迷子
翌日は少しずつ身体を動かし始めた。アルテに付き合って、野草を採取したり、湧水を汲みに行ったり。思ったよりも身体はすんなりと動き、長い距離を歩いてもそれほどこたえる訳でもない。アルテは私の身体が元の力を取り戻す早さに驚いているような素振りを見せていた。夕食をとってしばらくすると私は寝台に入った、その一方で彼女は古ぼけた机に向かって硬筆を走らせる。その乱れることのない音、日記をつけているというよりはそれが仕事であるかのように感じられる―――私についての記録をとっているのではないのだろうか。
灯りが消されこの廃屋が闇に包まれると隙間風の寒さが際立つ、彼女は昨日と同じようにこの寝台に入ってくる。好意を抱いているなどではなく、彼女が寝ているうちに私が手記を覗き見ないようにしているだけなのだろう。私は寝返りをうって彼女に向き直る、それを感じたのか「まだ寝ていなかったのね、明日にはもうここを発つわ。もう大丈夫でしょう」と声をかけてきた。「どこに向かうんだ?」と聞くと「エイズレに、そこまでは送るわ」と答えた。私はとっさに彼女の手を握った、優秀な軍人であり魔術師であるという鎧を脱いでしまうと、余りにも私は子供だった。「私にはエルフとしての仕事がある。そして、それに人間を関わらせることはできない、例え私が貴女に好意を抱いていたとしても、これに付き合わせることはできない。……それにその感情を持ったことが産まれからこれまでにない、エルフというのはそういうものだから」と冷たい声で彼女は言った。まだ離れてほしくない、そういう私の感情が恐らく悟られた、寒空に放り出された者が温もりに縋ることは恋慕ではないと諭されたようにも思えた。「君はどうして私が死んだあの場にいたんだ?丁度、その時に……」と私は尋ねた、ある種の逆恨みのようなものの発露なのかもしれない。「それを言うことはできない、ただ探るべきものを探っていたら居合わせただけ。エルフと人とは交われない、東の歴史を知れば分かるように。私は貴女がヴァルターンの人間であることは予想がつくが、それは貴女に私の為すべきことを明かしてエルフの国に不都合が起きないということの補償にはならない」と言って彼女は私の手を両の手で包んだ、私のこの手はよほど冷えていたのだろう。「峠での戦が続いている以上、貴女はヴァルターンに戻ることはできない。……この近くのエイズレは小さな町ではあるが、何もない農村という訳ではない。それに場末の宿ならば一月ほどは何もしなくても過ごせるくらいの金も渡すから安心してほしい」と、書面上のやり取りのような言葉であっても私のことを思い遣ってくれているのは痛いほど分かる、恐らくこのような物言いしかしてこなかったのだろう、エルフという種族はそういうものなのかもしれない、ただ、確かにその手は暖かかった。「明日に備えて今日はよく眠って……」と彼女は私の手を撫でた、だから私は眠ることにした。
◇
翌日の朝。私の身支度はすぐに終わる、彼女から受け取ったいくらかの飾り気のない普段着、それから戦装束とを袋に詰めて、刀と短剣を持つだけだから。彼女の準備ができるまでは暇だからずっと彼女が着替える姿を見ていた、どのような絵画よりも表情が乏しく、しかしながらその中のどれよりも美しい顔、そしてその肢体もよく整っている、白い肌、細い手足、肋が浮いているものの戦う者らしくしっかりと筋張っている。その身体に漆黒の胸甲を纏い、各所に飾り気のない革の帯を巻き付け、いくつかの小物入れを取り付け、二本の短刀を腰に提げる。幅は広いが短く、月の如く反った刀身、控えめながらも手の込んだ美しい金の装飾の輝きは雪の夜の冷たさがあり、それはどこか恐ろしく感じた。「待たせたわね」と彼女はこちらを振り向いた、昨日野山を歩いた時とは異なる黒い衣服と白い肌の対比、月の如く煌めく長い髪、闇夜を翔ける暗殺者のようであった。最後に彼女は外套を纏った。
エイズレ、という名前の町は聞いたことがない、恐らくルファラシアの小さな町だろう。高低差のある獣道を歩きながらどの方角に進んでいっているのかを重なる木々の葉から漏れる光の具合から感じ取る、恐らく南東に向かっている。会話もなく一時間ほど歩いた、十五里ほど歩いただろうか、いや道が荒く恐らくそれほどの距離は歩いていないだろうか。―――茂みが不自然な揺れ方をした、私たち二人は立ち止まった。こちらを威嚇するような低い唸り声、狼の類ではない、むしろもっと身体が大きいだろう、熊だろうか―――いや身体に纏う魔力が濃い。たまたま出会ってしまったのか、アルテの背嚢にある食料の匂いを南里も先から捕らえたのか、飢えているのか、逃がしてはくれないだろう。やがてそれはその身体を見せた―――形容しがたい姿、十尺どころではない巨体、身体の筋は強く発達しており角張っている、熊を超える巨躯ながら鼻面は長く異常に牙が発達している、そして前後の肢に鱗のようなものが散見される、つまりは遺跡の近くにいる魔獣ということだ。元の姿は想像できることから、遺跡の瘴気を浴びてこのような姿に変わると考えられている、厚く纏った魂素が武器をも阻み、魔術を扱う個体がいるとも言われている―――それが故に有史以前の遺跡がある辺りは人が寄り付かず森が残っている。獣であるが故に狩りやすいという同僚もいたし、人と異なり読みづらいと言う者もいた。私はすぐに刀を抜けるように手を添えた、獣はこちらを殺しそして捕食しようと飛び掛かる構えを見せる―――が、地に伏した。
「先に進みましょう」とアルテは言った、一瞬ではあるが彼女が何をしたかは見えた、彼女の指先から伸びた裁素が魔獣の身体の中に伸びていっていた、獣の身体の中で直接何かを行い絶命させたのだろう。魔術師であっても腕が足らず、これに気付けない者であれば命を容易く奪うことができるだろう、彼女の仕事、それは表で堂々とやるものではないのだろう。私は詮索せずにただ頷いて、彼女の後ろを歩き始めた。
◇
それから所々休みを取りつつ歩き続けると、やがて、森が開け畑が見え始めた。正中を過ぎていくらか時間が経った太陽、森の中に長くいたこともあって覚えているそれよりも明るく見えた。アルテが私の視界から消えた、「お別れね。宿命を喪った人よ、貴女はこれから迷子になることはない、きっとね。……時の巡りが良ければ、糸が絡みあえば、また会えるかもしれないわね」と背中から聞こえたが、私は頷くだけして振り返らなかった。
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