楽園追放
「なんだ、その娘は……? 今までどこに……? いや、それよりも……お前から感じるその力は……まさか……ッ!?」
「いや……っ! 怖い……怖いっ!」
「っ……!? こっちだ、エルっ!」
理由は分からなかった。
だけどその時。出会ってから今まで、ずっと僕以外には見えなかったはずのエルの姿が、お父様には見えているみたいだった。
溢れ出した血の臭いと、嗅いだことがないような死の気配。
そして、何かに気付いたお父様が発した、押し潰されそうな程の殺意。
瞬間、僕はなにかに弾かれたようにエルの手を握って逃げ出した。
自分でも、どうしてそんなことをしたのか分からない。
どうして、大好きなお父様から逃げないといけないの?
どうしていつも優しくて、僕を大切にしてくれるお父様から逃げたの?
「ユーセ……っ! 私……っ!」
「はっ……はっ……! 大丈夫、心配しないでっ! 僕が、ちゃんとエルのことも、後でお父様に……っ!」
そうだ。
後でお父様に謝ろう。
いきなり逃げてごめんって。
ちょっと驚いちゃっただけなんだって。
エルのことも、何度もお話ししたんだけど、そのときはみんなにはエルが見えなくて、信じて貰えなかったんだって。
そうすれば、きっとすぐに元通りになる。
明日もいつもと同じ朝が来て、次の日も、僕とエルは一緒にいられる。
優しいお父様と。お母様と。
ヤジャ先生や、立派な九人の王様や、僕の大好きなみんなに囲まれた毎日が、また始まる。きっとそうだ――。
〝そうか〟
〝お前だったのか〟
〝お前が俺からエールを奪ったのか〟
〝俺の力になるなどと〟
〝裏では俺を嘲笑っていたのだろう〟
だけど、そう思いながら息を切らして走る僕とエルの背後からは、今もお父様の声と、まるで地の底から響くような殺気が届いてた。
それは僕が生まれてから一度も聞いたことがないような、この世の怒りと憎しみ全部を一カ所に集めたような、そういう声だった。
悪い夢。
これはきっと悪い夢だよ。
薄暗い石造りの階段を、エルと一緒になって必死に駆け上る。
体が弱い僕はすぐにうまく走れなくなって、だけど後ろから迫るお父様の殺気と、エルを守りたい一心でとにかく走った。
ああ。
どうして僕はこんなに弱いんだろう。
どうして僕はこんなに無力なんだろう。
もし僕にもっと勇気があって。
もしも僕がもっと強かったら。
逃げたりしないで、お父様とお話しすることも出来たのかな。
エルの前に立って、僕の大好きなエルを守ることが出来たのかな。
僕だって、本当は強くなりたかった。
どんな困難も、この握った拳で打ち砕けるくらいに。
どんな困難にも砕けない、強い体に生まれたかった。
だけど、僕はそうじゃない。
僕は弱くて、何も知らない。
お父様がどれだけ一人で苦しんで。
どれだけ一人で頑張ってきたのか。なにも知らなかった。
ずっと守られているばかりで。
大切にされていたばかりで。
僕は、なにも……!
「あなた――――っ!? この騒ぎは……? なぜそのような恐ろしいお顔で……」
「イーア、お前は自分の部屋にいろ。嫌な物を見ることになる」
「あなた……っ?」
ヴァーレルの塔から出て、僕とエルが一緒に暮らした天上神殿を抜ける。だんだんとお父様以外の声で辺りがざわざわしてきて、それでも僕とエルは、二人で手を繋いで走り続けた。そして――。
「――滑稽だな。かつて俺は、固く信じていた主に裏切られた。そして今また、愛する我が子にも裏切られるとは。もはや、怒りすら超えて何も感じぬ……」
「お、お父様……っ! 僕の話を聞いて下さいっ! この子は……エルは僕のお友達で……! ずっと僕と一緒に暮らしててっ!」
「友だち……? なるほど……そういうことか」
気がついたとき。
僕とエルは、天上神殿の一番外れ。
僕たちがいつも二人で遊んでいた、お母様の花畑にいた。
お月様と星の光だけが僕たちを照らしていて、お父様と、お父様の連れた兵士たちに囲まれていた。
そしてそのお花畑の一番端。あと一歩で地面に落ちるっていうギリギリの場所で、僕とエルは身を寄せ合っていた。
「お前はそうやってエールを自らの物としたわけだ。エールに自らの友となるよう願い、姿形だけでなく、その心すら変質させた……一切の汚れなく、純真無垢そのものであった至高たるエールに……いらぬ知恵や感情を植え付けたな……!?」
「な、何を言ってるのか分かりません……っ! エルは、友だちが欲しいって言う僕のお願いを、エール様が叶えてくれて……! それで……っ!」
「黙れ……ッッ! 偉大なる神を我が物にする。それはたとえ誰であろうと許されぬ大罪。我が子とはいえこの場で俺自ら斬首するのが掟」
もう、お父様にはどんな言葉も届かなかった。
そしてそれと一緒に、僕は知らない間にとんでもない過ちを犯していたんだって教えられた。
お父様は、エルのことをエール様だって言った。
僕がエール様から遣わされた存在だと思っていたエルこそが、エール様そのものなんだって。
「――最後だ、俺からエールを奪おうとする〝悪魔の蛇〟よ。その汚れたエールの依代と共にお前が死に、その依代も破壊されれば、エールは自ずと元に戻るであろう」
もしそうなら……子供の頃の僕が毎晩祈っていたお願いを聞いたエール様は、僕の友だちになるためにずっと……。
「そうなの? エルは、エール様だったの……?」
「わから、ない……っ! 私にも、もうわからないんです……っ! でも……私はこれからもずっとユーセと一緒にいたい……! ユーセの傍で、エルのままで……! だってこの名前は、ユーセが〝私にくれた〟……私にとって一番大切なものだから……!」
「ああ……」
そのエルの言葉に。
僕は全てを理解した。
「ありがとう……エル。守ってあげられなくて、ごめん……っ。大好きだよ……っ」
「私も、大好きです……ユーセ」
「死ね」
振り上げられたお父様の手が下りて。
視界が赤く染まって。
僕の意識が体から離れて、どこか遠いところに消えていくのが分かった。
お父様への恨みはなかった。だって、僕は知らないうちに取り返しの付かないことをしていたんだから。
遠ざかる意識の向こう。
僕とエルは、二人で固まって小さくなったまま体を切られて、バラバラになって空から落ちていった。
だけど、たしかに見えたんだ。
二人で握っていた手は、最後まで離れていなかった。
守れなくて。もっと喜ばせてあげたくて。
いつまでも、エルが笑っているのを見たかった。
ごめんなさい、お父様。
ごめんなさい、お母様。
ごめん……エル。
落ちていく僕とエルの体。
それとは逆に空に昇る僕の意識が最後に見たのは……それまで沢山の色の花が咲き乱れていたお花畑が、一つ残らず真っ赤に染まっていく光景だった――――。
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