聖人


 パチパチと――――。


 うずくまり、嗚咽を漏らし続ける父さんに、永久とわと一緒に寄り添っていた俺の耳に……どこからか、繰り返し手を叩く乾いた音が響いた。



〝素晴らしい。やはり汝こそ、聖人〟



 動けなかった。

 確かにその声は俺の耳に届いているはずなのに。


 パチパチと――――。


 今も止むことなく、手を叩く音は鳴り響いているはずなのに。



〝この闇に火を灯せ〟

〝この闇を続けるために〟

〝この闇に、いと貴き聖人を迎えるために〟

〝火を灯せ。火に惑わされぬ者を見出すために〟



 一つ。二つ。三つ……そして四つ。


 声が増えていく。


 どの声も確かに聞き覚えがあるはずなのに……靄がかかったように、それぞれの声の主を思い出すことができない。


 世界が止まっている。


 それは比喩でも何でもない。

 俺の視界に映る父さんも、俺に身を寄せてくれている永久も。


 なにもかもが、ぴくりとも動いていなかった。



〝汝こそ、聖人〟

〝我らが与えた篝火を、最も激しく燃やし〟

〝しかし、その炎に頼らず〟

〝絶望の暗闇を、自らの意思のみで切り拓く先導者〟



 やめろ。


 わけの分からないことを言いやがって。

 なぜこんな真似をする。なぜ俺たちの自由を奪う。



〝この世は、聖人たる汝を生み出すための泡沫〟

〝これから汝が生み出す世界こそ、真実の世界〟

〝聖人よ。汝が愛する伴侶と共に、苦しみのない新世界の創造を〟

〝新世界の創造を〟



 止まったままの世界。

 見開かれたままの俺の視界に、四つの光が迫ってくる。


 その光の向こう。

 そこには、それぞれに形の違う六枚の翼を広げた天使がいた。


 いや……俺はこいつらの姿を見たことがある。

 一万年前、エヌアとか言うクソ野郎の傍にいた〝四体の神〟だ。



〝恐れることはない〟

〝汝はこれからも、永遠に愛する者と共にある〟

〝もう二度と、愛する者と離れることはない〟

〝我らが与えた篝火と共に、新世界の創造を〟



 ようやく出てきやがったな。


 父さんを……母さんを……そして父さんの仲間を裏切ったゴミクズ共。

 毒の王や獣の女王に化けてたらしいが、ようやく正体を現わしたってわけだ。


 ――――ふざけやがって。


 そいつらの姿を見た俺の体が僅かに動く。

 なぜなら、俺にはこいつらに言いたいことが山ほどある。


 俺の中に煮えたぎるような怒りの炎が灯り、意識を突き動かす。



〝よい。怒りも悲しみも新世界には不要〟

〝ただ、愛するだけでいい〟

〝汝には、愛だけでいい〟

〝全てを忘れ、全てを愛せ〟



 だが――――。


 俺の思考に、こいつらの意思が流れ込んでくる。

 俺を塗り潰そうと、膨大な量の思考が注ぎ込まれる。



〝エールとは、我らが与えし試練〟

〝あらゆる望みを叶える力〟

〝人はみな、エールに触れることでたちどころに堕落する〟

〝だが……汝は違う。汝だけは、見事試練を乗り越えた〟



 いくつもの宇宙が始まっては終わる。

 気の遠くなるような長い時間の光景が一瞬で浮かび、消える。



〝聖人は成った〟

〝我らに与えられた、今は亡き主の使命は成った〟

月城悠生つきしろゆうせい。真にエールを愛した人よ〟

〝エールを愛しながら、堕落することなき人よ〟


〝汝こそ、聖人なり〟



 その光景の中で、こいつらは何度となくエールを地球に送っていた。

 そしてそのエールの力によって人間が争い、滅びるのを眺めていた。


 そして――――。


 

〝やはり……今回もこうなってしまいましたか〟

〝真の聖人とは、なかなか現れぬものですね〟



 父さんとユーセ……そしてエル。

 あのとき……突然〝エルの姿が父さんにも見えるようになった〟とき。

 

 あのときも、こいつらは俺たちのことをじっと見ていた。


 父さんが殺意と憎悪に駆られ、俺とエルを殺すのを……まるで駄々をこねる子供を見るような思いで見つめ、〝失望〟していた。



〝愚かなり、アルト〟

〝我らが導いてやったというのに〟

〝一度は聖人たり得た男は、惨めに堕落した〟

〝他の者となにも変わらぬ、我欲に目が眩んだ愚か者〟



 なに、言ってるやがる。


 父さんが愚か者だと?

 欲に目が眩んだだと?


 ふざけるな。

 ふざけるなよ……!


 なにもかも……お前らが仕組んだことだったんじゃねぇかッッ!


 怒りで視界を真っ赤に染めながら、俺は渾身の力でもって抗った。

 だが、そんな俺を嘲笑うように四体の神は笑みを浮かべ、俺に光を当て続ける。



〝恐れることはない。滅びるのはこれで最後〟

〝眠り、目が覚めたとき。とうに全ては消え去っている〟

〝全てを忘れた汝は伴侶と共に、新たなる使命に目覚めていよう〟

〝次の世こそは、汝ら夫婦が生み出した愛に満ち溢れた世界に〟


 

 圧が強まる。

 俺の思考が遠ざかり、意識が薄れていく。


 だめ、だ……ッ!

 このままじゃ……終われない……!


 拳を握れ。

 立ち上がれ。

 なにもかも、こいつらの好きにさせてたまるか。


 許せねぇ……!

 こいつら全員……ぶん殴らねぇと気が済まねぇ――――!


 叫んだ。

 渾身の力で。


 だが全てが止まった世界で、俺の叫びは虚しく響くだけ

 薄れ行く意識の中で、なにもかもが暗闇に染まって――――。



「俺の息子に……手を、出すな……!」



 父さんの声が、聞こえた。

 

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