源平転生伝 義経神霊記
荒瀬ヤヒロ
第1話 四月八日の出来事【前】
声が聞こえた気がした。
義経は境内を掃く手を止めて振り返った。周りには誰もいない。僧達は本堂で読経の最中だ。こんな山奥に訪れる者は滅多にいない。
気のせいかと思った時、再び声が響いた。
『力が、欲しいか』
その声は茂みの中から聞こえていた。
義経はごくりと息を飲み込んだ。これは、山に棲むアヤカシの罠だろうか。頭の中では危険だと本能が叫んでいた。応えてはいけないとわかっていた。
だが、その声には不思議と抗いがたい魅力があった。
『力が、欲しいか』
力。そう、力が欲しかった。
まるで義経の望みを知っているかのように、声は誘った。
『力が、欲しければ』
その声に導かれるまま、義経はふらふらと茂みへと近寄った。
力が、欲しかった。
***
「ふう」
学ランのボタンを留める手を休めて、義経は呟いた。
「今日から中学二年生か」
去年初めて手を通した黒い制服。一年後の今日、袖を通して実感した。
一年経って、成長を見込んで少し大き目を購入した制服がいまだに少し大き目なのは何故だろう。具体的に言うと、わりとぶかぶかのままだ。全く成長していないだなんてまさかそんな。
義経が物思いに耽っていると、部屋の襖が突然すごい勢いで引き開けられた。
「義経ぇぇぇぇっ!!」
「なっ……なんなのさ頼朝兄さん!?」
この世のものとは思えぬ美貌を鬼の形相にして怒鳴り込んできたのは、兄の頼朝だった。兄の奇行には慣れっこの義経も流石にびっくりする。肩の上の弁慶も心なしか硬くなったような気がした。
「む。すまん。テンション高すぎたか」
弟の態度を見て、頼朝がいつもの涼しげな表情に戻る。長い髪がさらりと揺れて、まるで彼の周りの空気だけはどんな汚染物質とも無縁で清浄なのではないかと思わせられる。そんな吐いた二酸化炭素まで清浄そうな超美形の兄は真剣な表情で弟に詰め寄った。
「義経、今日はクラス替えだろ」
「う、うん……」
義経の通う倉麻中学では、本日四月八日は新学期で入学式だ。
「大丈夫なのか? 新しいクラスで虐められたりしないか? もし嫌だったら学校なんて辞めちゃっていいんだぞ!」
「いや、大丈夫。大丈夫だからホント……」
いきなり極端なことを言い出した兄の迫力に気圧されながらも、義経はなんとか宥めようとする。だが、ひとたびスイッチの入った頼朝はいろんな意味で最強に近い。さすがは元天下人である。
このままでは新学期早々遅刻してしまうと義経が内心焦っていると、救いの神が横から現れた。
「朝っぱらから弟の部屋で何やってんの?」
そう言いながら頼朝の横っ腹を蹴り飛ばして義経を救ったのは、義経の兄で頼朝の弟の
「もう子供じゃないんだから、なあ?」
頼朝とは全く似ていないが、肩を竦めて苦笑いをする顔は爽やかな好青年らしくて魅力的だ。義経にとっては、幼い頃から共に頼朝のブラコン被害を被ってきた同志でもある。
「範兄ちゃん!」
「中学二年生は子供だ!」
助かったーと言いかけた義経を遮り、床に倒れた頼朝が勢いよく起き上がって反論する。
「十九歳も子供だーっ! ていうか、弟は兄にとってはいくつになっても子供だ〜っ!!」
終いにはぐずり始めた二十五歳。元征夷大将軍。
「あ〜、まったく、泣かないの!」
やれやれといった表情で慰める範頼だが、内心は「このブラコンが……」と大いに呆れている。もちろん、義経も全く同じ気持ちだ。
「と、とにかく、もう行くね」
朝っぱらからこれ以上の不毛なごたごたは御免だと、義経は鞄と布包みを肩にかけて部屋を出た。
「いってきます!」
義経達の通う倉麻中学では、その年に入学する新一年生のクラス名簿を玄関前に張り出している。二、三年生の分は中庭に掲示されるのが決まりだ。
桜の咲き誇る正門前を抜けて中庭に出ると、掲示板の前に人だかりが出来ていた。
(え〜と……)
背伸びをしてみるのだが、悲しいかな身長143センチの身では掲示板に飾られている花飾りぐらいしか見えはしない。無理やり人混みをかき分けて前の方に行くのも気が進まない。弁慶が潰れたら困る。
生まれた時から一緒にいるが、いまだに弁慶がどういう生き物なのか把握できていない。なんの動物にも例えられない、強いて言うなら大福が生きていたらこんな感じの生き物になるだろうか。という印象だ。餅のような外見に反して、意外と耐久性はあるような気もするが。
そんな不思議な生き物を常に肩に乗せているというのに、これまでに兄以外の人間からその存在に言及されたことはない。
疑問に思って頼朝に尋ねたところ、「弁慶は一般人の目には見えていないから大丈夫だ」と答えられた。
何が大丈夫なのかわからないが、なんか怖いのでそれ以上深くは聞かなかった。
少し人がいなくなるまで待つしかないかと諦めた時、背後からがしっと首を絞められた。
「いよう、義経」
「江三郎」
いつからいたのか、友人の伊勢江三郎が笑顔で立っていた。
「俺ら同じクラスだぜ、B組だ」
「ホント?」
友人とクラスが同じだと聞いて義経の顔が綻ぶ。
「ところでよぉ、義経」
ぐっと声を低めて、江三郎が耳打ちしてくる。
「気がついているよな」
「ああ。家を出たところから尾けられてるんだ」
「なんで片付けてこないんだよ?」
「今日なら学校の方が安全かなって。入学式が始まったら誰もいなくなるじゃん」
義経の言葉を裏付けるように、クラスを確認した生徒達は各自の教室に向かい、新一年生と教師達は体育館に移動し始める。
「確かにな。んじゃあ、俺は裏門の連中を片付けてくるわ」
「わかった。こっちは任せて」
裏門へ向かう江三郎の後ろ姿を見送って、義経は中庭から完全に人がいなくなるのを待つ。向こうもこちらに気づかれているのはわかっているだろう。今までは一応隠していたらしい殺気がそこここで膨れあがるのを感じた。
やがて中庭に人気がなくなり、少し離れた体育館からセレモニーの開始を告げるアナウンスが漏れ聞こえてくる。
「そろそろいいかな。出てきたら?」
義経の挑発に応えて、物陰から三人の男が姿を現した。手にナイフを持っているのを見るところ、全員雑魚のようだ。義経は肩を竦める。この程度を数人送ってきたところで、どうにかなる訳がないとわかっているだろうに、平氏の連中はいったい何を考えているのだろう。
「はあ……やるならさっさとかかってきてよ。江三郎より早く片付けないと後で馬鹿にされるからさ」
言いながら、義経は背負っていた荷を下ろして布包みを解いた。中から現れたのは竹刀でも木刀でもなく、本物の刀だ。
銃刀法違反の極みだが、堂々と持ち歩いていても意外と捕まらない。中学生がまさか真剣を持ち歩いているとは思われないので、布に巻いている限り職質されたりしないのだ。
「安心してよ。お前ら程度に抜いたりしないからさ」
鞘に納めたまま刀身を構えると、男達の表情に怒りが走った。気を悪くしたのかもしれないが、なんと言われても抜く気は無い。こんなところで斬殺死体が発見されたら大事件になってしまう。
それでも、万一のことを考えると真剣は手放せない。もしも、こんな雑魚ではなく平家の公達が襲ってきたなら、全力で戦わねば命がないからだ。
「舐めるな、チビ!」
いかにも三流なセリフを吐きながら一斉に飛びかかってくる男達。
「確かに僕は小さいさ」
義経は憮然と呟きながら一人の攻撃を躱し、別の一人の鳩尾に刀の柄を叩き込んだ。背後から切り掛かってくる男に回し蹴りを食らわせ、ふと義経は前に範頼から聞いた昔話を思い出す。
頼朝が今の義経と同じくらいの年だった頃、当時三歳の義経に絵本を読み聞かせている最中に刺客が襲ってきて、頼朝は敵の攻撃を躱しながら絵本を読み続けて、めでたしめでたしと同時に相手を地面に沈めたらしい。
しかも刺客は五、六人いたと当時八歳だった範頼は証言しているが、あの兄ならそれぐらいのことやりかねない。それに比べれば、自分はまだまだだと思う。
義経が刺客と戦いながら我が身の未熟を思っている姿を、桜の木の上から眺めている者がいた。
「あーあ……派手にやられてんなぁ、あいつら」
面白そうに呟く少年は、手にした布包みに舞い落ちる桜の花びらを摘み上げて笑った。
「情けねぇの」
もっとも、初めからあの連中には何も期待していないが。
そろそろ自分の出番だろうと、少年は軽い身のこなしで木から飛び降りた。布がふわりと舞い上がり、少年が手にする大ぶりの薙刀が姿を現した。
「能登守
最後の一人を地面に倒して、義経はふーっと息を吐いた。
「どーしよ。江三郎のほう手伝いに行こうかな」
今さら真面目に入学式の後に行われる始業式に出る気も起きなくて、義経はこのまま帰ろうか裏門へ向かうか迷う。でも、どうせ手伝うこともないだろう。刺客の腕はこっちと大して変わりないだろうし、江三郎ならばさっさと片付けてこちらに向かっているかもしれない。
やっぱり帰ろうとかなと欠伸を噛み殺した時、ヒヤリとする空気を感じて義経は刀を構えて振り返った。
桜舞い散る中を、一人の少年がゆっくり歩いてくる。
義経と同じ制服に身を包んでいるが、この学校で見かけたのことのない顔だ。制服の真新しさから見て、新入生らしい。
「いやあ、お強いですね。先輩」
からかうような口調で話しかけてくる。
その手に握られた薙刀が、部活動で使うような代物でないことは一目でわかる。義経は覚悟を決めて刀を鞘から抜いた。
「お前、新入生だろ。入学式サボっていいのか?」
これまでの雑魚とは桁が違うプレッシャーを感じる。年下の癖に自分より背が高いのも気に食わない。義経はごくりと息を飲み込んだ。
「あいにく、入学式よりも面白いことがあるんでね」
少年は小憎らしい笑顔のまま薙刀を構えた。
「なあ、そうだろ? 我が名は平教経。前世で貴様を殺し損ねた男だ! 八百年ぶりだな、源義経っ!!」
一声叫んで、教経が地を蹴った。
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