第2話

 それはいまから二日前となる木曜日。長く続いた雨が止んだその日は冬にしては暖かな陽気で、久しぶりに布団を干せて、僕の心も晴れ晴れとしていた。同居している妹は昼夜逆転しているため、妹の布団までは干してやれなかった。それをとても可哀そうに思ったことを、同時に優越感のようなものを覚えたことを、僕はよく覚えている。平和な日だった。


 担当している分の記事を書き終えた僕は、キーボードの左に置いておいたマグカップを手に取り、底に少し残ったコーヒーを飲み干した。唇についたものを舌で舐め取りながら、書き上がった記事をコミットし、即座に送信する。

 完全没入型の仮想現実が一般的なものとなったこの時代に、あえて現実世界で仕事をする。音声認識技術がやっとマトモに使えるようになったこの時代に、あえて自分の指を動かして文章を書く。一般的には非効率だと言われるそれらを僕があえて行うのは、何も昔ながらの手法を重んじているからなんてことはなく、ただただ、コーヒーを飲みながら行いたいからだった。口の中であのなんとも形容し難いよい香りを転がしながらでなければ、僕の脳みそはまともに働いてくれやしない。まったく、不便な脳みそである。いや、「不便な仮想現実」と言うべきだろうか。しかしそう言っても、コーヒーのあの香りを未だに仮想的に表現できないのはこの脳みそが複雑すぎるからであって、やはり、「不便な脳みそ」なのである。まったく。


「人の最小単位とは脳である、か」

 僕はふと、彼との先週末の対談を思い出し、そのようにつぶやいた。仮想現実関連の技術の開発と販売によっていまをときめく大企業、サイバーダンス。その技術開発部門のチーフである彼は僕に言ったのだった。「その人をその人たらしめるものとは脳、つまり神経細胞の集まりに他ならないのだ」と。


「そういえばあの話はどうなってたかなぁ……っと」

 彼はその対談で、目下研究中であるというとあるプロジェクトについても軽く、本当に軽くではあったが、活き活きとした様子で話してくれた。それに関して続報はないだろうか。僕は、存外わくわくとしている自身の心の幼さに微笑みつつ、デスクトップパソコンのフォーカスアシストを無効化して溜まった通知バナーを表示した。

 メッセージアプリの通知バナーが、いくつかのどうでもいいもの——コーヒー豆のクーポンとか、少し前に始めたVRRPGの一周年記念のお知らせとか——の間に挟まれるようにして表示されていた。メッセージの差出人は……他でもない彼だった。僕はそのバナーを選択してアプリを起動し、内容を読み始めた。


<私もキミもなかなかに忙しい身だから、簡潔に。この前に話した人工知能による小説が一応、形になったため送ろう。今週末また会うときまでに読んでいただけると。が、いかんせん長いため、まとまった時間があるときにでも一気に読むことをお勧めするよ>


「早いな……」

 それは僕が期待していた以上の続報だった。もうできあがるとは、流石は人工知能といったところだろうか。まったく新しい仕組みでハードウェアによる最適化もまだまだだと聞いていたため少し時間がかかるかと思っていたが、それでもやはり機械だということなのだろう。

 僕は早速ファイルを選択した。開かれたブラウザが表示する明朝体を前に、嫌でも胸が高鳴り、口角が上がってしまう。

「さぁて。『生きている人工知能』は果たしてどんな小説を書いたのかな?」

 そして僕は、読み始めた。

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