目覚めたら異世界で、引きこもりたい

ひとりごはん

第1話 山の中

目を開けると長く艶のある黒髪の女がこちらを覗き込んでいた。


「大丈夫か!」


俺は横になっているらしい。起き上がってみる。特に身体に異常はなさそうだ。ここがどこか、目の前の女が誰なのかはわからない。そして俺は……

ぽたぽたと水滴が落ちてきた。


「何で、泣いてるんですか?」


女はつり目がちの大きな瞳からこぼれる涙を拭いもせずに言った。


「なぜだろうな、うん……お前がわしを見ているからじゃないか?」



女が茶を入れているのを、椅子に座り待つ。俺が今いるところは、目覚めた時と同じ室内で、女の家のようだ。ベッド、キッチン、テーブルと棚がいくつか。あまり広くない。

女は美しい顔立ちだと俺は思った。凛とした佇まいと流れるような所作、つまり無駄のない動きから普通じゃないという気がした。そんな雰囲気がある。若くはないが、綺麗で動きが若々しいから年齢が読めない。


運ばれてきた紅茶を飲みながら、色々な質問された。名前は何というのか、年齢は、どこからやっきたのか。

しかしどれも答えられなかった。わからないのだ。

思い出そうとしてみても、何も出てこない。自分の意識があるのは感じる。それがこの身体を動かし、紅茶を飲んでいる。しかし、この意識が先程目を覚ますまでに経験したことへ思考を向けると、空っぽだった。そこには確かに何かがあるのはわかるのに、何も掬い取れない。数字の0の穴に手を伸ばしたように。

不思議だ。このオレンジっぽい液体が紅茶だということはすぐにわかったのに。自分のことは何もわからない。


「ふむ、記憶喪失というやつか」腕を組み顔を顰めながら女は言った。

「そうみたいですね」


三日前にこの家の近くで倒れていた俺を見つけ、運んできてくれたらしい。


「実はもう一人、女の子も倒れていた」

「そうなんですか。あ、もしかしたらその人なら俺のことを」

「いや、何も知らないと言っておった」


それを聞いても、残念という気持ちにもならない。自分が何者かわからないということに対して、どうでもいい気持ちが強い。何を考えればいいのか、それもわからない。

その女の子はもう目覚めているのだなと思い、部屋を眺めて窓の外をうかがう。


「あとで紹介する。ただ喋るかどうかはわからんぞ」

「喋れないんですか?」

「最初だけ喋ったが、以降全く喋らなくなった。御飯を食べる時以外はわしを避けておるようだ。今も外をぶらぶらしているのだろう。だからそいつのこともまだようわからん。お前とは話してくれれば良いのだが。歳も近そうだ」


窓に映る自分を見ても成人ではなさそうだ、と思うだけ。

うーん、とにかくこの顔の人間が俺だと認識するしかない。

この女の年齢を訊いてみたかったが、女性にそれは失礼かと考え直す。


「あの、名前は何ですか?」

「わしか、わしはリベラという」

「リベラさん、えと、助けていただいてありがとうございます」


ぺこりと頭を下げる。

しかしリベラはなぜか悲しそうな顔をしていた。


「?どうしました?」

「うん……お前に名前で呼ばれるのは、なんかちょっとな」がしがし頭をかく。

「実はお前は……わしの夫なんだ」

「え、マジですか?」

「前はハニーと呼んでいたが思い出さんか?」

「は、はにぃ?」


俺の戸惑った声に、リベラがうなずいた。

かなりの年齢差だ。しかし、まぁ悪くないような。かなり美人だし。

え、彼女を通り越して、俺には妻がいたのか?

こういうのを棚からぼたもちというのか。いや違うな、俺の純粋な実力で得たもののはず。俺すげぇ!


「すいません、記憶喪失とはいえひどい態度でしたよね。記憶もそのうち戻ると思いますし、これからもよろしくお願いします。ハ、ハニー?」


女が吹き出す。身体をぷるぷる震わしている。


「嘘だ嘘!ちょっと揶揄いたくなってな」

「……」

「だ、だめだ……ツボに入った」


テーブルを拳で叩きながら、全身で笑っている。

気の毒なテーブル。いっそテーブルの代わりに俺を殴って欲しい。

し、死にたい……

何が一番情けないかって、記憶を無くしたことで関係が壊れることを恐れて(勝手に)、繋ぎ止めようと言葉を(必死に)並べてしまったことだ。

記憶喪失の人間にやるには悪質過ぎだろ。信じるに決まってる。


「だってさっき泣いてたし……」


てっきり夫の目覚めが嬉しくての涙だと納得してしまった。


「あれはまぁ、なかなか目を覚まさんから死んだかと心配していたからな。とにかくお前は、そうだな、師匠と呼べ」

「は?師匠?」

「うん、わしが剣の師匠になれば文句あるまい」


そう言って立ち上がりベッドの横にある扉を開いた。


「この地で生きていくなら戦う術を学んでおいた方がいい。亜人も出る。好きな剣を選べ」


亜人が何かはわからない。しかし扉の中身に驚いて聞きそびれる。さまざまな形の剣が立てかけてあり、さらに槍や銃器、ブーメランなどの武器も揃っていた。名前のわからないものも多い。


「何でこんなものが」

この女は何者なんだろう。関わっちゃいけない人なのでは?


「使い慣れたものはないか?まぁ選んでみろ」


思わず手を伸ばし、真っ黒な鞘を掴んだ。柄を握り少し引き出す。美しい刃文が見えた。


「日本刀……」

「ニホン?それは刀だ」

「あ、はい。そうですね」


なぜ自分でもこれを日本刀と認識したのかわからないが、確かに刀というのも理解している。もしかすると以前に触ったことがあるのか。


「それでいいか?珍しいものを選んだな。うむ、いきなり真剣もまずいか」

刀は取り上げられ、代わりに木刀を渡された。女は木剣を持った。

「外に出て構えてみろ」


家の外は樹で囲まれていた。少し下ったところには川が流れている。他に人も家も見当たらない。ここは山の中らしい。


「さぁ剣を構えろ」

「いや何がなんだか……」突然なんだこの女は。俺を叩きのめそうとしてるの?

「そう怯えるな。わしが稽古してやろうと言ってるんだ」

「別に頼んでないんで」


顔に木剣を突きつけられる。


「やれ」

綺麗な瞳だ、そして綺麗に澄んだ殺意……


右手を柄の上部に、間をあけて左手をその下に。腰を落とし左足を引いた。自然にその構えになった。


「ほぅ、剣の心得が?」

「わかんないですけど……ある気がします」


女も木剣を構えた。

息をのむ。自分が緊張していくのを感じる。静かな構えだ。リラックスしている。なのに凄まじい圧力を感じる。それに人殺しの目をしている。俺は怖くてじりじり後ずさりしていた。


「勘も悪くない」

そう言って木剣を下げ微笑んだ。すごい変化だ。

「打ち込んで来い、痛くはしない」


随分舐められているらしいが、仕方ない。相当な腕前だろう。全くかないそうにない。

相手の全体を見ながら、上段に構える。

女は切先を斜め下へ。俺の動きに合わせ構えをとった。

おそらく一瞬で終わる。初手を防がれた後、その返しで決まるだろう。

タイミングを測るため、女の目を見た。

さっきとは一転、風に流したような静かな目。どこを見ている。

前に出て、振り下ろす。

何もない。空を斬る。

脚がふわっと軽くなった。視界が回転。

気づけば地面にひっくり返っていた。


「怪我はないな」


頭上に手を差し出されたので掴むと、引き起こされた。

脚を掬い払われたのか。確かに痛くはなかった。

ほとんど視認できなかった木剣の動きを思い浮かべてみる。そんな柔らかい太刀筋があるのか。

まさに目の前から消えた。どうしたらそんなに早く動けるのか。


「おい、聞いているか?」

「あ、すいません」呆然としてしまう。

「わしはかつては王国随一の剣士で、隊長も勤めた。そんな師匠を持てたことを誇りるが良い」どんっとふくよかな胸を叩く。


「あの、教わるかどうか俺に選択肢は……」


目を見開きキョトンとしている。いやこっちがキョトンだが。

しかしこの人は凄い。それがわかった。うん、師匠と呼ばせていただこう。

だけど剣を教わるよりも、記憶のない俺にはもっとすべきことがあるような気もするが。

国が剣士の軍隊でも保有しているのか。何だか違和感がある。言葉の意味はもちろんわかるが、俺にとっては馴染みがなさ過ぎる。


「あの、そもそも何と戦うんですか?他国ですか?」

「それよりも、亜人だ」

「亜人て何ですか?」

「それも忘れているのか!まぁしょうがないか」


亜人とは人を喰う生き物で、人間と全く同じ見た目をしているらしい。そして恐ろしく強く凶暴。強い魔力を宿し、人間を超越した身体能力で襲ってくるらしい。


「え、魔力?そんなファンタジーみたいな」少し笑ってしまった。

「魔法のことまで忘れておるか」


大真面目な顔だ。また俺を担ごうとしているのか?


「亜人に比べてはるかに弱く少ないが人間も皆持っておる。意識せずとも体内を巡っている。魔力とはそういうものだ」


そうは言われても全く実感が湧かない。これに関しては自分のこと以上に雲を掴む感じだ。


「しかし自分のことは忘れておっても、物や道理は覚えておるように見えたが。亜人や魔法だけ忘れるとは妙ではないか?」


魔法とやらをこの目で見てみたい気もしたが、それよりも気になることがある。


「……それはどこにいるんですか?」

「亜人か?外の国に生息地があるらしいが。しかし奴らは積極的に人間を求めておる。山脈を越えてこの国に入って来る奴らもいるし、繁殖もしているだろう」

「つまりこの辺にもいるかもしれない?今、そこから現れるかもしれないと?」

「可能性はあるな」


俺は家に向かって走る。しかし襟を掴まれ止められた。


「どうした急に?」

「世界がそんなに危険とは知らなかったんです!身を隠さないと」


師匠から逃れようともがき、息も絶え絶えに答えた。強い力でガッチリと掴まれていて引き剥がせない。


「わしがおるから大丈夫」

「でも、人間を主食にしてる猛獣が野放しってことでしょ?ちょっと、引きこもります」

「落ち着け、そんなことで引きこもっておったら、世界中引きこもりだらけだ」


ハハハと笑っている。何が面白いのか意味不明だ。


「いいじゃないですか、みんな引きこもれば!」

「多少怖くてもみんな外に出て働いている。そうじゃないと社会は回らんだろ」

「社会とかどうでもいいですよ」まずは俺の命だ。


呆れたようなため息が聞こえた。

「うーん、まぁ記憶を失うとこうなるものなのか」


俺の取り乱しように、ようやく師匠は家の中に戻ってくれた。


「とんでもなく臆病だなお前は……名がないというのは不便だな。今決めておくか。思い出すまでの間だけでもな。付けたい名はないのか?」


どうでもいい。とにかくもう家から出ない。絶対。俺は引きこもることを密かに決心した。


「あぁなんでもいいです。今日晴れてますし、ハレにしましょうか」

「ペットを名付ける感覚だな……」


師匠が少し考えてトレンという名を付けてもらった。


「ちなみにどういう理由が?」

「フフ、昔の男の名だ」

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