第29話 レース 2

「池田ぁ、何すんの!」

「一年生相手に何をくだ巻いてるんだか」と、呆れながら繭が言った。

繭と礼は同学年ということもあって、知り合いのようだ。


「くだ巻いてるんじゃなくて、後輩の教育をしてるの!」

「それは教育じゃなくて、ただの後輩いびりだよ」

「はあ? 私が、いつ、いびったっていうのよ」

「今、まさに」

「ま、いいわ。じゃあ、そういうことだから。溝渕はロボコンに専念するから、カート部と付き合ってる暇はないってことで」


「ちょっと待って」

「何?」

「実際のレースで走るのは、テンテンじゃなくて、私。だから舞ちゃんと勝負するべきは私なのよ」

「だから?」

「やり直しを要求する」

「やり直しだなんて、自分で無茶言ってるの分かってる? 実際の勝負でやり直しなんてないんだから」

「でも、香西はそういう無茶も理不尽も飲み込んで勝つんでしょう?」

「う……、それとこれとは違うって」

痛いところを突かれた香西が言いよどんでいるところを、内田会長が仲裁に入った。


「再戦も良いじゃないですか。香西さんも啖呵を切ったわけですし。エキシビジョンマッチ、私も楽しみですから」

「はあ、会長が言うなら仕方ない。溝渕はどう思う?」

「私はいいですよ。池田先輩の頼みとあらば」

「そう。じゃあ、良いわよ。特別に、泣きの一回ということで」

「ありがとう」


繭はヘルメットを被り、ピットに停めたカートに乗り込み、シートの位置を少し調整した後、スタートラインについた。

スタートランプが点灯し、計測が始まる。


スタート時の加速こそは平凡そのものだったが、その後の走りは、目を見張るものだった。ホームコースとはいえウエイトを乗せた状態で、二周目にして、すでに舞の出したラップタイムよりも早いタイムを出した。その後も周回を重ねるごとに早くなり、最終的には、舞よりも約三秒早い記録となった。


メカトロ研の面々は、ざわついたが、一周あたり二分もかからないコースでの三秒差は、まず覆らない。それが分かっている香西は顔を青くしたが、これに対して一番驚いたのは、普段一緒に練習をしているはずのカート部員たちの方だ。


練習の時の池田も充分速いけれど、あくまでそれは上手な人が流して走るような所があって、今のような走りとは違う。池田繭はかたくなにレースに出ないから、部員は本当の実力を計りかねていた。

「池田先輩ってこんなに走れるんだ」

「だったら、なんでいつもレースに出ないんだろう」

「天才と呼ばれて、実力を持て余している人の考えは、普通の人には分からないよ」

「おそらく、本人にも分からないのでしょうね。でも今は何か走る理由ができたのかも知れませんよ」


ミユのこれまでのカートの成績は、良いとも悪いとも言えない凡庸なものだった。上を目指すには、乗り越えなければならない壁が大きく、かといって引退を宣言できるほど満足できる結果も残せていない。そんなどっちつかずのまま、いつの間にかカートに乗らなくなり、それをとがめる人もいなかった。誰からも期待されていなかった。それが、今の自分だけれど、繭は違う。彼女が望めば、何だってできただろう。そして今からでも何だってできるはずだ。だから、ミユは繭のことが分からなかった。才能のある人のことが分からなかった。


繭が走り終わり、香西は気落ちしたようだったけれど、何もせずに負けを認めるわけにもいかないようで、舞を再び走らせた。舞は香西の期待に応えて、さらにタイムを縮めることができたが、やはり池田のタイムには遠く及ばなかった。


「あんたとのレースは、勝敗のないエキシビジョンマッチなんだから、天雲に勝った以上、レースはこっちの勝ちよ」と、苦し紛れに礼は繭に言った。

「そりゃないんじゃない?」

「とにかく! 勝ったのはこっち! それは譲れない」

「香西先輩……」と舞は困ったような表情で礼を見た。

「そんな顔しないでよ。溝渕は、私の顔、いや、メカトロ研に泥を塗った罰として、しばらく謹慎にします。謹慎が明けるまでメカトロ研には出入り禁止だから」

「え?」


きょとんとする舞に香西は向き直った。

「自分の時間はよく考えて使えってことだから。謹慎に飽きたらメカトロ研に戻りなさい」

「はい。ありがとうございます」

舞は深々と頭を下げた。礼はきびすを返す。


「あの、香西先輩」

ミユは香西を呼び止めた。

「必ず、優勝します」

それを聞いて礼は何か言おうとしたが思いとどまり、「溝渕がいるんだから当たり前でしょ」とだけ言ってサーキットをあとにした。

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