満員電車で猛烈な便意を耐え続けるエリートサラリーマンが「先生、トレイに行ってもいいですか」と言いそうになってからが地獄

沢田和早

第1波襲来! ふっ、愚かな魔族どもめ。返り討ちにしてくれる

 今日も電車は満員か。この時間だけは本当にウンざりだ。

 まったく忌々しい話だな。どうしてこの私が電車なんぞで通勤せねばならんのだ。ここまで窮屈な会社だとは思わなかった。思い出すだけで腹が立つ。


 ――ゴロゴロ。


 あれは2カ月ほど前だったか。5週間続いた研修期間が終了したのでタクシーで出勤したところ、いきなり総務部から呼び出しがかかった。


「タクシー代が通勤手当として認められるのは電車、バスなどの公共交通機関が使えない場合のみだ。明日からは電車で通いたまえ」

「ああ、別に通勤手当なぞ要りません。私は幼稚園から大学まで毎日タクシーで通っていましてね、これもその延長に過ぎないのですから。お気遣いは無用です」

「むっ……」


 総務部長は苦々しい顔をして私を睨み付けた。


 ――グルグル。


「だとしてもだ、入社1年目の新人がタクシー通勤では、電車通勤している係長、課長、部長の立場がなかろう。それでなくとも君は鼻につく言動が多い。社内の評判が悪ければどんなに優秀でも昇進には不利になるぞ」

「出る杭は打たれる、というわけですか。仕方ない、妥協しましょう」


 生まれて初めての電車通いはこうして始まった。初日から嫌気がさした。ここまで不快だとは予想だにしなかった。係長も課長も部長もよく耐えられるものだと感心する。早く重役になって高級社用車で出勤したいものだな。


 ――ギュルルル。


 ふむ、やはり幻覚ではないようだ。先程から腹の鳴る音がひっきりなしに聞こえている。おまけに便意まで催し始めてきたではないか。


「やれやれ、あの女、冗談ではなかったようだな」


 つい声に出して愚痴ってしまった。健康に配慮した生活を送っている私が、事もあろうに通勤途中の電車の中で便意を催すなどあり得ない。そう、普通ならば絶対にあり得ぬのだ。原因はわかっている。あの女だ。


「あら、あなたこのお店初めてね。よ・ろ・し・く」


 昨晩、得意先の接待でキャバクラへ行った。相手をしてくれた女がかなりヤバかった。


「実はあたし異世界からきた魔族なの。名前はサキュ、サキュバスだから」

「偶然ですね。実は私も異世界から来たのです。名前はユーシャ、勇者だから」


 眠っていた中二病魂に火がいて話を合わせてしまった。私もかなりヤバい。


「あら、勇者様ならあたしの敵ね。倒さなくちゃならないわ。はい、これ飲んで」


 差し出されたのは紫色のドリンク。かなり怪しいが勇者ともあろう者が拒むことなどできない。一気飲みする。サキュ美がにやりと笑った。


「ふふふ。そのドリンクには感染性の魔族が潜んでいるの。明日の朝、勇者は敗北するのよ」


 起床時はなんともなかった。だが電車に乗った途端、加速度的に便意が増大し始めた。くそっ、なんて女だ。冗談などではなく本当にやりやがるとは。


 ――グギュルグギュルー。


 腹の鳴る音が一段と甲高くなった。なんたる不覚。あの女を訴えたいところではあるが証拠がない。ドリンクもコップもすでに廃棄されているだろうからな。

 それに今はそんなことよりもこの便意だ。早いうちに何とかせねば何ともならない事態を招きかねない。


(どうやらこれを出す時が来たようだな)


 だが私は余裕だった。ほくそ笑みながら上着の胸ポケットに触れる。もっこりとした膨らみ、エリクサーだ。昨晩、魔族から挑戦状を叩きつけられて何の策も講じずに電車に乗るわけがない。私は勇者なのだぞ。


「はい、入社祝いの贈り物。これはかなり効くよ。異世界植物マンドラゴラが配合されているからね。」


 中学時代、私とともに熱烈な中二病青春を謳歌し、今は製薬会社に勤務している友人がプレゼントしてくれた小瓶、それが今、私の胸ポケットに入っている下痢止め特化型エリクサーだ。念のために持って来ておいてよかった。彼の話によれば段違いの即効性を発揮してくれるらしい。


「通常の薬は腸から吸収された後、肝臓を通過して血中に入り患部に届く。だから効き始めるまで30分程度かかってしまう。だがこれは違う。服用後5秒で十二指腸へ到達し吸収されることなく1分で小腸を通過。大腸に入ってからは跳梁跋扈ちょうりょうばっこする魔族をじっくりと殲滅せんめつ。直腸に到達する頃には腹の中は元通りの平和な世界を取り戻しているはずさ」


(感謝するぞ、我が同志よ)


 胸ポケットから小瓶を取り出し一気に流し込む。30mlと少量ながらその存在感は圧倒的だ。ああ、感じる。もう胃を通過した。腹の中をくねくね動き回りながら小腸を進軍していく。頼もしい、実に頼もしい。そして大腸に到達。魔族との戦闘が開始された。


(ふっ、話にならんな)


 力の差は歴然だった。我が勇者軍は苦もなく感染性魔族を滅ぼしていく。同時にこれまで感じていた便意も次第に薄らいでいく。やはりこの薬はたいしたものだ。「1本の価格を1千万円にしないと採算が取れないから商品化の目処は立っていない。たぶんこのまま闇に葬られるだろう」と言っていた友人の言葉もなんとなく理解できるというものだ。


「すみません、降ります」


 すっかり体調が戻ったところで後ろから声が掛かった。ああ、駅に着いたのか。ここは私が降りる駅ではない。


「よっ、と」


 降車客のために少し横に動く。しかし特急のわりには停車駅が多いな。私の乗車駅から降車駅まではノンストップで走ってもらいたいものだ。


「むっ!」


 再び電車が走り出した時、突然異臭がした。香水のように甘ったるい匂いだ。いったいどこのどいつだ。こんなキツイ香水をつけて満員電車に乗車するヤツは。迷惑千万極まりない。


「まさか薬を用意しているなんてね。興醒めだわ」


 この声! 横を向くと女が立っていた。


「き、君は!」


 驚愕の声を漏らしてしまった。キツイ香水の主は昨晩私に感染性魔族入りのドリンクを飲ませたサキュ美だった。

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