嘆けディオニス

押田桧凪

第1話

 表現をなくした先に未来はない。


 今、私が窓辺で書きつけているのは小説としての体裁をとった、完全なる伝記であり、そしてこれは知られてはならない事実である。当然、内政に関わる書物を残すことは禁忌であると私は知っているし、作り話だと笑い飛ばされることも承知の上で。ただ、ほんの僅かな可能性を賭けて、私は書く。後世の誰かがこれを読んだのなら、一人の男が、人間がいたのだとみとめてもらえれば、それだけで少しは浮かばれることだろうと、独りよがりな感傷に浸る。


 ◇


 暗闇の中に一筋の閃光が走るのが見えた。

 吾らは兄弟だったはずだ。代々長く引き継がれている正統な血筋、バラスティック家の隠し子であるという一点を除けば。


 オーランド元国王の腹違いの子として生を受けたが、年の離れたディオニスからは実の弟のようにかしづかれ、私はなんの穢れもない幼年期を過ごした。此処まではよかった。いつの日からか、血統という高貴で美しい、虚飾で塗り固められた道をディオニスと共に歩く私の姿は「忌み子」としてうつり、当然のように私は棄てられた。すべて、偽善だった。


 住んでいた塔楼の一室。水平線に沿って敷き詰められている蒼玉を思わせる海面。窓から見える澄み渡る青い景色とは別れを告げた。



 第二の人生として、私はディオニスに仕える従順な兵の一人──巡邏の警吏として、日夜、仕事に明け暮れた。城内に息を潜め、復讐の機会をうかがうために。己を殺し、生き延びるために。


 兵として務めている頃、城周りの石垣の作業の補修のために、シラクスの町から時折、数人の石工が塔楼を訪れることがあった。作業の合間、絶えない世間話の中で、あの日のから暴君と化した現王、ディオニスに対する愚痴が話題に上る。城内であるにも関わらず、大声で。ふと耳に入った会話はこうだった。


「民の愚鈍な意見こそが不景気の源だ、などと叫んでいるあの王に政治は分からぬ。腹が立ってしょうがない。まさに知性のかけらも感じさせない猿とでも言おうか」


 そうだそうだ。ははっ、と隣からも笑い声が飛ぶ。立場上、少しは慎め、と私が割って入ると、石工の一人はキッと鋭く睨んで言った。


「お前に何がわかる? 吾らの税金の上に立つお前のような……兵士が」


 彼の反駁に私は応えられなかった。私は、弱かった。


 七年前。忘れ去られた過去。白き肌に輝きをうつす陽光。司法の壁によって隠されていた私の身元は、白日の下に晒された。当然、オーランドー国王は失脚の矢面に立たされ、私の存在は戸籍から消された。性別、肉親、名前。全てが改竄された。国王は暗殺され、その後を継いだのがディオニスだった。


 かつて、イタリア南西部シチリア州シラクーザ(シラクス県)はギリシア移民都市の中心として大陸間貿易が栄えていた。ディオニスの着任後、町の経済は衰退し、軒先に並んでいた露店はすべて消えた。ここにはもう、人はいない。

 その日、饐えた匂いのする擦り切れた上衣をまとい、私は深夜の町を徘徊していた。夜が明けるのを待っていた。

 塔の地下牢を破り、東の国境にある要塞で身を匿ってもらってから約二年。私は日雇いの警吏として生計を立てていた。明日になれば、正式な入隊試験の結果が、故郷シラクスで、あの塔楼で報じられる。

 夜は長い。空を包む暗黒の帳はまだ上がらないのか。

 私を棄てた、忌々しいオーランド国王。そして、その過去を踏み躙り、私利私欲を尽くすディオニス。私は決して赦さない。もうすぐ、その時はやってくる。



 民はただ漠然と生きる虚しさを抱えるものばかりだった。不景気。暗澹たる情勢。それら全てが彼らの心をどす黒く染めた。殺伐とした通り。活気のない町並み。王の政治に蝕まれた人間からは、生きる気力を感じとれなかった。苦しそうだった。


「あぁ吾らは……特に、王族は。無セキニン動物だ。過去を顧みず、淡々と年月を重ね、愚かな歴史を繰り返す。めまぐるしい時の流れを、鈍い色調に従って。何度も、何度も塗りつぶす」


 ふと、脳裏に古きローマ書の一節が浮かんだ。「見える望みは望みではありません。我らに見えぬものを望む以上、忍耐して待つのです」


 私は意を決した。固き難攻不落の城のように。怒りに燃える体、それはエトナ火山に眠るマグマのように。真の国王が亡きいま、私はディオニスを殺さねばならぬ。バラスティック家という名ばかりな王族としての地位に縋る奴を。神の恩寵を授かりし者? 誰だ。そんなものはいない。そろそろ鉄槌が下ってもいい頃だ。

 レベナードという名は捨てた。私は、アレキスと名乗る。すべての脳細胞を総動員して、ディオニスを討ち取るまでの行動を脳内で再現する。駒の動きを強く、強く。

 王に近づき、職務上親交を深めるまでに数年を要した。



 塔楼の門番を頼まれたある日。一人の同僚に城内の警備を頼み、私は王室へと歩を進めた。長い螺旋階段を登り、真鍮製の重い扉がようやく視界に入る。


「おやおやアレキス。吾の賢臣たるアレキスよ。日夜、城内の警邏隊として全うするそなたには感謝しておるぞ」


 腐った顔をしていた。人間自体に、悪が蔓延っているとでも言うのだろうか。その卑しい顔つきに私は愕然とした。変わったな、と。

 走れ、アレキス。こいつは私がかつてのレベナードであることを知らない。腐敗政治のはじまり。不条理を唱え、民衆を処刑する諸悪の根源。懐から。軽くて柔らかな短剣を取り出す。走れ、アレキス。こやつの腹に突き立てるのだ。

 ディオニスの目つきが変わった。

「おい、誰か!」

 ほんの僅かな逡巡。動揺。蒼白い顔をしたディオニスを間近に捉えたところで、背後から警備の輩に取り押さえられる。ん、ん。腰の方で、肉体が裂けるような激痛が走る。床に鮮血が広がり、血だまりをつくりはじめた。失敗、か。


「政治という名の駆け引きごときで! あぁ……」


 崩れ落ちた肉塊と報じられた悲報は町ゆく人々を根幹から揺るがすべき出来事となる。彼らは察した。人間としての本能──野生の勘だろうか。どこかの田舎者が激怒するのを。


 メロスは激怒した。

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