第9話・近い将来
ラックは天幕の中で、主人であるサー・ハルの腰に湿布を貼り終わると、自身の打ち身の手当にかかった。その全てが黒騎士との戦いで付いたものだ。
膂力の差なのか最初に受けた一撃以外にも、手の関節などはひどいものだった。
それでも、万事落ち着こうとするラックには珍しく、黒騎士との戦いは興奮さめやらぬものだった。それは親なし子にとって決して得られないはずのドラマだった。兄弟弟子による対決という因縁はラックに仄暗い希望を宿した。
問題は現在の決定的な実力差だ。ラックの実力では黒騎士を相手にするには、筋力などといったベースの部分から差がありすぎた。
「あの黒い騎士……相当なツワモノよ。マイカードゥリアンであのような装束が認められているとは。それにしても同門対決とは、また懐かしいのう」
「珍しいのですか? 世界は広いのだから、よくありそうなものですが」
「正式な剣術、というものを学んでいるのがまず珍しいのよ。どこぞの指南役とかならともかく、大抵は親兄弟からの我流混じりゆえな。儂も知らぬ昔では、敵同士になった場合でも同門対決は避けることが許されていたそうな」
サー・ハルが知らない時代ではラックに知りようも無い。
もう一つ不思議なのが錆剣だ。黒騎士はこの剣を知っていたのみならず、錆を落とせと言った。この剣の錆が落ちないことも知っていたのだろうか?
そこでふとラックは気付いて、錆剣を眺めた。全体を薄く覆うような錆が以前より、錆が取れている気がしたのだ。試しにまた研いでも、錆は変わらない。ではなぜ錆が取れたのか……
「サー・ハル。人の命を喰らう剣とか、そういうおとぎ話は信じますか?」
「さて、世は不思議だらけゆえそうした物も、あってもおかしくはないかな」
まさか、実戦を経る度にこの剣の錆が取れていくのか? ラックが他にしたことなどないし、それならば黒騎士の言っていたことにも説明が付く。戦いを経験して成熟したら相手をしてやろう。そこまで考えてラックの思考は少し冷静になった。
「この戦いって何かおかしくないですか?」
「何がおかしい」
「いえ、マイカードゥリアンの騎士達は強い。それに何度も襲われていますが、敵はあっさり引き上げて行きます。どうしてこう長々と決着がつかないのかと」
「頭は付いておるな。いかにも、この戦いは茶番であろう。王国軍が増援のために兵を一旦送り出した時点で勝負は決しておる」
やはりそうか。マイカードゥリアンが万全の状態で来たのなら、壁があるロウファーはともかくとしてこの野営地ぐらいはとっくに突破されているであろう。
ラックは考えたことのない視点で頭を使い、少しぼうっとしてきた。
「単なる嫌がらせ? 狙いはロウファーのみ? あとは……別の国を攻めている?」
「まぁそんなところじゃろうて。別の国を攻めつつ、あわよくばロウファーを。という程度の見積もりであろうよ」
そんなに上手くいくものだろうか。1つの国に全部の兵を入れ込んだ方が良い気がする。
「マイカードゥリアンを囲む列強では、我らがランシア王国が最も大きい。それでもマイカードゥリアンの半分ぐらいの大きさじゃが……別の場所での戦では余程自信があるんじゃろうのう。まぁともかく、釣りは成功しておる」
ランシアの兵を防衛に釣りだしておいて、ここの陽動部隊は勝てないようならあっさりと引く。別の戦場ではどうなっているのか、遠い自分たちには知りようが無い。そういうことらしい。
これまでの人生でラックにとって偉い人というのは農場主や領主のことだった。それよりも上の人物などおとぎ話のようなもので、何を考えているかなど考えることさえできない。
「生きて帰れれば、僕の人生はまったく未知の世界ですね」
「そりゃそうじゃ。大体、お前さんはもう平民とは言えん。アタタタ……腰が痛むのう。儂ももう引退じゃ儂のオール家はお前さんにやるのもよかろう」
「光栄なんですが……問題が」
「なんじゃ」
「字と地図が読めません」
この日から昼は戦場で待機、夜は勉強という奇妙な生活が始まった。ラックはそれほど飲み込みが早くはなかったが、とにかく真面目にやった。農場での仕事と同じような調子だ。
しかし、真面目なだけの純粋なラックは段々と人間らしい機微を取り戻していくようだった。文字を読み書きできたらさぞ気分が良いだろうとさえ思っていた。
勉強は地面に枝で書いて学んだ。本来は砂を使うらしいが、どうでもいいことだろう。
地図に関しては適当な説明だけだった。細かい地図はかなり貴重なもので、領主や国が管理している。それでも老齢のサー・ハルだけあって国内はかなり詳細なものだった。
「この……比較的大きい国が私達のランシア……北にあるのが神聖国家マイカードゥリアン。随分と大きさが違いますね……」
「まぁ大きければ強いというわけでもない。それにマイカードゥリアンを囲う国々である種の連帯を保っている。その5カ国の1つがここ、カーヴィルじゃ。お前さんの先生は随分と長い旅をしてきたと見える」
地面に書かれた地図には北方の海が付け加えられた。この北方の海に接する国がカーヴィルだった。
「先生はどうやって、この国まで……ロンスタッドからロウファーでもかなりの距離があったのに」
「流れて暮らす者は多いが、ここまでの人物はお目にかかったことはないわい。何か大きな切っ掛けがあったんじゃろうのう……そして、お前さんの農場で暮らす気になったわけだ」
剣の師たるソウズ老人。ラックは彼の前歴を何も知らない。自分以外にも弟子がいるなどと考えたこともない。生きて帰れれば、それも分かるだろうか。
兄弟子を名乗った黒騎士の存在は、ラックにとって運命的な存在になっていた。いずれという再戦の約束。未来に向かっての誓いはどす黒くとも希望のように燃えていた。
明日をも知れぬ身だが、ここでの戦いで死ぬ気がしなくなったほどだ。だから、ラックは生きて帰れればという展望を持てるようになっていた。
「生きて帰れれば……僕の帰る場所はもうロウファーになってしまうのですね。農場に帰る時間ぐらいは与えてもらえるのでしょうか」
「それは儂が生きていたら許可を出すわえ。それにしても、ふふっ、お主の故郷の者は腰を抜かすかもしれんぞ。帰ってくるはずのない者が帰り、おまけに騎士見習いになっているのだから」
サー・ハルも徴募兵がどんなものかは知っている。そこに己の従騎士が帰る様を想像すると、思わず笑ってしまうのだ。
「お前さんはロウファーで暮らすことに抵抗はなさそうじゃの」
「ええ。この前の一件が問題になっていなければ、ですが」
「ふふふ。それも想像すると笑えるわい。最前線送りの者が戻ってくるなど、早々あることではない。儂も楽しみになってきた」
これは口には出さなかったが、ラックがロウファーで暮らすことに積極的なのには理由があった。マイカードゥリアンの国境に近いからだ。そうすれば、いずれ来るマイカードゥリアンの侵攻の時、黒騎士との約束を果たすときが来るのだ。
「無事に帰る自信ができてきました」
「若者はそうでなくてはの。死兵などつまらぬものよ。ところで、そこの文字の綴が間違っているぞよ」
こうしてラックは戦いと生を両立させた。
あるいはそれこそが、彼の戦う者としての最大の素質だったのかも知れない。
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