第2話

 エアコンから音を立てて吹き出す冷風が、閉め切られた分厚い遮光カーテンをほんの少しだけ揺らし、生まれた僅かな隙間から部屋の中へ、外の明るさが忍び込みます。照らされた学習机の上の原稿用紙には何も書かれていませんでした。何かが書かれていた痕跡すらもありませんでした。升目だけが整然と並んでいるのでした。

 目を閉じます。瞼の裏には彼女の顔がありました。微笑む彼女の顔がありました。両耳を両手で覆います。声が聞こえました。優しい彼女の声が聞こえました。

 私は椅子から立ち上がると、ふらつきながらも窓辺へ行き、遮光カーテンを剥ぎ取るように勢いよく開けました。部屋は一転してまばゆい光で満たされ、私は目の奥の貫くような痛みにうめき、何度かまばたきをします。しばらくするとその痛みは耐えられるレベルにまで落ち着きました。部屋を見渡すと、姿見に映るもう一人の私が、乱れた髪の向こうから銀縁の眼鏡を通してこちらを見つめていました。その姿はまるで妖怪のようでした。私が右を向くと妖怪は向きを変え、左を向くと妖怪もまた向きを変えます。喉のところに酸っぱい感情たちが這い上がってきました。

 何もわかりませんでした。何も考えられませんでした。何も。ただただわからなくて、息苦しいのでした。


 胃の中のものをトイレに流してからしばらく経つと、いくらか落ち着いてきました。しかし何かをする気は起きませんでした。外へ出て、電車に揺られ、通りを歩いて、神社へ行くなんてことは到底できそうにありませんでした。それは底知れなく暗い、恐怖心によるものでした。とにかく私は、何もかもが恐ろしくて怖くて仕方がありませんでした。先程までのあの経験が現実のものでないと確かになったら、先程までの私は私でなくなってしまうかのように思えました。先程までのあの経験が現実のものであると確かになったら、この私は私でなくなってしまうかのように思えました。

 電車の効きすぎたクーラーの寒さは、なんだったのでしょうか。湿り気のある緑の匂いは、蝉時雨を全身で浴びた感覚は、そして何より彼女は、一体なんだったのでしょうか。夢か現か幻か。そもそも夢とはなんでしょうか。幻とはなんでしょうか。


 私は遮光カーテンを閉めました。少しでも光が漏れて入ってきてしまわないように、丁寧に丁寧に閉め切りました。再び暗くなった部屋で私はベッドに横になり、タオルケットにくるまりました。腕を伸ばし、ベッドサイドテーブルに置かれていたスマホを手に取ると、音声アシスタントに囁きます。

「夢って何?」

「夢とは、睡眠中にあたかも現実のもののように感じたもののこと」

 アシスタントは百科事典の概要を読み上げました。

「幻って何?」

「幻とは、実際にはないにもかかわらずあるように見えたもののこと」

 アシスタントは国語辞書の項目を読み上げました。

「……本物ではないんですね?」

「すみません。よくわかりませんでした」

 アシスタントは言いました。何もわかりませんでした。


「なんだと言うんですか」

 私と音声アシスタント以外誰もいない部屋で、私はベッドの上で胎児のように丸まりながら、そのようにつぶやきました。

「すみません。よくわかりませんでした」

 音声アシスタントのその返答にいらついた私は強く目をつむりました。いくらか落ち着いたとはいえ、いまの私も何もわかっていないことに関しては変わりはありませんでした。先程までのあの経験は一体なんだったのでしょうか。

 居眠りをしてしまい、おかしな夢、それもとびきりリアルな夢でも見たのでしょうか。私は壁にかけられた時計を見ます。中学生になったときにお母さんにあてがわれたアナログ時計の短針は、蛍光塗料によってぼんやりと光っていて、同様に光る「Ⅲ」と「Ⅳ」の間を指し示しているのが見えました。少し早めのおやつを食べてから、そう時間は経っていません。居眠りをして夢まで見る暇なんてものはないように思われました。

 それではなにか幻のようなもの、それもとびきり時間的に圧縮された幻のようなものでも見たのでしょうか。短くはない私の人生は、幻覚の類いとはまったくもって無縁でした。そもそも、根本的なところからまったく異なっている世界そのものを経験することは果たして幻覚のうちに入るものなのでしょうか。幻視、幻聴、幻嗅、幻触……。私はどうしてしまったのでしょうか。

 私はスマホで、夢や幻について調べ始めました。気が付くと私は眠ってしまっていたようで、「夕食だよ」とお母さんに起こされていました。かけたままになっていた眼鏡で、鼻のところが痛みました。夢は見ませんでした。



 あの日から半月ほどが、夏休みが明けてから一週間が経ちました。この一週間の間に、夏休みはある種の神話と化していました。クラスメートも先生も、夏休みの間の出来事を面白おかしく話すことはなくなりました。そして私もまた、夏休みの間の出来事を思い出すことはなくなりました。唐突に小説を書きたくなったこと。しかし書けなくて苦しんだこと。それにより、不思議な白昼夢を見たこと。それらはどれも事実でしたが、いまとなっては些細なことでした。そしていつかは、事実なのかどうかも含めて曖昧になっていくのだろうと思われました。そういう意味で、夏休みは神話と化していたのでした。

 忙しくはなく、暇な、しかし暇だと嘆くほどではない一週間でした。退屈で、しかしやらなければならないことはあって、それでもやっぱり退屈な一週間でした。そして私は、この一週間と同じような日々が今後も繰り返されていくのでしょうと、そう思っていました。


 そんなある日の放課後のことです。夏休み気分のすっかり抜けきった私は、「久しぶりに図書室にでも行って課題をまとめて片付けてしまいましょうか」と思い、教室で鞄の中身を整理していました。教室では女子たちがきゃいきゃいとはしゃいでいて、自然と話している内容が耳に入ってくるのでした。しかしいくら耳に入ってきたとしても、興味のないことなのですぐに抜けていってしまいます。脳みそがその音を言葉として認識してすぐ、不必要だと破棄していくのです。ハイシン、ドーガ、エスエヌエス。しかしながらある言葉だけは、私の頭蓋骨の中で反響しました。クビツリ。

「あぁ知ってるぅ。神社の森の奥から見つかった……っていうアノ」

「塾の友達が同じ学校らしくてさぁ。愚痴ってたよ。いじめを疑われたって」

「そういうのってあるんだね。身近なところでも」


 私の意に反して体はやけにしっかりと、図書室に向かって歩いていっていました。階段を降り、連絡通路を渡り、先生とすれ違ったときには軽くお辞儀をしていました。自分で体を動かしているという感覚がありませんでした。私ではない誰かの体に私が搭乗しているかのような、非現実感がありました。右手と右足を、左手と左足を同時に出してしまっているのでは、と私は自身を疑いましたが、よく確認してみてもそういうことはなくて。ただただ正常な体が先行していて。ただただ異常な心が置き去りになっていて。

 自律駆動する体は問題なく目的地である図書室に着き、席に着きました。鞄からペンケースとルーズリーフを取り出し、それらを机の上に展開する腕。けれどシャーペンを握った手が文字を記すことはなくて。ただただ正常な体が先行していて。ただただ異常な心が置き去りになっていて。

 いるかもしれない彼女。いたかもしれない彼女。

「……私はきっと、君の小説のためだけにいるんだ」

 白昼夢がフラッシュバックしました。そう、あれは白昼夢です。白昼夢であって私の空想です。私の空想であって現実ではありません。よって彼女はいません。いまも、過去のどの時点においても。よって、噂に出てきた首吊り自殺をした高校生と、白昼夢に出てきた死にたそうな彼女には、なんの関係もありません。ありません。……ありませんがそれでも、私が小説を書かない理由にはなりません。白昼夢の彼女へ抱いた感情を、いまこそ創作に活かすのです。

 あの日の私は白昼夢にて彼女に対し、どのような感情を抱いたのでしょうか。何を伝えようとしたのでしょうか。どうしてほしかったのでしょうか。どうなってほしかったのでしょうか。

 再び湧き出した欲求の勢いに任せて、私はこれから書く小説に名前をつけました。「君に恋する夏の海」。そして私は、書き始めました。



 もともと文章を書くことが好きだった主人公は、試しに小説を書きコンテストへ応募しました。するとその小説は賞を貰い、主人公は驚くとともに申し訳なくなります。

「自分なんてたいしたことない」

 SNSへ愚痴を投稿しようとしましたが、自分に負けた彼ら彼女らの存在を思い出し、胸に押し込みました。自信を持たなければなりません。主人公は努めて明るく振る舞いました。受賞の幸福を噛みしめ、希望を振りまきました。少なくとも、そのように見える行動を心がけたのでした。

 次第に主人公は出来合いの自信に潰れていきます。そんな中、自信家な外面はSNSにて宣言しました。「新しく小説を書きます!」と。「最高傑作となるよう全力を出します!」と。しかし何も書けません。

 絶望した主人公は夕刻、夏の海へと向かいます。空と溶け合う水平線は美しいものでした。吸い込まれるような。いえ、そちらからこちらへ広がってきているような。ふと隣を見ると、少女がいました。少女は儚げで、美しく、そしてどうしても儚げでした。少女は言いました。

「私に何か言いたいことがあるんだったら、それを創作に活かせばいいよ。もうその言葉は、どうやっても届かないのだから」

 ひときわ大きな波が打ち寄せます。目をそらした隙に、少女はいなくなっていました。主人公はペンを握ります。それは少女に伝えられなかった思いを伝えるため。主人公は少女を、レイと名付けました。



 私は書き終えました。何枚ものルーズリーフを消費して。何回もシャーペンをノックして。何回も消しゴムを手探りで掴み、何回も文字を消し損ねルーズリーフにしわを寄せて。

 「君に恋する夏の海」。書き終えたいま、改めて名前を見て、声帯は震わせずに口にしました。最初に浮かんだイメージをもとにつけたこの名前は、書き終わったこの物語ともマッチしていました。

 これは、白昼夢に出てきた彼女へ捧げる物語です。教室で聞いたあの噂話がどこまで本当なのかはわかりません。本当にあの神社の森で高校生が首を吊ったのでしょうか。火のないところに煙は立たないとは言いますが、大方、その噂話は、尾ひれのみならず背びれも腹びれも胸びれも、あとから付けられたものでしょう。ひれの付いていないずんぐりむっくりとした真実は、意外と可愛げのあるものかもしれません。もし仮にあの噂話がすべて真実だとしても、情報が不足しすぎていてわかりません。その件の高校生とやらが白昼夢の彼女であるわけはありません。あの白昼夢が正夢なんてことは非現実的でありえない話です。そもそもその件の高校生の性別すらも、私は知りません。

 しかしながらそれでも、私が小説を書かない理由にはならないのでした。小説を書けないことに苦しんだ私が私自身に見せた、不思議な白昼夢。その白昼夢に出てきた、創作を肯定する彼女。気が動転していた当時の私は理解できずにいましたが、あれは、私が私自身の背中を押したようなものだったのではないでしょうか。だというのに私はそれを、神話だとかいうものとして風化させようとしていました。私は何よりも、苦しんだ過去の私自身のために、小説を書かなければならないのです。噂話を耳にしたことをきっかけに思い起こされたあの夢が、私をそのような気持ちにさせたのです。

 書いているうちに私は落ち着きを取り戻し、書き終えたいまはもう完全に冷め、覚めていました。私はついさっきまでシャーペンを握っていた手を、開き、閉じ、また開きました。他の誰のものでもない私自身の手であると思えました。

 私にとってあの白昼夢は小説を書くための糧で、いま、消化され、吸収され、無事に合成されたのでした。最初につけたタイトルが書き上げたこの話にマッチしているということはつまり、私は、最初に抱いたイメージをうまく形にすることができたということです。達成感と高揚感がありました。

 「いたかもしれない彼女へ——」。私は一枚目のルーズリーフに書いた小説のタイトルの隣に、そのように書き加えました。そしてすべてのルーズリーフをバインダーでまとめ、鞄の中へしまいました。


 完全下校時刻である午後六時になるよりずっと前に、無事に学校を出ることができました。夏休みが明けて少し経ったいまの季節もまだ日は長く、外はとても明るいものでした。それゆえ、高揚感で軽く浮足立った私には、真っ直ぐに家へと帰ることが、日常へと戻ることが、とても馬鹿らしく思えました。そこで私は、学校の最寄り駅から電車に乗ったあと、我が家の最寄り駅で降りるところをあえてスルーし、そのまま山の方へと向かいました。あの神社へ行こうと思ったのです。私は、あの神社の森の中へは入ったことがなかったはずです。あの白昼夢はどこまでが現実なのか、どこからが想像の産物なのか、私は気になったのです。もしかしたらこの感情には、首を吊ったとかいう高校生への野次馬のそれが含まれているかもしれません。しかしそのような考えが浮かんできた頃にはもう、私は神社への通りを歩いていました。少し涼しい初秋の空気を肺に出し入れしながら、抜けるような青空の下を歩いていました。


 駐車場、住宅、駐車場、蕎麦屋、また駐車場……。正確な順序は白昼夢とは違っているかもしれませんが、駐車場だらけであることは白昼夢と変わりませんでした。その駐車場には、ツアーバスはおろか自家用車も一台もありませんでした。通りを行く人の数は少なく、私は鳥居の赤に向かって真っ直ぐに進んでいきました。

 軽くお辞儀をしたあと鳥居をくぐり、手と口を清め、二礼二拍手一礼をし、私は森へと目を向けました。森からは、ひぐらしの鳴き声が染み出してきていました。夏はもうほとんど終わっていて、汗もさほどかかずにすむようになっています。だというのにまだ懸命に生きている夏の生き物。私はほんの少し、悲しいような可哀想なような気持ちになりました。しばらくして、白昼夢との違いを調べる、という過去の私の考えを思い出しました。しかし思い出さないといけないくらいには、その好奇心は薄れていました。

 私は、左手で持った鞄を見つめます。この中に、先程までの私が書いていた小説が入っています。つい先程まで私を浮足立たせていた小説が入っています。私は、地面を見つめます。いまの私の両足はしっかりと、石畳を踏みしめていました。私はまた、鞄を見つめます。いまの私にはこの鞄は、とても小さく見えました。きっとこの中に入った小説も、とてもとても小さなものでしょう。

「帰りましょうか」

 そう口に出すと、その思いはさらに強まり、確固たる意思へと変質しました。白昼夢は現実とよく似ていました。現実は白昼夢とよく似ていました。しかし、それだけです。それ以外の何でもなく、ただただ、それだけです。私は鳥居の方へ向き直りました。


 ちょうど、鳥居から私が立つ拝殿の前へ向かって、ゆっくりと歩いてくるおじいさんと目が合いました。私はそのおじいさんに軽くお辞儀をすると、おじいさんは少し目を丸くしたあとお辞儀を返し、手招きをしてきました。なんでしょうかと思った私は、おじいさんのもとへ歩み寄ります。

「きみはもしかして、彼女の知り合いかい?」

 おじいさんはこちらを見て、恐る恐るといった様子でそんなことを尋ねてきました。長い眉とげっそりとした頬、そして何より目が暗かったのが気になりました。

「彼女とは誰のことですか?」

 私が尋ね返すと、おじいさんは「あぁいやいや」と首を横に振りました。

「知らないのであればそれでよい。わざわざ言いふらすようなことでもない」

 おじいさんは笑顔で、けれどどこか悲しそうに言いました。貼り付けられたかのような笑顔でした。目には相変わらず感情は浮かんでいませんでした。無気力なような無感動なような暗い眼差しでした。その眼差しに既視感を覚えた私はぞっとして、おじいさんへ聞きます。

「彼女とはもしかして、私と同じくらいの年の女の子のこと、ですか? 半月ほど前にここに来た、短い黒髪の。そして——」

 私は必死に目の前のおじいさんにピントを合わせます。

「……知っていたか。それはよかった。あぁよかった。彼女にも弔ってくれる友人がいたとは」

 言い様がないほど気味が悪く、頭が痛みだします。

「詳しく、聞かせてもらえたりとかは、しませんか?」

 私が尋ねると、こちらを見つめるおじいさんは震えながら言います。

「……駄目だったんだよ。わしが見つけたときにはもう、駄目だったんだ。必死に抱えて、持ち上げて、絡まった縄をほどこうとしたのだが、もう、その頃には駄目だったんだよぉ」

 世界がドス黒く染まっていきます。目の前にきらきらとしたものが舞いました。おじいさんの声が遠くから聞こえたような気がしましたが、音はむしろ大きく、頭の中で響いていました。反響するそれはひどい頭痛となって襲ってきます。何もかもが私にとっては攻撃的で刺激的に感じられました。

「まだ、ほんの少し、温かかった」

 ひぐらしの鳴き声が、私を撹拌します。

「あの白昼夢は、何かがおかしいです」

 その私の声が世界に溶け込んだ瞬間、私は落ちていきました。体はそのままに心だけが、意識だけが倒れて落ちていきました。下へ。後ろへ。……どこへ?

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る