第1+3*3話B

 私は書き終えました。何枚ものルーズリーフを消費して。何回もシャーペンをノックして。何回も消しゴムを手探りで掴み、何回も文字を消し損ねルーズリーフにしわを寄せて。

 床に座ってその様子を黙って見てくれていた成瀬さんはいま、書かれたばかりのその「物語」を読んでいます。その成瀬さんに寄りかかるようにして、私もまた、成瀬さんが書いてくれた「物語」を読み返すのでした。私たちは、自身の経験と気持ちと考えを物語のように書いて交換し、お互いを理解しようとしているのでした。それは、無用な会話で世界が切り替わってしまうのを防ぐことができるという点からも優れているものだと考えられました。


 成瀬さんの、右肩上がりで細身な文字を追っていると不思議と頭が冴えてきました。私がすべきことは大きく分けて二つ。世界が切り替わってしまうことがないようにすることと、不意に世界が切り替わってしまったとしても大丈夫なようにすること、です。

 前者のためには、世界を切り替える具体的なキーワードを調べる必要があります。「不可解な三つに分かれた世界」に関連した事柄はアウト。例えそれが、発言者自身信じていないようなものであっても……ということは、前回の、あの世界の成瀬さんによるこの世界への切り替わりで判明しました。もしかすると言葉の綾などではなく本当に、キーワードと呼べてしまうような特定の何かが存在するのかもしれません。切り替わりは、話者の心までは読み取っていないのかもしれません。また、成瀬さんからの「君の小説」やおじいさんからの「きみの物語」というフレーズに対しても切り替わったのにも注意が必要です。それらのフレーズに反応しておきながら、「君がしたように、自身が感じ考えたことを文字にしてみた」という先程の成瀬さんの言葉には反応しなかったことも考えなければなりません。備忘録なら問題なく、物語や小説なら問題があるのでしょうか。わかりません。

 後者のためには、切り替わった先の世界の安全を確保しておく必要があります。この世界に関してはもう心配はいらないでしょう。成瀬さんという心の底から信頼できる仲間がいるのですから。あとは不登校なことをなんとかすれば、といったところです。しかし成瀬さんが死に、私が死のうとした世界はどうでしょうか。頼れる仲間がいないどころか、「その世界の私」すらも不登校で頼りない状態です。まずは森で横になってなんていないで、早く帰宅するべきです。そして、あの世界はどうでしょうか。成瀬さんが私を誤解し、私に敵対しているあの世界は。仲間どころか敵がいて、学校へ行かなくて済むのならもうずっと引きこもりたいくらいの状況です。どうにかしてあの世界の成瀬さんの誤解を解かなければなりません。

 そしてそれらとは別に、なぜ「私の書いた物」が記憶同様に次の世界へ継承されているのかも考えなければなりません。私が物理的に筆記したものなら、他にもたくさん存在します。そうであるにも関わらず、なぜこれらだけが継承されるのでしょうか。この短編小説と備忘録に、何か共通点はあるでしょうか。この短編小説と備忘録に共通してある、他のたくさんの物と決定的に異なっている点はあるでしょうか。

 そして、すべての始まりであるあの夏の日、世界に何が起きたのでしょうか。私の身に何が起きたのでしょうか。


 成瀬さんに寄りかかりながらそのようなことを考えていたら、成瀬さんがルーズリーフの束を目の前の床に置きました。どうやら読み終えたようでした。私は少し離れると、成瀬さんの表情を伺います。

 眉を八の字にした成瀬さんは、その表情通り申し訳なさそうな声で私に言いました。

「どうやら私が、君にひどいことをしたみたいだね。申し訳ない」

 私は慌ててその謝罪を遮ります。

「そんなことはありません。……まぁたしかに、仲良く過ごしていた人とまったく同じ見た目をした人に、あのような視線を向けられるのはとてもつらいものではありましたが。でも、あの成瀬さんも悪いというわけではないでしょう。私の備忘録を読んで勘違いをしてしまうというのは、ある程度仕方のないことだと思いますから」

「それでもだ」

 成瀬さんは語調を強めて言います。

「人の弁明を聞こうともしないとは、我ながらひどいことだ。君が誤解されていることは気分のいいものじゃない。誤解しているのが私だっていうんなら、尚更だ。どうにかして誤解を解くことができたらいいんだけど……」

「そうですね。私も、誤解を解いておくことは重要であると思っています。しかし、聞く耳を持ってくれない相手に対してこの複雑な事実を伝えるのは、とても難しいことだとも思っています。ましてや、口で説明することもできないようなものなのです。勢いに負けてしまうのは目に見えています。……実際、そのようにして私はここへ来ることになったのですし」

「どうにかしてその私に、真実をぶつけてやれたらいいんだけど……」

 私と成瀬さんは二人で、この悩ましい問題について考え始めます。これまでは、私一人で悩むことしかできていませんでした。しかしこの世界には、すべてを知った信頼できる仲間がいてくれます。とても心強いのでした。


 しばらくした頃、成瀬さんは思い付いたことがあったようで、私に筆記用具を要求してきました。私はルーズリーフとシャーペンを渡し、成瀬さんが書く内容を注視しました。

<この備忘録は相川さんの記憶みたく継承されているわけだけど、それは記憶と本当に同じような継承のされ方なのかな?>

「それは……どういう意味ですか?」

 よくわからない問いに、私は尋ねます。

<記憶は確かに継承されている。前の世界から次の世界へ。前の世界で得た記憶は、次の世界へ行ってもきちんと残っている。では備忘録はどうだろう? この世界で追記した内容も、次の世界の備忘録に反映されて読めるようになるのか?>

「まだ試していないのでわかりませんが、もしそうだとすると……動かぬ証拠となりそうですね」

 私がそう言うと、成瀬さんは深く頷きます。

<そう。もしそうだとするなら世界が切り替わった瞬間、備忘録に、前の世界での追記内容が反映されることになる。いままでなかったページが追加されることになる。目に見える形で備忘録が増えることになる。……動かぬ証拠というか、動いてるね>

 私はシャーペンをもう一本取り出して、筆談をします。

<それを見てもらえば、あの世界の成瀬さんに理解してもらえるでしょうか>

<非現実的なそれを目にすれば、きっと、君の非現実的な話も無視できなくなるだろう>

<あの世界での出来事が、つい先程までの会話が、あの世界の成瀬さんが手に持っている備忘録にすでに書かれている……。普通はありえません。非現実的なことこの上ありませんね>

 しかし成瀬さんはため息をつきます。

<問題は二つ。追記内容も継承されるという確証がないことと、追記内容をどうやってその世界の私に見せればいいか、ということだ。継承に関してはまだまったくわからないし、無事に継承されたとしても、きっとその世界の私は「読んでみろ」と言っても素直に読もうとはしないだろうからね>

 そして成瀬さんは頭を振りました。降参だ、と言うように。


 <とりあえず私は、その世界の私とやらに思いを馳せてみるよ>と、目を閉じ頭をひねって考え始めた成瀬さん。私は、成瀬さんが書いてくれた部分も含めた、いままでに書いた備忘録すべてを、パラパラとめくりながらぼんやりと考えていました。そして、結局あの話が中途半端なところで中断してしまったままなことを思い出しました。そういえば、と前置きして私は成瀬さんに言います。

「いろいろあって、成瀬さんにきちんとは伝えられていないことがありました」

「なんだろう?」

 成瀬さんは目を閉じたままこちらを向きます。なんだか可愛らしくて笑ってしまいそうでしたが、それは堪え、私は話を進めます。

「お墓での話の続きです。あの夏の日、成瀬さんを止めることもせず止めないこともせず、ただわからないフリをしていた私についてです。そして、あなたが死のうとした理由についても、もしよかったら教えてはもらえませんか?」

「あぁ、そんなこともあったね。構わないよ。元々あのとき、そういうことを話そうとしていたからね。……漠然とした焦りから、だったっけ」

「えぇ。あのときの私はあなたが何をしようとしているのか、薄々、気が付いていました。しかしそれは『薄々』で、確かなものではありませんでした。だから私はそれに甘えて、目を背けてしまっていたのです。死という嫌なことを意識したくなくて現実から目を背けていたのです。ただ、『もしその気付きが正解であったとして、死んでほしくはない。であれば何かを伝えて防がなければならない』という気持ちだけはあって。その漠然とした焦りが、私にあのような中途半端な行動を取らせたのです」

 成瀬さんは数回、深く頷くと私の目を真っ直ぐに見て、

「うん。やっぱり私は君のことが好きだな」

 と言います。しかし私はピンと来ず、「そうですか?」と尋ねます。現実から目を背けることの何がよかったのでしょうか。

「あぁ。薄々であったとしても、素振りを見せているというその事実は重大だ。だから普通なら私に対して、『そういう人に対して取るような行動』を取るのだろう。理性的で、落ち着いていて、相手を落ち着かせるような行動を。ただ私はそれが心底嫌いなんだ。でも君はそうではなかった」

「まぁたしかに、少し違ってきます。……以前どこかで、『死に至る背景を理解せずにただ止めるようなことは酷なことだ』なんていう話を聞いたことがあって、それを少し思い出してしまって。私に止める権利なんてものはないように思えたのです」

「でも君は止めないこともしなかっただろう? それはどうしてなんだい? 君の備忘録にも書かれていなかったけど」

「それは……ただ、言葉を交わした相手に死なれると、ふとしたときに思いを馳せてつらくなってしまいそうだと思っただけで。深い理由とか己の哲学とかそういった立派なものはなくて、ただただ私自身のためを思っての行動だったのです。我が身かわいさでの行動だったのです。あなたの『自由に生きて自由に死ぬ権利』と、私の『見たくないものを見ない権利』とを、天秤に掛けて両方を取った、というそれだけです」

 私は自身が言っている内容が随分とちんけだと感じ、尻すぼみになりながら言いました。けれど成瀬さんは、また深く頷いて言います。

「そうか、うん。やっぱり、私は君のことが大好きだな」

「どうしてそんな……」

「君は面白い。面白くて、そして、心地良い。相手のことを思いつつも自分のことも尊重し、それを隠そうとしない。その姿勢はとても人間らしくて、私は大好きだ」

「褒められるようなことはこれっぽっちもしていないと思いますが。むしろ天秤の両方を取ったというのは、あまりよくないことな気が」

「いいや、そんなことはない。そんなことはないさ。私の周りの人たちはみな、自分を超人に見せたがるんだ。人間らしくない、『超人』にね。『死んでほしくない』という気持ちに蓋をして、『死ぬのはベストじゃない』なんていう風に、理性的で打算的な様を演じる。その人を落ち着かせるような行動を取る。また、『死に至る背景を理解せずただ止めるのは酷』だなんてことを平然と言ってのける存在もまた、人間らしくない。そういう輩も、感情を理性で抑えていることに変わりはないと私は思うんだ。……以前そういうことが身近なところであってね。自分の価値観と周りの人たちの価値観の違いを痛いくらい感じたのさ」

 成瀬さんは少し苦い顔をしながら言います。そして続けて、

「……でも君は違った。そういった考え方を理解しつつも自分の感情を尊重して、結果として中途半端になる。それはとても、人間らしくて愛らしい」

 と言って微笑みました。

「あなたはその、『周りの人間たち』を嫌っているんですか?」

 私の問いを受け、成瀬さんは少し考えるように顎に手をあて、しばらくしてから言います。

「そうだね、嫌っている。理性の演者も、それに陶酔する観客も。理性的なことを理想的だと謳う創作者も、それに感化される消費者も。理性と感情に上位も下位もない。そういう風に私は、昔から思っていたんだ。……そしてあの日、私はどうしても死にたくなってしまった。嫌いな奴らから私の、私だけの価値観を守るために。でもそんな私の前に現れた君は、嫌いな奴らとは違っていた。私の価値観は私だけの価値観ではないかもしれない。そう思ったら、急に憑き物が取れたように衝動が治まってね。結果として、私の価値観は私だけの価値観ではなく、君も同じだった。死ななくてよかったよ」

 成瀬さんはそう言うと、困ったように肩をすくめて続けます。

「まさか本当に死ぬことになるとは思っていなかったけどね。『この私は』、君と出会えて本当によかったよ」

 私の方から話を振っておきながら、なんと声をかければいいかわかりませんでした。成瀬さんの価値観にもきちんとした理由が当然あって、私にはなんとも言えないのでした。


「あっ、ちょっと待って」

 と、何かに気付いたような様子の成瀬さんがシャーペンを握ります。

<私が君と出会わなかった世界の私も、この「理性と感情の上下関係」の話に少し反応していたよね?>

 私はページをめくり、その話まで遡って、成瀬さんに見せます。

<「それは私が考えていた、けれどいままでずっと心から出していなかったものだ」か。なるほど。思っていたより、その私はこの私と似ているかもしれないな>

 そして成瀬さんは少し考え込むようにしたあと書きます。

<その世界の私もこの世界の過去の私と同じように、「理性と感情」について悩んでいるのだとしたら、きっと付け入ることができるかもしれない。その私は確実に、多くのクラスメートに囲まれることを快くは思っていないはずだ。というのも、さっきの話の「嫌いな奴ら」とは前の学校で仲良くしていたクラスメートのことでね。以前、飛び降り自殺をした高校生のニュースについて話に上がったときに、いろいろあって嫌いになったのさ。きっとその私もこの私と同じように、その出来事を引きずっているはずだ>

<無理して仲良くしている、ということですか?>

 と私が尋ねると、成瀬さんは首を縦に振りました。

 やはりその世界の成瀬さんにとっても、この話は重要なようです。すべてを知ったいまなら、その世界の成瀬さんに何かしらのよい作用を及ぼすことができそうです。

 成瀬さんは続けます。

<そもそもこの世界の私はいまの学校へ、自殺未遂がバレたから転校することになったんだ。丁寧に用意した遺書が見つかってしまってね。それを考えると、その世界の私が転校した理由がよくわからない。もしかするとだがその私もまた、自殺未遂をしでかしたのかもしれない>

<でも私はあの夏の日、その世界では成瀬さんに会っていません>

<それでも森へ向かっただろう? それが何かしらの影響を与えたのかもしれない。出会って話をしていないだけでその私に見つかっていた、とか>

 この世界の成瀬さんの不自然な転校の理由を知っていることも、その世界の成瀬さんによい作用を及ぼすことに繋げられるかもしれません。


 以上を受けて私は対策を立てました。そして最後に残った課題。それは、世界の切り替わりをどのようにして防ぐか、でした。

<世界が切り替わらないようにするためには、どうすればいいのでしょうか>

 成瀬さんに問いかけます。

<そもそも、世界がなぜ切り替わるのか、そのトリガーとなっているものがなんなのかがわかっていない以上、防ぐのは難しい気がしてしまう。それに、きっとその世界へ君が戻ったとして、その瞬間、その世界の私は君に向かって、世界の不可解を口にするだろう。防ぎようがない>

 それは至極もっともな意見でした。それを読んだ私は、以前から薄々考えていたことを伝えようとします。

<防ぎようがないのでしたら——>

 すると成瀬さんは、にやりと笑うと。

<どうやら君も、私と同じ考えなようだね。防ぎようがないのなら、開き直ってしまえばいい。幸いなことに世界の切り替わりは、三つの世界を巡るようにして起きているからね>

 と書きました。


 この世界での備忘録への追記内容の、あの世界の備忘録への反映。この世界で知ることのできた成瀬さんの価値観と、それと関連した転校の理由。そして、防ぐことのできない世界の切り替わりへの対処法。まだわからないことはありますが、現時点ではもう考察の余地がないというほど考えました。あとは実際に次の世界へと移動し、最終確認の後、いざあの成瀬さんと対峙するのみです。



「大丈夫?」

「えぇ。……それでは行ってきますね」

「行ってらっしゃい。待ってるよ」

「そんなことを言って、成瀬さんにとっては一瞬でしょう?」

「そうだね、またすぐに会うことになる。そしたらまた送り出すよ。……準備はいい?」

「少し待ってください。この備忘録のよいタイトルを思い付いたのです。長ったらしくない、とてもよいタイトルを」

「どんなの?」

「『あなたと紡ぐ物語』」

「……それで君がいいのなら、私から言うことはないさ」

「それでは、今度こそ行ってきます」

「あぁ、行ってらっしゃい。——次の世界へ」

 成瀬さんの声がこの小さな部屋の埃っぽい空気に溶け込んだ瞬間、私は落ちていきました。成瀬さんと寄り添う体はそのままに心だけが、意識だけが倒れて落ちていきました。下へ。後ろへ。次の世界へ。

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