雌牡蠣
青水
雌牡蠣
ある日のことだ。
友人から「なあ、生牡蠣食いに行かないか?」と誘われた僕は、彼と一緒にオイスターバーに行った。
牡蠣はわりかし好きだったものの、これまでの人生で生牡蠣を食べたことは、確かなかったと思う。
大きな皿にきれいに並べられた大きくぷりぷりとした牡蠣を見て、口の中に唾液が溜まった。じゅるり、と音が出そうなほど、僕の口は――そして胃は生牡蠣を欲しがっていた。牡蠣の貝殻が宝石箱に、中のクリーム色の牡蠣が真珠のように見えた。
「うまそうだなぁ」
「そうだなぁ」
「俺さ、牡蠣が大好物なんだよ」
「僕も好きだよ」
「お前、生牡蠣ってよく食うの?」
「いや……多分初めてだと思う。普段はカキフライを食べることが多いかな」
「うーん、それはお前、人生損してるぞ」
人生損してる、とまで言うのはさすがに言いすぎだと思う。
花のような形で並べられた牡蠣を見て、僕はあることを思い出した。ちょっとした懸念点である。
「なあ、そういえば、牡蠣って『当たる』ことがあるんだよな?」
「おうよ。当たるとな、ノロウイルスみたいっていうか、ノロウイルスそのものだな。腹痛がヤバいんだよなあ。地獄の苦しみ」
「それはマジでヤバいじゃないか」
眼前の牡蠣が魔性の食べ物のように思えた。
奴らは、自分たちが人間によって海の底から引き上げられ、オイスターバーに並べられたことに怒っているのだ。その復讐として、猛毒を人間にプレゼントするのだ……。
「なぁに、大丈夫だって! 牡蠣に当たることなんてめったにないから。それこそ、宝くじが当たるくらいの確率だよ」
宝くじも下の等なら結構な確率で当たるんだけど……。
まるでギャンブルだな、と僕は思った。生牡蠣ロシアンルーレット。玉の数は自分で決められ、『当たり』の数も一つではない……。
そういえば、この男は大のギャンブル好きだったな。ほとんどプロギャンブラーである。ギャンブラー魂が、ギャンブル性のある牡蠣を欲しているのか……?
「心配すんな。当たることなんてまずないんだから。さあさあ、ぱあーっと豪快に食っちゃおうぜぃ!」
なんだかフラグみたいだな、なんて僕は漠然と思った。実際、この会話は牡蠣死亡フラグだったのだが。
◇
オイスターバーというだけあって、生牡蠣を食すためのソースがいくつも用意されていた。そして、そのどれもが生牡蠣に合っていて、牡蠣のおいしさを最大限に引き出してくれる。
なるほど、これは確かに『人生損してる』と言うのも、言い過ぎではないのかもしれない。それくらい、生牡蠣はおいしかった。至福のひと時。生牡蠣を含めた様々な牡蠣料理を、ワインやビールなど酒を飲みながら堪能した。
いい感じに酔って、腹も満腹になったところで、僕たちは店を後にした。
「どうだ、おいしかっただろ?」
「最高だった」
「じゃ、そろそろ帰るか」
そこで、友人はスマートフォンで時刻を確認すると、
「もし当たるとしたら、もう何時間かしてからだな。まあ、当たることは多分ないだろうけど、念には念をってことで、この後はまっすぐに帰宅するこったな。電車の中で牡蠣に当たったら、この世の終わりだからな」
満員電車の中で地獄の腹痛に襲われるところを想像して、全身が粟立った。確かに、この世の終わりである。
「よし、帰ろう。早く帰ろう」
「ま、当たることなんてめったにないんだから、あんま気にすんなよ」
じゃあな、と手を振ると友人は去っていった。
僕は心なしか早足で駅まで歩くと、すぐに電車に飛び乗った。電車の中ではスマートフォンをいじっていたけれど、心のどこかで不安を感じていたんだと思う。読んでいたマンガの内容が、全然頭に入らなかった。
電車を降りると、自宅までの道のりを、競歩の選手のようなフォームとスピードで駆け抜けた。
帰宅すると、ようやくほっと一安心。トイレで用を足して、きんきんに冷えた炭酸水をごくごくと飲む。額を撫でると、汗で湿っていた。
どうして、牡蠣を食いに行っただけで、こんなにも緊張するのだろう? どう考えても馬鹿げている。僕はいささか不安症なところがある。メンタルが豆腐のようにもろいのだろうか?
その後、僕はテレビを見て過ごした。時折、壁にかかった時計をちらちらと見てしまう。テレビ番組の内容が、全然頭に入ってこない。
二時間ほどして。
どうやら、大丈夫だったようだな、心配は杞憂に終わったようだな、なんて気を抜いたところで――。
それは、やってきた。
◇
「あ、ああああ……」
腹が、猛烈に痛いのである。
あまりの痛さに全身から汗をだらだらと流し、はっはっ、と犬のような荒い呼吸を繰り返しながら、トイレへと駆けこむ。ズボンとパンツを下ろして腰を下ろしたところで――決壊した。
「ぐっ、ああああ……」
痛い、痛い、痛い。
今まで味わったことのない絶望が、僕を地獄へと誘った。わずか数時間で、僕は天国と地獄の落差を味わうのだった。
苦痛は潮のように満ち引きし、繰り返し訪れた。苦痛が引いたタイミングでトイレを飛び出すと、ビニール袋とペットボトルのスポーツドリンクを手に取り、トイレへとすごすごと引き返した。
そして、それは何の前触れもなく訪れたのだった――。
『あはっ♡』
「な、なんだ……?」
今、少女のものと思わしき声が聞こえたような……。
『ざぁこ、ざぁこ♡ 私のこと食べて、当たっちゃったんだ~♡ なっさけな~い♡』
ねっとりと僕のことを罵倒する声が、鼓膜をがんがん揺らした。
もちろん、トイレには僕しかいない。僕は一人暮らしなので、少女の声が聞こえるはずがない。
つまり、これは幻聴。
僕は牡蠣に当たって、その苦しみのあまり幻聴を聴いているのだ。
だが、どうして幼げな少女なんだ? それに、ねっとりとした罵倒。僕は一般的な性癖しか持ち合わせていないと思っていたのだが、それは僕自身を謀っていたというのか? 本当の――心の奥底に眠る本当の僕は、少女に罵倒されることで興奮するマゾヒストだったとでもいうのか?
混乱した。しかし、混乱困惑は長くは続かず、再び苦痛と幻聴が僕を襲った。
『あはは~。大の大人がトイレにこもって、うーうーあーあー呻いてるのって、ほんっとうになっさけないよねぇ~。そんなだから、彼女に浮気されるんだよぉ♡』
「やかましいわっ!」
幻聴は罵倒と煽りを繰り返し、僕に精神的な苦痛までもを与えてくる。
あれは僕が悪いんじゃない。浮気された僕に非があったのではなく、浮気した彼女に非があったのだ。
「お前は……誰だ?」
『私はぁ~わ・た・し』
「ただの、幻聴なのかっ!?」
『あれぇ? 聞き逃しちゃった~? わたしぃ、さっき言ったよねぇ――「私のこと食べて、当たっちゃったんだ~♡」って』
そこで、僕はようやく奴の正体に気がついた。
「お前まさか……さっき食った生牡蠣かっ!?」
『正解~♡ 私のこと食べてくれたお礼参りに来たんだよ。「鶴の恩返し」ならぬ「牡蠣の恩返し」』
しょうもないジョークだな、と僕は思った。
ところで、この声は明らかに女性であるが、牡蠣に男女(雄雌)があるのだろうか? 繁殖する以上、雄雌があって当然なのか? ……いや、生物によっては雌雄同体なんてこともあるのか。
『なぁに、しょうもないこと考えてるの~♡ お仕置きだよん♡』
ずっきぃ、と腹が痛んだ。と同時に、ものすごい吐き気。
僕は体の上下から、半液状物質を噴出した。
ぜえぜえ、と喘いでいると、
『あははははっ! なっさけな~い♡ 逝っちゃえ♡ 逝っちゃえ♡ これは私のこと食べた罰なんだよ~♡』
このサディストめ……。
『朝までぇ、寝かさないんだから♡』
そのセリフは彼女から聞きたかった。牡蠣の亡霊(幻聴)に言われても、嬉しくもなんともない。虚しいだけだ。
『またまた~、そんなこと言っちゃってぇ♡ 本当は嬉しいんでしょ、この変態♡』
僕の心の声まで、聞き取り始めやがった。
逝っちゃえ、などと奴は言っているが、人間そう簡単には死にはしない。体の中に入り込んだウイルスを出し尽くせばこちらの勝利だ。
耐久戦である。おそらく、死闘は朝まで続くものと推測される。
今日が土曜日でよかった。これが平日なら、『牡蠣に当たったので休ませてください』と上司に連絡しないといけなかった。それはそれで、この世の地獄である。
『早く逝っちゃえ~♡ ほら、さっさと逝っちゃえよぉ♡ 死ね死ね~♡』
かわいらしい声で、恐ろしい呪詛が紡がれる。なんなんだ、この地獄絵図は。
僕が牡蠣の亡霊――という名の幻聴――と戦っていると、スマートフォンが鳴った。友人からだった。
『よお、調子はどうだい? 大丈夫だったろ?』
「大丈夫なもんか……。こちとら、牡蠣の亡霊と熱い死闘を繰り広げてるんだ……」
『うひゃっ! お前、もしかして、当たっちゃった? 生牡蠣ロシアンルーレット大当たりってやつか!? いやあ、ご愁傷様』
他人事だと思って楽しみやがって……。
『まあ、その苦しみはそう長くは続かんだろうから、頑張ってくれや』
「なあ、お前も当たったことあるんだよな?」
『ん? おお。当たったこと、二、三回あったかな』
「その……変なこと聞くようだけど、幻聴とか聞こえなかったか?」
『……幻聴?』
スピーカーから友人のきょとんとした困惑声。
『いや、聞こえなかったが……え、もしかしてお前、痛さのあまり幻聴まで聴こえ始めたんか?』
「ん、まあ、その……」
『いやあ、こりゃ面白いなあ。どんな幻聴なのよ?』
「いや、僕を罵ったり煽ったりする牡蠣の声が――」
『牡蠣の声!』
げらげらと友人は笑った。
『まじか! まじかー。え、どんな感じの声よ?』
「うーん、それがね……クソ生意気な少女の声なんだ」
『それはあれだな……なんかそういう願望でもあるんじゃないか? 深層心理? ユング? フロイト? デカルト? 俺、よくわかんないけどさ……』
わかんないなら、適当に言うな。
「違うよ」
『そういや、お前の元カノ、めちゃくちゃ童顔だったよな。もしかして、お前、ロリコンなんじゃないのか?』
「違うって」
『そうかなあ? 普段は、本当の――ロリコンの自分を封印してるけど、ふとしたときにその封印が解けて、本性が現れちゃうっていうか……それで、女の子の幻聴が聴こえちゃってる。どうや?』
「だから、違うって」
『あはは! ちょっとしたジョークじゃないか。そんなむきになって否定すんなよ』
「まったく、もう……うっ」
『お、また来たか。今度、その幻聴について詳しく聞かせてくれよな。それじゃ、お大事に』
電話が切れたのと同時に、何度目かの絶望が訪れた。
抗うことなどできないので、仕方なくポジティブに考えることにした。この苦痛を経て、僕は人間として一皮むけるんだ。……どうして、牡蠣に当たったくらいで、成長のチャンスと捉えることができるのか?
『ざぁこざぁこ♡ クソ雑魚ナメクジ♡』
罵倒の語彙が少ないのか、幻聴は先ほどから似たようなことばかり言っている。語彙力がないのは、僕の頭が悪いからだろう。悲しい。
嗚呼、頭がおかしくなりそうだ。否、既におかしくなっているのかもしれない。
さあ、行こう――新世界へ。
僕はトイレで下半身をむき出しにして、悟りを開いたのだった。
◇
敗れたボクサーのように燃え尽きた男が一人、トイレに腰を下ろしていた。いつの間にか僕は意識を失い、意識を取り戻したときには、吐き気も腹痛も――そして幻聴も彼方へと消え去っていた。
「勝った……僕は勝ったんだ……!」
トイレから出て、カーテンを開けると、太陽の温かな光が僕を祝福してくれた。時刻は七時。こんなにも朝が清々しく感じたのは、いつ以来だろう?
身を清めるためにシャワーを浴びた。体を洗いながら、僕は自らに誓った。
「もう二度と、生牡蠣なんて食べるものか」
しかし、おいしいおいしい生牡蠣の誘惑は、僕の鋼の如き決意をいともたやすく粉砕したのだった――。
◇
人間はどうしようもなく愚かな生き物だ。経験から何も学ばない。人間は過ちを何度も繰り返す。歴史は繰り返す――。
リスクとリターンの両方が存在したとして、人間はリターンばかりに目がいって、リスクのことをないがしろにしてしまう。
ロシアンルーレットを見ても、自分は当たらないだろう、と謎の楽観視をしてしまう。
つまり、何が言いたいのかというと……。
「いやあ、さすがに今回は当たらないでしょ」
「そうだな。二回連続で当たった奴を俺は見たことがない」
「うん、だから大丈夫なんだ。今回は大丈夫なんだ……」
僕と友人はオイスターバーに行き、生牡蠣を含めた牡蠣料理を堪能する。そして、多幸感のなか帰宅し――。
『あはは♡ ざぁこ、ざぁこ♡ 懲りずにまーた私のこと食べて、当たっちゃったんだ~♡ なっさけな~い♡』
「うわあああああ……!」
腹痛と吐き気の苦痛アンサンブルの中、雌牡蠣の幻聴を聴くのだった。
雌牡蠣 青水 @Aomizu
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