。細かい字を読むのは何より苦手なのだ。


「……っと、あった! 平教経」


 昼間相見えた相手の名前を見つけて、義経はそのページを声に出して読んだ。


「能登殿の最期……平教経は平家一の勇猛な武将で、壇ノ浦で義経に迫るが打ち取ることが出来ず、敵を道連れに海に飛び込み死亡した……」


 昼間の相手と自分は前世で戦っているらしい。よりにもよって平家一の武将が転生して一学年下に入学してくるとは。義経は運命の不思議さを嘆きたくなった。


「これで、あの学校にいる平氏は二人か……」


 もう一人はともかく、教経には要注意だ。いつ何時仕掛けてこられるかわからない。かなり好戦的に見えたし、間違いなく強い。実際、義経は手も足も出なかった。ただ、殺気を持っていないことは不思議であるが。


(そういえば、御霊みたまの力って初めて見たな……)


 江三郎を弾き飛ばした時、教経は義経と斬り結んでいる真っ最中だった。だというのに、人一人吹き飛ばせるほどの余裕があったということだ。

 義経は自分の手のひらをじっと見つめた。

 自分達の御霊の力は封印されていると頼朝は言った。その時が来れば封印は解ける、とも。

 しかし、平氏側には教経のように御霊を使える人間が存在するのだ。だというのに、自分達を殺そうとしないのは何故だ。


(訳がわかんないな……そういえば、教経も訳のわからないことを言ってたな……天狗がどうとか……)


 その時、異様な気配を感じて、義経はハッと振り向いた。

 しっかり閉めたはずの襖がわずかに開いて、そこから見慣れぬ人影が覗いている。それが生きている人間でないことはすぐにわかった。

 ザンバラの髪、触れるとザラザラしていそうな茶色い肌、首に巻きつけられた布地に太いマジックで書かれた「おばけだぞ〜」の文字。


「何の用なのさ、兄さん!?」

「飯だぞ」


 麻袋に黒いビニールテープのカツラを被せた即席幽霊の後ろから、頼朝が顔を出した。


「もっと普通に呼びに来てよ!」

「やだよ」

「やなのっ!?」


 兄の奇行には慣れっこの義経だが、慣れることは出来ても理解することは不可能だ。いや、しかし、実は兄のこういうところは嫌いではないが。


「どうした? 元気がないな」


 奇行は多いが察しのいい頼朝に一目で見破られ、義経はギクッとする。

 一瞬迷う。同じ学校に平教経がいることを告げるべきだろうか。でも、言ったところで相手がただの中学生を演じているうちは、こちらからは何も出来やしない。それに、余計な心配はかけたくない。


「なんでもないよ」


 義経はにこっと笑ってそう言った。


「本当か?」

「本当だよ」

「わかった。もしも何かあったらすぐに言えよ」

「うん」

「くだらないことでも何でもいいからな」

「わかってるよ」

「兄さんは何があっても義経の味方だからな」

「ありがと」

「いつでも遠慮しなくていいからな! どんな些細な相談でも24時間受け付けてるぞ! 直に話しにくい場合は襖越しにでも」

「しつっけぇなあ!」


 頼朝のあまりのしつこさに思わず回し蹴りを繰り出してから、義経は部屋を出て階段を下り始めた。頼朝もすぐにその後ろからついてくる。蹴りは完璧に決まったはずなのに、頼朝は一瞬床に倒れただけで即復活したらしい。背後の様子を窺っても、痛がる素振りもまったく見せない。

 もしかしたら、一番化け物に近いのはこの人なのかもしれない。義経は複雑な心境でそう思った。




 義経が兄に回し蹴りを食らわせている頃、その真下の台所では範頼がご飯をよそっていた。炊きたてご飯にしゃもじを差し込んだちょうどその時、玄関の呼び鈴が鳴った。

 こんな時分に誰が来たのか不思議に思いながら、範頼はインターホンを覗き込む。義経よりは少しばかり年上に見える少年が映っているのを確認すると、玄関に向かって扉を開けた。


「はいよ、どちらさん」


 少年はゆっくりと顔を上げて範頼を見た。緊張のせいなのか不機嫌そうに眉根を寄せている。


「義経君、いますか」


 硬い声で少年が尋ねた。


「なんだ、義経の友達かい?」


 範頼は扉のチェーンを外して少年を玄関に招き入れた。


「ちょっと待っててくれ。おーい、義経」


 範頼は階段の方に向かって呼びかけ、少年に背中を向けた。

 少年は右腕を上げて、範頼の首筋めがけて手刀を振り下ろした。


 ガッ


 少年の攻撃は範頼の腕で防がれていた。範頼の手にはいつの間にかクナイも握られている。


「よく、気づいたな」


 抑揚のない声で少年が言った。


「馬鹿にすんじゃねえよ。ノーベル賞もんに胡散臭いんだっつの」


 これでも生まれた時から源頼朝の弟をやっているのだ。これぐらい見抜けなくては生きていけない。

 だが、利き手を範頼に抑えられているのにも関わらず、少年は冷静な態度を崩さずに呟いた。


「だが、甘いな」

「え?」


 その言葉に範頼が反応するよりも早く、


 しゅるるるるるるっ


「なっ!」


 突然少年の背後の暗闇から出現した、幾筋もの白い線が範頼に絡みついた。白い線は範頼の腕にも絡みつき締め上げてくる。


「なんだこれ……紙……?」


 範頼は信じられない思いで自分の動きを封じるそれを見た。まるで生き物のような動きで絡みついてきたそれは、まさしく紙だった。市販の紙テープによく似ているが、強度は比べるまでもない。


「ちくしょう……御霊が使えるのか」


 範頼はギリッと歯噛みした。自分だって本来なら——前世の力さえ取り戻せば、こんな紙など焼き尽くせるものを。


 範頼の動きが完全に封じられると同時に、二人の青年が玄関から入ってきた。左目を眼帯で覆った十八歳くらいのやんちゃそうな青年と、もう一人は二十代半ばくらいの優男だ。

 眼帯の方が解放された少年に声を掛ける。


「おいおい知章。だからもっと愛想良くしなきゃ疑われるって言っただろ〜」

「ふざけるな。貴様らが怪しすぎるから、仕方がなく僕が……」


 知章は不満そうに言う。確かに、狩衣姿の二人から比べれば、普通のトレーナーとズボン姿の知章は怪しまれないだろう。


「おいおい、怪しいとはひでぇな。こんな色男を捕まえてよ」


 眼帯の方が軽口を叩く。その手に範頼を戒める紙の束が握られていることから、紙を操っているのは彼だと思われた。


 その時、階段を下りてきた義経が玄関の異変に気づいて声をあげた。


「範兄ちゃん!?」


 全員が声に反応して義経を見た。知章の目つきがぎっと鋭くなる。


「これはっ……」


 目の前の光景に、義経は一瞬言葉を失う。見たことのない男達。その中心で全身に紙テープのようなものを巻きつけられて倒れている範頼。

 義経には信じられなかった。頼朝ほどではないが充分に強い範頼が、簡単に捕らえられていることが。


「……そういう趣味のお友達?」

「違うわーっ! 敵だ敵っ!」


 信じられないあまりの義経のとんでもない発言に、範頼が突っ込みを入れる。


「敵だって?」


 義経の後ろから顔を出した頼朝が、ぐるぐる巻きの範頼を見て目を剥いた。


「貴様らっ! 俺の可愛い弟になんてことしやがるっ!」

「ふん。源頼朝か……」


 源氏の頭領を前にしても、連中に怯む様子はない。優男と眼帯が目を合わせて頷き合うと、優男の姿がふっと消えた。

 驚く間も無く、背中に衝撃を受けて頼朝は倒れた。その背の上に優男が乗り、腕を捻りあげて動きを封じる。義経の目には、消えた優男が突然頼朝の真上に現れたように見えた。範頼と同じように、倒れた頼朝の体にも細い紙が巻きついていく。


「平宗盛の息子、清宗と申す。弟の能宗の操る紙は人の力では切れないぞ。暴れるだけ無駄だ」


 優男が歌うような口調でそう告げた。


「くっ……よ、義経……」


 自由を奪われた頼朝が苦しげに呻く。


「「兄さん達、捕まっちゃったよ」」


 頼朝と範頼が「後は任せた」とでも言いたげな軽いノリで同じ台詞を言う。


「役立たずっ!!」


 義経は思わず叫んだ。

 その義経の前に、知章が立ち塞がった。




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