日暮カナエは溺れてく

シイカ

月が見せた夢

 

 普通の会社員、日暮 カナエは今日も疲れて帰宅していた。

 ため息をつきながら歩いている彼女を夜の風が慰めるかのように吹いている。


 何気なく見上げた空には大きな弓型の月が蒼々あおあおと輝く。

 今のカナエには、その月が太陽よりも眩しく見えた。

 ――弓の月。月に……行ってみたいな。


 誰もいない道でカナエは月に向けて、右手を伸ばしてみた。

 ――何やってるんだろう。私。月を掴もうなんてね。


 とてつもなく大きな身体の巨人が、あの月の弓で射た青い光の矢に身体を貫かれて死んでしまえたら、どんなに楽だろう。

 そう思ったとき、誰かがカナエの伸ばした右手を掴んだ。

 ――え? なに……?


 急に掴まれたのでカナエは反射的に手を引っ込めようとしたが、強く引っ張られているため、引くことができない。

 自分の身体が言うことを聞かなくなったと思った。

 だが、右手が何かに掴まれている感覚をハッキリと感じる。

 それは初めて触れる奇妙な感触。

 やがて、自分の下腹部に、なにか、引っ張られるような、そんな感触が、いきなりにやってきた。痛いというのでもなく、辛いというのでもない。 

 むりやり言葉にするなら下腹の内側から『何か』が身体の外に出ようとして、柔らかい臓器の内壁を蹴るような。

 映画なんかで、しばしばみる、妊娠中に赤ちゃんがお腹を蹴るというのが、こんな感じなのだろうか? いや、それはあり得ない。

 この前、詰まらない男と一夜かぎりの関係をもってから、既に半年以上も、そっちと御無沙汰なんだから、妊娠以前に、そもそも、していない。

 それじゃあ、この感触はなに? お餅を引っ張って伸ばすような、ヘンな、でも、苦痛より、むしろ快感に寸前みたいな感触は?

 最初は手の指先から、やがて全身に広がっていく、まゆにくるまれるような淡く微かに甘い感触の中で、自分の両掌りょうしょうが勝手に下腹部へ伸びて、そこに弾力と硬さを併せ持った『何か』の存在を確認したとき、カナエは安堵と驚愕、そして不条理に満ちた快楽を同時に得ていた。

 安堵は、それが何の感触であるかを知っていたこと。

 驚愕は、それが、あり得ない現象であること。

 不条理な快楽とは、あらがえない心地よさ。即ち欲情だった。


 ――イヤ…! なによ? こんなの、いくら夜中で人がいないっていっても、月光浴ルナティックオナニーなんて嫌!

 それに、これ、造りモノじゃない……嫌! イイ……! とまらない!

 たすけて! 誰か止めてえっ……!


 やがて襲ってくる高いうねり。さんざん我慢したあとの放尿感に似た一瞬の、でも、激しい快感。脳髄の甘い痺れ。いつも、ひとり遊戯あそびで迎える絶頂と決定的に異なる、あらわすべき言葉を知らない衝撃がきて――。

 

 カナエは、ㇵッとして目が覚めた。

 

 ――なんだ夢か……。


 しかし、カナエの右手には硬いスポンジを触ったみたいな感覚が残っていた。

 窓からは月明かりが差し込んでいる。

 カナエは窓へ近づくと夢の中でしたように、月に向かって手を伸ばした。

 月にはいろんな物語がある。

 かぐや姫、月のウサギ、ツクヨミ……、世界中の物語を入れると、もっとたくさんある。

 カナエは普段から月を意識しているわけではない。

 だが、この日だけはなぜか、月に惹かれていた。

 何が彼女を惹きつけるのか、それは月の引力なのか。

 カナエは伸ばした手をおろすと、また、布団に入って眠りについた。

 

 

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