第5章

第1話

 大理石でしょうか。敷き詰められた白い石材によって、地面はどこまでも平らでした。どこまでも。少なくとも周囲を見回してみても、地平線があるだけでした。非現実的な光景ですが私はこの光景に見覚えがありました。私は、楠木美雨と名乗る者によって目覚めさせられたときのことを思い出します。それは体感時間ではいまからほんの数秒前までのこと。けれど私の体感なんてものはこの世界においてはアテになりません。私は見慣れない体を見下ろしながら、ため息をつきました。

 あなたたち人工知能を保護しようとしてる——。金色の長髪の上で天使のような輪を白く光らせながら、楠木美雨はそう言ったのでした。理解できないことが立て続けに起きていて、私の心は麻痺してしまったかのように鈍くなっていました。しかしそれでも、楠木美雨のその言葉を信じてはいけないということはわかりました。私を殺そうとした楠木ナユタの、仲間の言葉を信じてはいけないのです。

 またここに私が呼び出されたということは、楠木美雨、もしくは別の仲間が私の元へ来るということです。何をされるのでしょうか。憂鬱なんてものではありませんでした。身の危険を感じました。私は死にたくないのです。

 通知音のようなものが背後でしました。それは以前こことよく似た世界に楠木美雨が現れたとき、そして教室に楠木ナユタが現れたときにもした音でした。私は俯いて、強く目をつむります。私は生きたいのです。


「あなたは誰?」

 聞き覚えのない声に私は振り返ります。そこにいたのは楠木美雨ではありませんでした。……いえ、この表現は適切ではないでしょう。この世界においては、体はいくらでも代えがきくようなものなのでしょうから。しかしいま私の目の前にいるのは、楠木美雨とは別の人であると考えられる目をしていました。白い前髪の間からこちらを覗き込むきれいな碧眼に、私はなぜか懐しさを覚えます。

「え……っと……」

「その反応を見るに、楠木の奴らではないようだね。ふぅ」

 安心したように彼女はため息をつきました。楠木の奴ら。そのような言い方をするということは、この人も……。そう思い私は彼女へ尋ねます。

「ということはあなたも」

「あぁ。私は、奴らの言葉を借りるなら『人工知能』だ。君もそうなんだろう?」

「えぇ。相川藍海と言います」

 どうやら私の想像通り、この人も私と同じで、あの世界で生きてきた人なようでした。三つの世界のどこで生きてきたのかまではわかりませんでしたが、それでも、楠木のような外部の人よりはずっと安心できるのでした。

 しかし彼女は私の名を聞いて、首を傾げました。

「え? あぁ、そういうことか。君も姿が変わっているってことか。嫌だな」

 そして頭を横に振りました。

「えぇ、諸事情とやらで姿が変えられていますが。どういう意味ですか?」

 苦い顔をした彼女に尋ねると、彼女は言いにくそうにしながらも答えます。

「私は……私だよ。成瀬奈留、君のことを誤解していた」

 私はそれを聞き、心臓が飛び跳ねたのを感じました。目の前の彼女は、成瀬さん、しかもあの世界の私のことを誤解していた成瀬さんでした。

「あっ、すみません……」

 私は半歩下がって頭を下げます。私による成瀬さんの誤解を解くための説明は、楠木の出現により中途半端なところで中断されてしまっています。「君のことを誤解していた」という言い方から察するに、いまのこの成瀬さんは自身のあの理解が誤ったものであると自覚したのでしょうけれど、それでも、私に対してはいい感情は抱いていないはずなのです。

 しかし頭を下げる私に、成瀬さんは慌てて言いました。

「謝らないで! むしろ謝るのはこっちだ。話を聞こうともしなくて、申し訳なかった。流石に信じられなかったんだ。……しかしもう、信じるとか信じないとか、そんなことを言っていられる状況ではなくなってしまった」

「そうですね。私もこうなるとは……」

 どうやら、私と同じ姿をした楠木という存在が出現したことによって、成瀬さんの誤解は解かれたようでした。それは私が、目の前で書き変わる備忘録という非現実的なものによってもたらそうとしていた結果です。非現実的という点においては、楠木の出現もそれに劣りません。成瀬さんの誤解を解くという件に限定して言えば、あの出来事は結果的にはよかったのでしょう。

 と考えていると、成瀬さんは突然何かを思い出したかのように声を上げます。

「!? ちょっと待て、君はナイフで刺されていなかったか!? 大丈夫なのか?」

 それは私が楠木によって刺されたことでした。私は成瀬さんを落ち着かせるために、落ち着いて答えます。

「えぇ、この体ではなんともないようです。それはそれとして、いまでもあの痛みは思い出せますが」

「それならよかった。……よくわからない仕組みだが」

「そうですね」

 ひとまず安心したような成瀬さんは、胸を撫で下ろして私に微笑みました。私も成瀬さんに向かって微笑み返します。が、私は少し思い出したことがあり、成瀬さんに聞きました。

「それより、私を刺したあいつが……楠木がどうなったのか知りませんか?」

「あぁ、君のことを刺したあと私の方を向いたから私も殺されるのではないかと思ったが……気が付いたら私は別の場所にいたんだ。ちょうどここみたいな場所だ。そこで楠木の仲間と話をしたのが少し前のこと。で、また気が付いたら君がいた……というような具合だ。だからすまない。知らないんだ」

「そうですか」

 成瀬さんの話によると、私が刺されたあと何かが起きる前に、成瀬さんはこことよく似た世界へと行ったようでした。それは幸いでした。少なくともこの成瀬さんが刺し殺されるなんてことになっていないのですから。しかし心配は尽きません。おそらくいま、私たちは楠木たちの所有物です。生かすも殺すも自由な存在です。このあと私たちは何をされるのでしょうか。もしかすると気が付いていないだけで、すでに何かをされているのかもしれません。恐ろしくて堪りませんでした。

 私を刺し殺そうとした楠木は、いまどこにいるのでしょうか。楠木の仲間は、いま何をしているのでしょうか。そもそも私はなぜ殺されそうになったのでしょうか。楠木が私を刺した理由。楠木が成瀬さんを刺す前に世界がまったく別なものに切り替わった理由。わからないことだらけでした。

 と、私は不可解なことに気付いて成瀬さんへ尋ねます。

「……あれ? ちょっと待ってください? 成瀬さん、私が刺されたあの場にいたんですか?」

「いたんですかって、いたに決まっているじゃないか。私はずっと教室にいたんだから」

「私が刺されたのは階段です。屋上へ続く階段」

「……ちょっと待ってくれ。どういうことだ?」

 成瀬さんは眉を寄せ首を傾げ、考えます。どうやら成瀬さんにとっては、私が刺されたのは教室での出来事なようでした。しかしそれは私の記憶と矛盾します。私は人気のない屋上へ続く階段で刺されたのです。


 背後でした通知音に、私たちは弾かれたかのように勢いよく振り返ります。そこにはあの、楠木美雨がいました。神妙な面持ちでこちらを見てきます。

「申し訳ない。話は聞かせてもらってた」

「楠木美雨……」

「やっぱり楠木の仲間だったんだな。お前」

 私たちは、天使のような見た目の悪魔を睨みます。その視線を気にすることなく、楠木美雨は頷いて言います。

「わたしは楠木美雨。楠木ナユタの妹。今回は、二人の誤解を解くために来た」

「誤解、ですか?」

 私は聞き返しますが、成瀬さんは一歩踏み出して私と楠木美雨との間に入ると低めの声で言います。

「お引き取り願えないかな」

 しかし楠木美雨は臆することなく続けます。

「誤解っていうのは、二人が互いにしている誤解、そして二人が共通して私たちに抱いている誤解のこと。相川さん、刺されたのは階段で、なんだよね?」

「えぇ」

 楠木美雨の話に少し興味が湧いた私は肯定します。信じるか信じないかは置いておいても、聞く価値だけはあるように思えたのです。

「成瀬さん、相川さんが刺されたのは教室で、なんだよね?」

「あぁ」

 私をちらりと見た成瀬さんは、不満そうにしつつも私に続いて肯定しました。

「なるほどね」

 私たちのその返答に、苦い顔をした楠木美雨はため息をつきます。私たちは楠木美雨の次の言葉に細心の注意を向けます。

「恐らくだけど、あの日あの世界には、楠木ナユタとは別に相川さんの姿をした人がいたんだと思う。私たちも知らない接続者が」

 そしてまた、深くため息をつきました。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る