幸運の剣聖

松脂松明

第1話・訓練と経験

 最初に世界を作った老神達は空の向こうに溶けた。

 若い神々は天空に有って、人々を見守っている。

 ――ランシア神統記



 世界は大きく2つに分断されていた。それは単純に東大陸と西大陸と呼ばれている。命知らずの航海者達が調べて回ったところ、島を除いては大陸はそれだけしか発見できなかったからだ。


 さて、東大陸の南端にランシアという王国があった。その中のロンスタッドという地方都市……のさらに遠くの農場にいるラックという人物がこの物語の主役となる。

 ラック少年は物心付く前に両親をなくした子であり、農場主ヤヌックが面倒を見ていた。面倒と言っても部屋を提供して、餓死を防ぐ程度だったが、みなしごにとってこれほどありがたい人物もいないだろう。時折、農場の人々もラック少年を食卓に招いた。


 ラック少年は年相応の無茶やいたずらで、周囲を困らせる子ではなかったが、別の意味で問題があった。

 あまりにも真面目だったのだ。同じ年頃の子どもたちが駆け回っている時にはもう周囲の大人たちを手伝って――もちろんつたなかったが――農作業をしたり、水くみや皿洗いといったこまごまとした雑用をこなした。

 つまりは謙虚すぎたのだ。ある程度ならば美徳だが、過ぎれば悲観的なことだった。大人たちは彼の勤勉ぶりを褒めつつも、遊ぶよう促した。


 といっても、そんなラック少年が同い年の子どもたちに馴染めるはずもなかった。だから、農場外れの廃墟に彼が遊びに行っているようだと聞いた時、農場の大人たちは少しだけ安心したものだ、

 普通なら逆だろうが、彼にも子供心があるのだと知れたことの方が大きかった。


 廃墟は農場近くの小川の外側に建っていた。古い塔のようで、いつ崩れるかわからないような場所だったが、どういうわけかどんな災害でもこの塔を脅かすことはできないようだった。

 そして、廃墟が放って置かれている理由はもう一つある。この塔の住人と名乗るみすぼらしい老人が住んでいたのだ。よれよれになったベレー帽を被って毎日小川に釣り糸を垂らしていて、不思議なことに農園の住人によればもう何十年もそこにいるようだった。



「ソウドおじいさん」

「ラックか。少し待て、幸運ラックが来たおかげで食いついた」



 ラック少年はこの老人と付き合いのある数少ない人間になっていた。住人の噂通り、彼は気難しい人間だったが、こちら側に忍耐があれば問題のない人物であるとラックは知っていた。

 このときも余計なことをせずに、老人が魚を釣り上げて笑い、もう一度釣り針を投げこんだことにもラックは腹を立てなかった。


 といっても仕方がないので、ラックは手荷物を置いて練習用の木剣を手にとって棒振りを始めた。単に振り上げては下ろす。上げ下げの動作だった。



「また腕で振っているぞ。肩に力が入ってるうちはよちよち歩きの域を出れん。まぁ最近は赤ん坊しかみないがな」



 ソウド老人はラックの方を見もせずアドバイスした。まったく不思議なことに彼はあらゆるところに目があるとしか思えない言動をすることがあったので、ラックも素直に従った。

 ラックはこの光景が好きだった。そろそろ実るぞと主張を始めた小麦畑。突き抜けるように青い空と、綺麗な水が流れる小川で師が釣りをしている。後年になってもラックにはこれが一枚の絵のように感じられた。



「さて、と。今日は何を持ってきた?」

「チーズです。バートスさんが今日は魚が食べたいので、交換できないかと」

「どれくらいだ?」

「4匹で一塊だそうです」

「まったく気前がいい。だから儂はあの太っちょが好きなんだ。それはそうと振り棒がそろそろ嫌になってきたんじゃないか?」

「いいえ、僕はこうした単純なことが好きですから」

「それが素質の第一だ。なにせ技というのはなんであれ、最初の修練をずっと続けていくものだからな。だからこうして儂も釣り竿を垂らしているんだ」



 ラックがソウズ老人から剣を習っているのは単純に、近くに剣を使える者がこの老人しかいないからだ。そして、二親ふたおやをなくしたせいか、ラックはこうした訓練が生きていくのに大事だと信じていた。



「あとは余裕があれば天才と呼んでやってもいいのだがな。お前はそちらの方面はさっぱりだ。技を覚えたあとは気の持ちようというのが大事になってくる。腕が上がれば分かる日も来るだろう」

「だからおじいさんもそうして釣りをしているのですか?」

「それもある。今日はこれぐらいにしてバートスのところに行け。5匹入れておいたから、気が変わっていなけりゃお前も一緒に食えるだろうさ」

「ありがとうございます」



 よせと言わんばかりに手を軽く振って、ソウズから魚籠びくを受け取ったラックは農場に帰ることにした。こうした時、老人がもう剣を教える気分で無くなったのだとよく承知していたのだ。

 その晩はバートスの家で食事を取らせて貰えたが、魚は出なかった。


 ヤヌック農場は最高の場所ではなかったが、少なくともラックが育つのに不足は無かった。身長が伸びるにつれ、作業の手伝いが板についてくると大人たちはラックに好意的になった。もちろん、他の少年達が単純作業に不平不満を言ってばかりなことが評価に加味されている。


 相変わらず孤立しているラックだったが、同年代の子供達は面と向かってラックに因縁をつけることも無かった。ラックは相変わらず剣を習っているし、農場の手伝いを続けた結果として力も相応に付いていたからだ。

 直接的に喧嘩を売ることもできず、少年たちは精々が「良い子ちゃんぶって」とぶつぶつ言うのが関の山だった。


 こうしてラックの少年時代はまたたく間に過ぎていった。


 時が経ち、ラックは既に青年と呼んで良い年齢に達していた。

 ランシア人にしては珍しい黒髪を切りそろえて、身長も伸びた彼を子供扱いするのはソウズ老人だけになった。


 思慮深く謙虚な性格はそのままだったが、それがかえって一風違った雰囲気を漂わせて農場の娘達はしばしば彼の姿を目で追った。

 しかし、肝心のラックは剣に夢中だった。手慣れた速度で一日の作業を終わらせると、すぐに師であるソウズのもとへとでかけた。


 この頃になると、ソウズも組み稽古をつけてくれるようになったが、ラックが腕をいくら上げようと老人の剣腕との差を縮められなかった。

 つまり、老人は常にラックを相手に加減をしていることになる。その事実が飲み込めるようになると、ラックの師への尊敬はほとんど崇拝のようになっていた。



「師よ。貴方ほどの方が世に出ていないのはなぜでしょうか? 世間は戦の噂話などが聞こえてくるようになりました。名を成そうとは思われないのですか」

「そんなものに意味は無いからだ。釣りの方がよほど楽しい。まぁお前さんぐらいの歳だと憧れもあれば、興味もあるだろう。ひょっとすると楽しいとさえ思うかもしれないが、いずれ飽きが来る」

「そういうものでしょうか」

「儂がそう思うようになるまで何年かかったか教えてやれば、少しは興味が減るかも知れんがな。しかし、そうだな。そろそろ真剣に教える時期に近づいているのやもしれん。次は剣を用意しておいてやる。死ぬかも知れん、苦しむかもしれん。それでもいいなら、また来ると良い」



 師の不思議な言葉と、とうとう木剣を卒業するという事実はラックの心を激しく揺らした。今までの生でここまで興奮したのも初めてとさえ言えた。薄情だが、両親が死んだ時もどこか現実味が薄かったのだ。


 次の日、意気揚々と出かけたラックを出迎えたのは師だけではなかった。縄でくくりつけられた奇妙な生物がいたのだ。肌は緑黒く、大きさは矮躯わいくといって良い。顔はラックがこれまで出会った人間の誰よりも醜かった。



「お前たちはゴブリンとか呼んでいる生き物だ。まぁ本当の名前など儂も知らん。どういう事情があるかもな。人を襲う厄介な生き物とだけ覚えておけ」



 そう言うと師はどこからか拾ってきたような、錆びた直剣をラックの前に放り投げた。



「斬ってみろ」



 師の短い言葉が耳に残響した。憑かれたように錆剣を手にとったラックは習った構えのまま、凍りついた。

 眼前の生き物は縄から抜け出そうと渾身の力で暴れまわっている。ラックにとっても見るに耐えない醜悪さだが……これほど必死な生き物もまた見たことが無い。



「やれ」



 師の言葉一つで棒振りのように剣を上げて、その生き物の目を見ながら振り下ろした。刃先に伝わる肉の感触は、食肉より硬く甲高い叫びを伴った。



「やれ」



 もう一度振り下ろした。ゴブリンは口から血泡けっほうを溢れさせながら、まだ動いている。



「やれ」



 悪夢のような心地でラックは剣を綺麗にゴブリンの首に振り落とした。皮肉にもそれは今までの修行で最高の一撃だった。

 生き物の首がおちてごろごろと転がった。まだ動きそうな顔つきを見てラックは嘔吐おうとした。


 剣とはかくも恐ろしいものだと初めて知ったのだ。どれだけ格好良く見えようと、こうした結果をもたらすものだと。



「言ったはずだ。剣などろくでもない、とな。まだ学ぶ気があるなら、来ると良い」



 間借りしている部屋へと戻ったラックは、膝を抱えて泣いた。初めて殺した。それも人間に近い姿をしたものを。いや、ひょっとすると肌の色などの違いだけで、彼らも人間なのではないか。そんな思考がぐるぐると頭を駆け巡った。


 翌日……ラックは削げた顔つきで師のもとへと行った。



「まだやるか」

「はい……僕は彼を殺しました。剣の修業のために。やめたら、あの顔から一生逃げることになります」

「そうか……昨日の感触と振りを忘れるな。最後の一撃は見事だった。今日からは技も教える。釣りの合間だがな」



 コレが後世に名を残す剣士の、誰も知らない初陣だった。

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