ネオンの魔法

三題噺トレーニング

ネオンの魔法

 山賀咲が日課の空き缶拾いの際に拾ったものは定期券だった。

 これさえあればどこまでもいける。

 具体的には山手沿線沿いだけだが。

 橋の下に住む山賀咲にとって、どこかへ行くなど夢のまた夢だった。リアカーを引いていける範囲の場所までしか行けなかった。

 山賀咲にとってはこれは魔法の券だった。

 山賀咲は意気揚々と電車に乗った。山賀咲の臭気に周囲は顔をしかめた。

 だが山賀咲には関係がなかった。電車に乗る時に高くのぼっていた陽はいつのまにか沈んでおり、ラッシュの前に電車を降りると、目の前にころんとリップクリームが落ちていたのが見えた。

 誰かが落としたものだろう。

 山賀咲はリップクリームを拾うと、それをポケットにしまった。そして素知らぬ顔で改札を抜けて、人がまばらになる時間帯までじっと待っていた。

 夜、終電間際になると山賀咲はまた電車へと乗る。人混みは幸いまばらだった。

 夜の窓から丸い光源がいくつも見える。それが次々と流れていく様を眺めながら、リップクリームを電車のライトにすかす。

 思い出すのは80年代、バブルの絶頂期だ。その頃、山賀咲は社長をしていた。

 欲しいものはなんでも買った。金に物を言わせてゴッホの絵を買おうとしたこともあった。そんなことを思い出してクスクス笑う山賀咲を周囲は気味悪そうに見ていた。

 でもそんなバブル期の山賀咲にとって1番の思い出はディスコだった。

 洋楽から邦楽まで、色々な曲がかかる暗闇の中で男女が激しく怪しげなネオンの中を踊り狂った。

 山賀咲もディスコにのめり込んだ人間の1人だ。特にお気に入りの泰葉の「フライディ・チャイナタウン」がかかる時などは我を忘れて踊った。

 そんなある夜、山賀咲の前にウェーブがかった髪の女性が現れた。少し竹内まりやに似ている、と思った。

 その女性はカウンターで酒を飲む山賀咲の横に座って「あなたもフライディ・チャイナタウン好きなの?」と聞いた。

「そうだよ。君も?」

 女性はふふっと微笑んで、薄いビールグラスでビールを一息に煽った。

 その艶かな唇に山賀咲は虜になった。

 できればこの人と踊り明かしたい、一晩中でも。

 その思いに呼応するかのように女性は立ち上がり、山賀咲もそれに合わせて立ち上がる。

 そして2人はただただステップを踏んで、不恰好に、だけど思いっきり飛んで跳ね回った。

 楽しかった。

 バブルの波で手に入れた金で欲しいものはなんでも買い漁った山賀咲だったが、こんな充実感を得たのは初めてだった。

 2人でカウンターへ戻って、お酒を飲もうとしたとき、女性の姿は既になかった。

 そして、その後には、リップクリームだけが置かれていた。

 

 山賀咲はそのあともずっとフロアを探したが、その後、その夜っきり山賀咲はその女性に出会うことはできなかった。

 

 そしてそのことを引きずってなのかなんなのか、山賀咲の会社は凋落の一途を辿り、破産を迎えてしまった。一家も離散してしまった。


 ーー全ては遥か遠い昔のことだ。

 ネオンを流して電車は走る。

 ごとんごとんという周期的なリズムがまるで4つ打ちのダンスミュージックのようで心が踊った。

 そうだ。

 もしもリップクリームを使ったら魔法がかかるかもしれない、もう一度幻が観れるかもしれない。

 などと思いながら、しかし山賀咲はポケットにまたリップクリームを仕舞うと電車から降りた。すべては夢だ。幻のなのだ。

 文字通り、あの頃のバブルは弾けた。現実を俺は生きていかなければならない。

 開いたドアから竹内まりやに似たあの女性が乗り込んできた気がしたが、それこそ出来すぎた魔法に過ぎなかった。

 しかしそんな刹那の幻が、山賀咲の胸にはいつまでも残り続けたのだった。

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