金木犀が足りない
サブロー
第1話
三年前、おおらかなところが好きだと思った。
今は、大雑把なところがいやだと思う。
約束の時間は午後八時だった。もうじき、長針は6を指す。
初めて入る焼き鳥屋で、おれはひとりカウンターに座っていた。炭の煙のせいで店内の空気は白くもやがかっている。周りはスーツ姿のサラリーマンばかりで、洗いざらしのシャツにカーディガンを羽織っただけの自分が浮いているように思えた。
取引先が無茶ばかり言って。
上司のご機嫌取りで疲れる。
家に帰るとカミさんが。
どれもこれも、フリーランスで働くゲイのおれには馴染みのない話だ。いたずらにスマホをいじって、ニュースサイトに何度目か分からない更新をかける。代わり映えのない画面が、呆れたようにおれを見返していた。
あいつ、早く来ないかな。
そう思う心の大半は、会いたいという気持ちよりも、待たされている不安と苛立ちで占められている。待つ時間を楽しめなくなったのはいつからだろうか。付き合う前に同じ状況だったら、心の九割は緊張で、残りの一割は期待だった。自分の根性がねじ曲がっている自覚はある。
「ごめんごめん。遅れた」
約束から四十分が経ったころ、あいつは息を切らして店へ入ってきた。ジャケットを脱いで、慣れた様子で壁のハンガーに掛ける。カウンター越しに店主と目配せをする様子に、ひっそりと気持ちが萎えていくのを感じた。
「ごめん、思ったより仕事が遅くなって」
「いいよ、全然」
スマホをポケットに突っ込みながら、おれは物わかりの良い笑顔をみせる。あいつはほっとしたようにえくぼを作った。浅黒い額に浮かんだ汗が、こめかみを流れてシャツの襟に落ちる。
カウンターに腰掛けると、あいつは置かれたおしぼりで顔をぬぐいながら、張りのある声で店主に声をかけた。
「大将、おまかせセットで。あ、生でいい?」
「うん」
声を出して頷いたけれど、隣のサラリーマンの笑い声でかき消された。はきはきと話すのが苦手だから、騒がしいところは好きじゃない。社会での立場を見せつけられる気がする。
あいつは小さく「ごめん」と言うと、スマホを取り出し、難しい顔で画面に指をすべらせ始めた。本当は、まだ仕事が残っていたのだと思う。いつもおれを、ほんの少しだけ優先してくれる、おれの恋人。
ここ、よく来るの。
そう切り出せば、話は繋がるのだろう。でも、無遠慮にあちこちから鼓膜にぶつかってくる大声に、口を開くのさえ億劫になっていた。努力をしてまで場をもたせなければ、という段階は、とうに過ぎてしまっている。
「はい、生ふたつね。セットはちょっと待ってて」
目の前にジョッキが置かれる。おれの方のジョッキだけ泡がこぼれた。あいつはスマホを脇によせて「やった」と呟いたあと、冷えたジョッキを手にして掲げてみせた。おれもそれにならい、横を向いて視線を合わせる。見慣れた人懐っこい笑顔がそこにあった。
「それじゃ、三周年ということで」
「うん」
「これからもよろしく」
「うん、よろしく」
よろしく、だけ舌がうまく回らなかった。がつ、とジョッキの口がぶつかり、あいつは勢いよく中身を空にした。手の甲で口元をぬぐい、またおれを見て笑ってみせる。おれも応えて笑う。なぜ笑うのかは分からなかった。分かったのは、ビールは何回飲んでも好きじゃないということだけ。
ふたりでいるときは、あいつがほとんど喋る。おれは黙って頷いて、たまにわざとらしく驚いてみせたり、おかしくてたまらないという顔を作る。時折相づちをうってみても、その都度聞き返されてしまうから、笑ってごまかした。
同じ店にいるのに、あいつの声はよく通って、おれの声が届かないのはどうしてなのだろう。卑屈な自分に、待たされていたとき以上に苛立った。
「はい、セット二人分ね」
続けて八本ずつ焼き鳥がのった黒の長皿が置かれた。たれで照りのついた焼き鳥をじっと眺めていると、横から一本鶏皮が差し出される。不思議に思って横を見ると、あいつが頬を緩めて言った。
「鶏皮、好きじゃなかったけ」
そんなこと、一度も言った覚えはなかった。胸の奥がしんと冷える。おれが「誰と間違えてるんだよ」とからかってやれば、この男はきっと慌てて言い訳を始めるだろう。でも、鶏皮も嫌いじゃない。だからおれは「好き」と返した。また隣で大きな笑いが起きたから、声が届いたかどうかは分からない。
本当はたれじゃなくて、塩が好き。鶏皮じゃなくて、ももが好き。ビールは苦手。騒がしい場所は大嫌い。
それらのひねくれた言葉を口から出すつもりはなかった。あいつに悪気なんてこれっぽっちもない。
そんな大らかなところを、おれは好きになった。
「お返し」
「いいの? ありがと」
端にあった軟骨を隣の皿にのせると、あいつは子どもみたいに声を弾ませて、すぐにその一本を口に入れた。あいつの好物を、いちいち覚えている自分が恥ずかしかった。
一時間も経たないうちに店を出た。
向かう先はあいつのアパートだ。肩を並べて、夜風が冷たくなり始めた道を歩く。大雑把なあいつは、こんなときだけきちんと歩調をおれに合わせてくれる。
初めのうちはおれが合わせていたのに、いつの間にかこうなった。気づかなければよかったのに、ある日突然気づいた。気づいてしまった。
顔を上げるのもいやで、おれは地面ばかり見つめて足を進めていた。
「あ、この匂い」
駅前にさしかかったあたりで突然、あいつが声を上げた。なんだろう、と鼻をひくつかせてみても、服に染み付いた炭と煙草と酒の匂いした拾えない。首を傾げるおれに、あいつは楽しげに言った。
「金木犀だよ。もう秋だなあ」
さっきみたいに、笑って「うん」と頷けばいいのに、おれにはできなかった。もどかしくてもう一度空気を吸えば、確かに甘い匂いがする。
秋の街中で、この匂いを嗅いだ覚えもあった。けれどそれを金木犀だと言い当てることが、おれにはできない。
「なんかさ、子どものころ思い出さない? 校庭にたくさん植えてあってさ、全部咲くと、うわって思うくらい濃い匂いがすんの。なつかしい気持ちになるよな」
おれはまた頷けなかった。思い出すような記憶がなかった。
金木犀は寒さに弱い。だから雪国育ちには馴染みがない。
大学に入るため東京へ出てきたころ、バイト先で聞いた話だ。おれと同じく雪国に育ったという店長が、金木犀の香りは芳香剤で学んだ、と冗談めかして話していた。
「そうなんだ」
同意はせずに、それだけ応えた。あいつは鼻歌を歌い始め、またおれと歩調を合わせる。肩に感じる温度に怯んでうつむけば、履き古したスニーカーが、磨かれた革靴と並んで動いていた。
ああ、と心のなかでそっと息を吐く。
目の奥がじんと熱くなった。
なにが悪いというわけでもない。どこかですれ違ったわけでもない。決定的に分かち合えない部分が、たったひとつ見つかってしまっただけだ。
金木犀の香りを、おれが「子どものころを思い出してなつかしい」と結びつけて思うことは、一生ない。ただそれだけ。
あいつに気づかれないように、細く空気を吸う。偶然知り合って、たまたま話がうまく転がって、付き合ってもらった。あいつはゲイじゃないのに、恋人にしてもらった。引け目はいつかなくなると思っていたのに、日を追うごとに苦しくなる。
関係を隠したがるおれと違って、あいつは人前でも堂々と振る舞った。外を歩いていたときに手を繋がれたのには肝を冷やした。おれが怒っても、あいつは不思議そうな表情を浮かべるだけだ。一度本気で叱ってからは、外で触れてくることはないけれど、時折なにかを求めるように肩がぶつかる。
今だってそうだ。もっと人の目を気にしたらいいのに、この男は、「そんなのどうでもいいだろ」と簡単に言ってのける。
あいつとおれは違う。話すだけじゃ分かり合えない部分がたくさんあって、おれはそれを細々と気にして、あいつは気にも留めない。
大雑把で適当で、明るくてやさしい。
おれとは全然違う。なにもかも、すべてが違う。
そうやって違うところばかりが目について、おれは目の前にいるこの男が、うまく見えなくなってしまった。
「三年かあ」
あっという間だったなあ、とあいつは柔らかな声で言う。これは本音なのだろうか。本当に後悔していないのだろうか。いつまで経っても疑う気持ちが消えない。そしてこの先もずっと、この不毛な疑念が続いていくのが、自分でも分かる。
「うん」
金木犀は葉の広い木だ。そのなだらかな葉に雪がのれば、重さに耐えきれず折れてしまう。
あたたかな土地から出てきたこの男は、本当の雪の重みを知らない。重苦しく見下ろしてくる冬雲の黒さも、真正面から襲いかかってくる白い吹雪の痛みも知らない。
そんなこと、知らなくて当たり前だ。おれだって知らないことがたくさんある。でもおれは、知る努力をしないで、ひとり部屋の隅で身体を丸め、ぶつぶつ文句を唱えているだけだ。あたらしくあいつを知ろうとするたび、どうしようもない虚しさを感じるから。
「なあ」
「ん?」
「手、繋がない?」
三周年だし、とよく分からない理由をあいつが口にした。おれは小さく笑う。
やっぱり、分かり合えない。
近いうちに、おれは別れを切り出すだろう。
もう疲れたから別れたい。
そう告げれば、優しい恋人は、少し黙ったあとに頷いてくれる。その光景は、容易に想像できた。
「だめ」
「けち」
甘い香りが頭の後ろへと流れていく。
金木犀の記憶があれば、おれはもう少し、良い恋人になれたのだろうか。
金木犀が足りない サブロー @saburo_moon
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