クロージング・タイム

言の葉工房

《酔いどれトムのブルースが聴きたい》

 17歳の高校生だった僕は、毎週土曜日の午後、必ず訪れる場所があった。

 

 上野公園の通い路。道の端でアコースティックギターを抱えた、無名の男性シンガーの歌を聴くためだった。

 

 1987年の春から通い始め、晩秋を迎えた頃だった。彼は戦前のカントリーブルースをベースに、オリジナル曲をギターで鳴らし、歌を届けようとしていた。

 

 だが、鮮やかな紅葉の下、彼の歌に足を止める者は誰もいなかった。彼のブルースは、時代に逆行する化石のような存在であり、誰も興味を示さない。それがこの時代の空気だった。


 それでも僕は、数メートル離れた道の端で腰を下ろし、彼のブルースに聴き入っていた。

 

 小夜子さよこが僕に声をかけたのは、いつものように彼が演奏を終え、帰り支度を始めた時だった。


「君、ずっと来てるよね」


 小夜子の声は明瞭で、少しだけ早口だった。驚いたのは彼の演奏を聴いていた人間が、僕以外にもいたという事実だった。

 

 ブラウンのセミロング、赤いパーカーにデニム姿の小夜子は、僕に何の屈託もなく「君と話がしたい」と言った。

 

 アメ横通りにある古びた喫茶店で、互いの自己紹介らしきものをした。小夜子は僕と同い年であり、高校には進学せず、アルバイトをしていること。度重なる窃盗で、今年の春は、都内の少年鑑別所にいたことを悪戯を含んだ笑顔で語った。

 

 僕は、平凡な高校生であることしか伝えることができなかった。妙な劣等感を感じたことを覚えている。


「一人暮らしを始めたから、遊びに来て」と小夜子から連絡があったのは、その年の12月23日だった。

 

 何も持たずに小夜子に会うのが、少しためらわれた。僕は翌日のクリスマスイヴにレコード店に立ち寄った。


 ある一枚のレコードに目を奪われた。トム・ウェイツの《クロージング・タイム》というアルバムだった。

 

 初めて小夜子と言葉を交わした時、彼女はシオンという男性シンガーの名前を口にした。彼の《クロージング・タイム》という曲が大好きだと語っていた。

 

 シオンが歌う《クロージング・タイム》には《酔いどれトムのブルースが聴きたい》という一節がある。

 

 僕はシオンの歌う《酔いどれトム》が実在するアーティストであることを知り、すぐにレジで購入を済ませた。

 

 その後、中野新橋駅から徒歩で五分ほどの六畳の1DKの部屋に招かれた。

 

 彼女の部屋は目立った装飾のない質素なものだったが、生活に必要な物はすべて揃っていた。僕はトム・ウェイツの《クロージング・タイム》を小夜子に手渡した。

 

 小夜子は初め、驚いた顔を浮かべ、すぐに笑顔を見せ、黙ったままレコードプレイヤーに乗せた。


《酔いどれトムのブルース》を聴きながら、その夜、僕は女性を、小夜子を知った。

 

 年が明け、小夜子の部屋を訪れる機会が日毎に増し、春を迎えた頃には、自宅へ全く帰らない日々が日常となった。母子家庭の一人息子だった僕は、母親に小夜子のアパートの住所を伝えた。

 

 その時の母親の言葉は「しっかりやりなさい」という、意外なものだった。この時、小夜子が、母親に20枚以上の手紙を送っていたことを知ったのは、何年も後のことだった。

 

 小夜子は夜になると、新宿へ向かった。「客商売」と言っていたが、当時の僕は、小夜子の仕事が「水商売」であったことなど、全く想像もできなかった。

 

 小夜子を見送った後、大学受験に向けた勉強をし、わずかな睡眠時間で朝になると、板橋にある高校へ通った。

 

 季節はすぐに移り去っていったが、深夜に帰宅する小夜子の様子に、次第に変化が見られた。


 帰宅しても平衡感覚を保つことができず、ベットに倒れ込んでしまう。その後、突然起き上がり、トイレで嘔吐する。その繰り返しが続いた。


 僕が何度も体調を心配しても、大丈夫だと笑顔を向けた。

 

 初めて小夜子の部屋を訪れてから一年が経過した、その年のクリスマスイヴ。小夜子は帰宅した際、僕に全身を預け、救急車を呼んで欲しいと、吐息混じりで告げた。


 部屋の固定電話で救急車を呼ぶと、小夜子は違法に入手した精神安定剤を過剰摂取し続けていたことを告白した。


 そして、僕に、今すぐこの部屋から出ていきなさい、と告げた。

 

 僕は、激しく拒絶した。だが、浅い呼吸の小夜子は決して譲らなかった。


「病院に来れば、君の将来が台無しになる」


 小夜子の言葉を聞いた僕は、彼女の心の底にある、救済されることのない孤独に初めて触れた。同時に、一年もの間、小夜子の孤独に気づくことさえできなかった自分を、激しく呪った。

 

 気がついた時には、僕は中野新橋駅の改札口で、呆然と立ち尽くしていた。


《本当に愛した人とは結ばれない運命にある》そんな言葉をよく耳にする。


 陳腐な響きだが、僕にとって、この言葉は真理であると思う。


 妻の手料理を、今年成人を迎えた息子と三人で味わった後、自室のプレイヤーにトム・ウェイツの《クロージング・タイム》のCDを乗せる。

 

 レコード盤の《クロージング・タイム》は僕の物ではない。小夜子の物だ。

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