第3話

 目の前の学習机の上では、「君に恋する夏の海」と書かれたルーズリーフが、どこからか射し込んでくる光に照らされていました。視線を上げると、藍色をした遮光カーテンが風を受けて揺れている様子が目に入りました。さらに視線を上げると、稼働中らしいエアコンが大きく口を開けているのが見えました。

 私は椅子から立ち上がると、ふらつきながらも姿見の方を向きます。銀色に光る眼鏡のフレーム。暗い目元。バラバラと乱れた長い前髪。その姿はまるで妖怪のようでした。私が右を向くと妖怪は向きを変え、左を向くと妖怪もまた向きを変えます。私はその妖怪から目を離すことなく、財布が置かれていたはずのサイドテーブルに手を伸ばします。私は外へ出ることにしたのです。部屋の外へ、家の外へ、街の外へ、出ることにしたのです。神社の森へ行くことにしたのです。


 私は蒸した空気を肺に取り込みながら、抜けるような青空の下を歩きます。酷く暑いというのにいまにも震え出してしまいそうで、しばらくしたあと、私は走り出しました。足音が馬鹿みたいに響きます。しかしどれだけうるさく響いても、少しでも早く辿り着けるのであれば構いませんでした。フォームなんてものも知りません。どれだけ格好悪い走り方だったとしても、少しでも早く辿り着けるのであれば構いませんでした。私は汗を振りまきながら、駅に駆け込みました。

 握って持ってきた財布から小銭を取り出そうとしましたが、どうしても手が震えてしまいました。小銭をつまもうとする指が妙に太く、扱いにくいものに感じられます。何度か落としそうになりながらもつまんだ小銭を、券売機に押し込むように入れ、吐き出された切符を握りしめました。黒かったはずの財布は汗で濡れてより黒く見えましたが、いまの私はそんなことを気にしてはいられませんでした。私は財布をポケットへねじ込みました。


 電車の中は寒いぐらいにクーラーが効いていて、夏本番を感じました。汗が一気に蒸発し、私はがくがくと震えます。あたりを見渡すと人はまばらで、その人たちは私のことなど見ていませんでした。私はドアの近くの座席に座りました。

 何もわかりませんでした。何も考えられませんでした。何も。ただただわからなくて、息苦しいのでした。それは恐怖心によるものでした。どの経験が現実のものでどの私が私なのか、わかりませんでした。とにかく私は、何もかもが怖くて恐ろしくて仕方がありませんでした。そしてこの恐怖すらもすでに一度経験したものであるというのがとてつもなく気味が悪く、吐き気がしました。

 目を閉じます。瞼の裏にはおじいさんの顔がありました。貼り付けられたかのような笑顔がありました。両耳を両手で覆います。おじいさんの声が聞こえました。遠くからうるさいくらい響いてきました。

 すがりつくように、祈るように、胸の前で切符をしっかりと握りつつ、私は電車に揺られます。運転手の怠そうな声が聞こえてきました。

「次はぁ神社前、神社前ぇ」

 しばらくしたあと、電車は駅になめらかに止まりました。私は重い体を動かし、夏へと降り立ちました。再会を祝福し、歓迎するかのような暑さが、私の体を優しく揉みました。


 電車から降りた私は、神社へ向かおうと通りを歩き始めます。駐車場、住宅、駐車場、蕎麦屋、また駐車場……。さっき来たときと同じ順番でした。彼女と出会った白昼夢とも同じ順番だと、私は思い出しました。いま私がいるのは現実でしょうか、それとも白昼夢でしょうか。

 真っ直ぐに歩けませんでした。通りを行く人は私を見て、避けて歩きます。鳥居の赤を視界に捉えた私は、一歩一歩、地を踏みしめるように進んで行きます。すると、ある駐車場に停まったバスの前で、小さな、けれどとても派手な黄色い旗を掲げた女性と、その女性を囲む人だかりがあるのが目に留まりました。

「みなさーん、お手荷物はお持ちになられましたかー?」

 ツアーガイドとツアー客が、私にとっての「よく知る神社」を観光地として見ていました。途端にこの世界が彼女と出会った白昼夢と同じ世界のように感じられ、喉が苦しくなります。私はたまらずその人だかりから目を背け、縮こまりながらふらつく足で鳥居へ向かいました。

 軽くお辞儀をしたあと鳥居をくぐり、順番待ちをしたあと手と口を入念に清め、順番待ちをしたあと二礼二拍手一礼をし、私は少し落ち着きました。私は、豪華な拝殿の後ろにある森と、そこからうるさいくらい響いてくる蝉の鳴き声に耳を傾けます。おそらくここは、白昼夢の中の世界です。最初に見た白昼夢がある種の予知夢であったことに衝撃を受けた私が、その最初の白昼夢をもとに、またおかしな夢を見始めたのです。白昼夢の明晰夢。すべてが馬鹿馬鹿しくなるフレーズでした。

 ちょうど、森へと続く整備された道をゆっくりと進むおじいさんを見つけました。私はそのおじいさんを見て、早まった鼓動を感じます。現実世界では、あのおじいさんが彼女を見つけます。まだ温かい彼女を。つまり彼女はまだ生きています。

 あの白昼夢で私は彼女に対し、どのような感情を抱いたのでしょうか。何を伝えようとしたのでしょうか。どうしてほしかったのでしょうか。どうなってほしかったのでしょうか。これは答え合わせです。最初の白昼夢の世界で、私は彼女と出会いました。次の現実世界で、私は彼女に対して抱いた感情をもとに小説を書きました。そしていま、また別の白昼夢の世界で、彼女へ過去に抱いた感情を伝えるのです。それが私にできる彼女への、私が森へ行かなかったせいで死んでしまった現実世界の彼女への、贖罪であると思えました。

 私はそのおじいさんを速歩きで追い越し、森の中へと入っていきました。


 森の中に入ると、涼しさと湿り気を感じました。蝉時雨は容赦なく私に降り注いできます。むせ返りそうになるほどに濃い懐かしい匂いの空気を吸いながら、細くて先が暗い道を選んで、ずんずんと進んでいきました。

 どれだけ歩いたでしょうか。随分と森の奥深くまで、それこそ、私があの夢で彼女と出会った場所よりも奥まで入ってしまったと思われました。夢の中は時間の流れが現実とは違うように感じられて、五分なのか、はたまた三十分なのかわかりませんでした。立ち止まり、スマホを取り出そうとポケットに手を入れます。しかしその手は財布を撫でただけでした。私はベッドサイドテーブルの上に置かれたままであろうスマホに思いを馳せます。こんなところまでもがリアルな白昼夢に私はうんざりし、ため息をこぼしました。私は目を閉じ、私を取り巻く世界を感じます。これ以上ないほどリアルな立体音響でした。当たり前などではありません。ここは白昼夢の中であり、現実ではないのですから。

 しばらく立っていたら、頭から血の気が失せるのを感じました。痛みだす頭。ドス黒く染まっていく世界に飛ぶ星。容赦なく打ち付ける蝉時雨の冷たさ。貧血でした。私は尻餅をつき、そのまま仰向けに倒れました。

 じわじわと頭へ血が巡っていくのを感じました。耳元に心臓があるのではないかというほど、鼓動がうるさく感じられました。地面は冷たかったですが、やわらかく、私を受け止めてくれていました。


 彼女はいまどこにいるでしょうか。私は彼女へ思いを伝えなければならないのです。白昼夢の世界で抱いたあの思いを。現実世界で綴ったあの思いを。

 「君に恋する夏の海」。私は改めて名前を、声帯は震わせずに口にしました。私はあの物語にどのような思いを込めたのでしょうか。私は彼女に対し、どのような感情を抱き、何を伝えようとしたのでしょうか。あの物語において、私の分身である主人公は彼女を投影した少女に対し、どのような感情を抱き、何を伝えたのでしょうか。

 そして私は気が付いてしまいました。あの物語において、主人公は何かを伝えてなどいないということに。何も書けない主人公は海へ行き、少女と出会いました。けれどふと目をそらしたすきに少女はどこかへ消えてしまい、主人公は思いを伝えるために物語を書き始めたのでした。そして、そこで物語は終わってしまうのでした。思いが明かされる前に、私はその物語を終わらせてしまったのでした。何も書けていない。それはつまり、私はあの白昼夢にて彼女に対し抱いた感情を物語に込めることなどできていないということを表していました。伝えようとしたこと、やってほしいと願った行動、なってほしいと願った未来。私はそれらを書けなかったのです。

「なんだか毒気が抜かれてしまったよ」

 彼女の言葉を思い出しました。もしかすると私は、ただ書けなかったというわけでもないのかもしれません。私は彼女と出会ったそのとき、死という嫌なこと、けれど重要なことから目を背け、物事を深くは考えずにいたように思います。物語に込めるも何も、立派な思いなんてものは最初から抱いてなどいなかったのではないでしょうか。しかしながらそのときの私には、死んでほしくないという、何かを伝えなければならないという思いだけはあったのです。つまり私が彼女に対し抱いた感情とは、漠然とした焦りのようなものでした。

 彼女と出会ったとして、私に何ができるのでしょうか。


 どれだけ横になっていたでしょうか。明らかに異質な音が耳に入ってきました。人間が二本の足で道をゆっくりと歩く音でした。私は深く考えることなく目を開け、その音がする方を見ました。

「きみ、どうしたんだい?」

 おじいさんが、倒れた私の顔を覗き込んでいました。長い眉としわの目立つ頬と心配そうな目。しばらく前に、私が追い越したあのおじいさんでした。少し前の秋の日に、首を吊った高校生について私に教えてくれたあのおじいさんでした。半月ほど前の夏の日に、私が追い越していたあのおじいさんでした。

「彼女を、見つけませんでしたか?」

 私は倒れたまま、そのおじいさんに尋ねました。おそらくおじいさんにとって彼女は、見かける対象ではなく見つける対象でしょう。尋ねてから、声が小さすぎたのではないかと心配になりましたが、おじいさんはきちんと聞き取ってくれたようでした。

「彼女とは誰のことだい? お友達かな?」

「私と同じくらいの年の女の子です。白いティーシャツと短い黒髪の」

「さぁ……若いのは君ぐらいしか見てないねぇ。はぐれちゃったのかい? というより、横になって、調子悪いのかい?」

「……そうですか」

 私はまた目を閉じました。もしおじいさんが彼女を見つけていたとしたら、こんなに落ち着いてはいられないでしょうね、という当然のことに気が付きました。半月が経ったあのときでさえ、酷い状態でしたから。

 しばらくしてもおじいさんの気配は変わらずそこにありましたが、おじいさんの気配しかありませんでした。

「……大丈夫かい?」

 心配そうな声が聞こえてきました。貧血はだいぶ落ち着いてきていて、私は心配をかけていることに少し申し訳なくなりました。

「少し貧血みたいで。でも大丈夫です」

 できる限り元気そうな声を作り、そのように答えました。

「なるほど、だから横に。何かわしにできることは……」

 目を閉じているので顔は見えませんでしたが、それでもわかるほど気を使って、おじいさんはそう尋ねてきました。「この道の少し先を見に行ってみてはもらえませんか?」私の喉元まで、そのような台詞が上がってきました。もしかしたらこの道の先を少し行けば、彼女が見つかるかもしれません。そう思ったのです。

「いえ、何も」

 しかし前回の白昼夢のときよりも奥に入っていると思われる今回、私はここまでの道で彼女に会っていませんし、おじいさんも彼女を見つけていません。そうなると、彼女はもともとここに来ていないと考えるのが自然でした。自然でしたし、楽でした。彼女はいません。楽でした。

「そうか。……よければだが、そのお友達についてもう少し詳しく聞かせてはもらえないかい?」

 おじいさんはそっと尋ねてきます。私は彼女について知っていることを伝えます。

「短い黒髪の高校生な女の子です。白いティーシャツを着ていて、細めなジーンズを履いていて。会えるかもと思ったのですが」

 そして私は、彼女についてほとんど何も知らないということを認識しました。結局、名前すらも教えてもらえていませんでした。

「ふぅむ、見てないねぇ。それにしても、森の中で待ち合わせかい?」

「いえ違うんです。会えるかもしれないと思っただけで。夢で見たと言いますか」

 私はそう言って、ここも夢であるということを思い出し、馬鹿馬鹿しくなりました。このおじいさんだって、私の頭が勝手に作り出した存在に違いありません。私にとって都合のいいことを適当に語るだけの存在に違いありません。そう思ってしまいました。

「ほぅ、運命のような何かかな。わしはそういうもの、浪漫があってよいと思うぞ」

 そんな、私にとって都合のいいことを適当に語るだけの存在が、私にとって都合のいいことを言います。

「残念ながら、運命の出会いなんてありませんでしたけどね」

 私はそれに、苦笑混じりに返します。けれどおじいさんは言いました。

「本当にそうかはわからんぞ? ……そういえば、わしはいつもはこんな森の奥深くまでは立ち入らないのだが、今日は無性に歩きたくなってしまってね。これも一種の運命の出会いようなものだろうかね? わしは君の物語に登場するおじいさんさ。ははは」

 私は目を開け、おじいさんを見ました。けれどおじいさんはこちらを見てはいませんでした。おじいさんは背の高い木々の枝葉の隙間から、空を見上げていました。小さくて青くてどうしようもなく小さい空を。小さな青空に向かって笑いながら、おじいさんは言います。

「……わしはきっと、きみの物語のためだけにいるんだ」

 おじさんのその声がこの世界に溶け込んだ瞬間、私は落ちていきました。体はそのままに心だけが、意識だけが落ちていきました。下へ。深みへ。……どこへ?

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る