Sevillaを愛しすぎて?-¿Amo demasiado a Sevilla?-

さち

第1話【いつもの朝 Mañana habitual】

 私の顔を何かが撫でている。

 湿って冷たくて、やわらかい何か。


 猫の肉球みたい・・・猫?

 

「PenPen!」


 不意に、私の頭の中に飼い猫の名前が浮かび上がる。


「起きろ」と言っているようだ。


 けれど、眠りと覚醒の中間に、まだ漂っていたい。

 目を開けるなんて、もったいない。

 もう少しだけ、もう少しだけ。

 呪文のように頭の中で繰り返していると、鼻に鋭い痛みが走った。

「痛っ!」


 思わず目を開くと、枕元にPenPenが澄まし顔で座っている。


 毎朝のことながら、もう少し優しく起こすという気遣いはないものかと思う。何も鼻を噛まなくてもと。向こうは向こうで、鼻を噛む前に、優しく起こしているのに、一向に起きないから鼻を噛むのだと思っているのだろうけれど。

 しかし、起き抜けでみるPenPenの顔がほくそ笑んでいるように見えるのは、私の穿ったうが見方だろうか。


「Penちゃん、ぽんぽんすいたの?」

 これ以上、大切な鼻をかじられないためには起きるしかない。半身を起こし、

 御歳14歳になるお嬢様猫に、まるで赤ちゃんに話すように私は優しく声をかけた。


 PenPenは、知り合いの会社の敷地内で保護された野良猫さんだ。茶トラの女の子で、体重も400gしかなく、誰かが手を貸さなければ死んでしまうだろうほどに、か弱い存在だった。

 当時、私はロシアンブルーもどきのOhagiさんと暮らしていた。Ohagiさんも、実はそこの会社の敷地内で生まれた野良猫さんだった。子猫を同じ場所で保護したと聞き、これも何かの縁と引き取ったのだ。

 我が家に迎え入れた時には、ミルクは卒業していたものの、カリカリはお湯でふやかしてあげないと食べられなかった。お水の飲み方も下手くそで、水を飲もうとすると頭からひっくり返っていた。トイレやの使い方は、すべてOhagiさんが教えていた。私は、その横で、蝶よ花よとばかりに大切に大切に見守っていただけ。そのせいか、私の脳内イメージは、ずっと赤ちゃんのままなのだ。


 人間、否、しもべの問いかけにPenPenは、おもむろにテーブルの上に座り、お口をもぐもぐさせた。これは、何か食べたいというお言葉だ。私は、まだヒリヒリする鼻をさすりながら、ご飯を用意するために、渋々ベッドから起き上がった。


 ご飯を運んできた私を見て、「早く、早く」と急かすPenPenを押さえながら、所定の場所に置くと、すぐにカリカリ、カリカリと小気味の良い音を立てて食べ始めた。

 時計を見るとまだ朝の5時30分だ。カーテンを少し開けて外を見ると、夜明け前の光景が広がっていた。


 PenPenの咀嚼音そしゃくおんをBGMに、しばらく眺めていると、空と陸の境界線がうっすらとオレンジ色に染まり始めた。太陽が、朝を連れてきているのだ。

 淡いオレンジ色はだんだんと濃くなり、やがて温かな黄色の輝きに変わる。日の出前の数分間だけ見ることができる、空のエスペクタクロ。古代から、変わることなく繰り返し行われてきたこの天体ショーを、今、リアルタイムで見ている現代人は何人いるのだろう。まぁ、誰が見ていようが、いまいが、太陽は昇る。朝が来て、昼になり、夜が訪れる。曇っている日も雨の日も、台風の日だって、見えないだけで太陽は昇り、沈んでいるのだ。


 ふと気がつくとPenPenの咀嚼音が止まっている。振り返ると、満足したのか人間のベッドに戻って、すでに寝息を立てている。

 やれやれと思いながら、それでもPenPenを起こさないように、そぉっとキッチンへ移動し、お湯を沸かす。もともと寝起きは良い方だが、頭をスッキリさせるには白湯を飲むのに限る。沸騰してから、ヤカンの蓋を開け、ごく弱火で約10分。カルキを飛ばした白湯が体に良いとテレビで誰かが言っていたのを聞いて以来、そうしている。

 そうやってカルキを飛ばした白湯をふーふーと冷ましながら、そっと飲むと、温かい液体が、食道を通りゆっくりと胃のなかに落ちていくのがわかる。一口、二口と飲むにつれて、体の細胞の一つ一つに温かさが宿り、人間としての行動力が目覚めるような気がする。


 窓の外は、すっかり日が昇り、真っ青な空が広がっている。テレビでは、天気予報士さんが、季節外れの暖かさだと話している。

「PenPenのご飯、なくなりそうだから買いに行こう。あ、猫砂も」

私は、頭の中の誰かと会話しながら手帳に書きつける。別に書かなくても忘れてしまうわけではないけれど、手帳にメモするだけで、ちょっとしたことが大仕事のようになるから楽しい。


 トーストとコーヒーの簡単な朝ごはんを食べながら、ワイドショーを見る。放送が終われば、食器を洗って、ざっと掃除をする。これが朝のルーティーン。普段なら、この後、パソコンを立ち上げて、メールを確認し、なんとなく仕事を始めるのだけれど、今日はメールの確認だけだ。打ち合わせも無いし、今すぐに取り掛からなければならない仕事もない。

さてどうしよう?

 暖かそうな日差しがキラキラと輝き、まだ1月だというのに、部屋の中から見る光景は、春のそれだ。

「気持ちいいな」

 私は、PenPenの天使のような寝顔を見ながら、今のうちにご飯と猫砂を買ってこようと決めた。

 

 スウェットパンツをジーンズに変え、マスク、ニット帽、ダウンを羽織った。ペットカメラを外出モードにセットし、カメラをチェック。ベッドの上でアンモニャイトになって寝ているPenPenの様子が映し出されるのを確認して、「お買い物、行ってくるね」と声をかけ、外に出た。






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