六章 「小さな頃のお話」
「これは、私が六歳の時の話だよ」と、彼女は目をキラキラさせていた。
やっぱり彼女はキラキラしている方が似合っている。
「私は小さな頃、よく公園で遊んでいた。家の近くに大きな砂場ときれいな緑色のジャングルジムがある小さな公園があったのよ。花もいつも咲いていて綺麗なところだよ。私は小学校が終わったらすぐにそこに遊びに行っていた。特に砂場で遊ぶのが大好きだった」
彼女は幸せそうな笑顔を浮かべている。その顔を見て、僕もつられて笑顔になる。
笑顔が移るというよりは、僕は彼女のそんな顔を見るのが好きなのだ。彼女の美しい笑顔には、人の心を動かす何かがある。
「砂場で、山を作ったりした?」
発想が男の子だと思ったけど、砂場といえば山を作ることは外せないと思い、僕はそう聞いた。
「うん、小さな山を作って遊んだりもしたよ。でも、山を作ることよりも楽しいことがあったのよ」
「それは何?」
そう聞きながら、僕は自分が小さな頃に公園でどのように遊んでいたかを彼女に話した。
彼女はそれをしっかりと聞いて、「かわいい」とまで言ってくれた。
彼女とこうやって話すことで、自分の小さな頃のことも思い出された。当時のワクワク感がよみがえり、僕も楽しい気分になってきた。自分で提案したことだけど、今回の子どもの頃の思い出話を改めてするのは、なかなかいいものではないかと思えてきた。
僕の話を聞いた後で、彼女は「悠希が話してくれた公園での遊び方とは、私のは少し違うよ」と言った。
僕は、他にどのような遊び方があるか真剣に考えた。
女の子なら、友達とおままごととなどだろうか。
「公園には色とりどりのお花が咲いていた。あと砂場にはありさんもいた。そのお花さんやありさんに話しかけることが一番楽しかった。空を見上げて、太陽さんに『こんにちは』って言った。もちろん、今はその子たちから返事が返ってこないことはわかるよ。でも当時の私は、その子たちと心が通じていることを全く疑わなかったし、実際話していて楽しかった」
「その気持ちはよくわかるよ」
人間の話す言葉を他の生き物が理解できていないと決めつけてしまうよりも、彼女のように考える方がロマンがあって素敵だ。
僕もその考え方の方が好きだと思えた。
彼女のお話は、まるで絵本の物語ようだ。
「共感してくれてありがとう」
彼女の言葉は、どうしていつも僕の心をほぐしていくのだろうか。
特別な言葉というわけではないのに、いつも心が温かくなる。
「小さな頃の華菜が、お花さんやありさんにどんなことをお話していたか覚えてる?」
「うん、覚えてるよ。お花さんには、『そこからは何が見える?』とか、ありさんには『今日はどこまで行くの?』や『元気そうだね』とか話しかけていたよ」
「お花さんもありさんも、きっと華菜の言葉に返事してくれていたよ。そんな風にお話しながら砂場で遊んでいると、普通に砂場で一人で遊ぶよりさらに楽しそうだね」
僕は彼女の話に無理に合わせたわけじゃなく、本心からそう思った。もし過去に戻れて、しかも彼女と小さな頃から仲がいいという今とは違う別の世界があるなら、僕も当時の彼女と一緒にそのように砂場で遊びたいとさえ思った。
一人より、二人の方がきっと楽しいから。
一方で、彼女には子どもの頃からずっと友達が多いイメージを持っていたし、前に友達との話も聞いたことがあったので、少しこの話は意外で僕は驚いてもいた。
「そう。本当に楽しかった。その子たちはみんな優しくて返事してくれるだけでなく、私にもたくさん素敵なお話をしてくれた。お花さんは私の身長からは見えない綺麗な景色を教えてくれたし、ありさんはこれまで冒険してきた様々なところについておもしろおかしく語ってくれた」
「本当に楽しそうだね。それに、小さな頃って、知らないことを知るとなぜか無性に嬉しくなるよね」
「そうだよね! 今なら大したことないことに思えても、あの頃はどの話も本当にキラキラしてた」
「家に帰ったら、その話をお母さんにしてた?」
彼女の両親がどのような人かはほとんど知らないけど、自分の子どもが楽しそうに話すのを聞くことを嫌に思う親は少ないだろうと思った。
話の流れとしても、特別不自然さもないだろう。
しかし「うん、話したよ」と言う彼女の大きな目は、不安を帯びた。
僕が「どうしたの?」と聞くと、彼女は自分の手を僕の手に重ね、「そうだよね」と小さな声で言いながらまた話し始めた。
「私はお母さんにワクワクしながら話してたけど、お母さんはいつもめんどくさそうにしていて、私の顔も全然見てくれなかった」
「それはどうして?」
僕は、予想外の話に一気に脳内がパニックになった。
「お母さんは、私のことが嫌いなのよ」
彼女が、僕の手を握る力を強めた。
「家にいる時は、いつもお母さんからひどい言葉をかけられていた。手をあげられることも度々あった。他の子と遊ぶことも話すことも禁止されていた。子どもの私でも感じてしまうほどお母さんは私を嫌っていた。でも、私はお母さんが大好きだった。私にとってお母さんしか話し相手は家にいなかったから、やっぱり特別だった。そんな態度をとられても、毎日毎日話しかけにいっていた」
「お父さんは、そのことに対して何も言わなかったの?」
僕は沸々した今の感情をできるだけ出さないようにして、静かに聞いた。
「私にとって『お父さん』とはいないようなものだよ。お母さんとお父さんは、私が生まれてすぐに離婚したらしい。その理由は、今も知らないよ。当然だけど、私にはお父さんに対して何も記憶はないから、お父さんという存在に愛着はなかった。子どもの頃からずっとお父さんの連絡先を聞いたこともなかった。今でもお父さんとは話したいことはないし、どこで何をしてるかも知らない。そして、今後もきっと話したいとも思わない」
「当時の華菜には、お母さんしか頼れる人はいなかったんだね」
僕は、そっともう一方の手を彼女の手に重ねた。
「そうね。当時は、お母さんなぜこんな態度をとるかわからなかった。でも今思えば、お母さんは、我が子に自分と同じ『不幸』を味わせたかったのだと思う」
「不幸を?」
僕には、とても理解できない言葉だった。
いや、怒りが抑えられなくなってきたのかもしれない。
「うん。お母さんは自分だけが不幸なことが、どうしても許せなかったのだと思う。お母さんは不幸をたくさん背負っていた。だから、私にその感情全てをぶつけて、私も不幸という地獄にひきずり落とそうしたんじゃないかな」
彼女がまるで他人事のように話すのが、余計に僕の心を苦しめた。
彼女は今どんな気持ちなんだろうか。
彼女が今まで親について積極的に僕に話さなかった理由がわかったのと同時に、聞けてよかったとも僕は思った。
だってこれからは、僕が彼女の力になれるから。簡単なことではないとはわかっているけど、どんなに時間がかかっても僕が力になると強く思った。
とにかく今できることは、言葉選びを慎重にすることだ。
彼女が相当の覚悟をして、この話をわざわざ僕にしてくれたのを絶対に無駄にはしたくないから。僕の態度で、すでに傷ついてる彼女をさらに傷つけたくなかった。
「話してくれてありがとう」
僕を信頼してくれたことにたいして、感謝の気持ちをゆっくりと伝えた。
何を言うのが正解なんてないと僕は思っている。
彼女の親が、僕の思い描く親の姿と違っていたことは確かだ。彼女の親に対して、今僕は確かに強い怒りを感じている。大切な彼女にそのようなことをしていたことは許せない。
ましてや彼女の母親が彼女にしていたことは、社会的にもしてはいけないことだ。
でも、彼女の親のことを初めて聞いた僕がいきなり彼女の母親を悪く言うことは本当に正しいことだろうか。彼女に怒りのこもった言葉をぶつけて何が変わるだろうか。
それに彼女は、お母さんのことを好きだとさっき言っていた。まだその気持ちが少し残っているかもしれない。
いい意味でも悪い意味でも、一度抱いた感情はなかなか変わらないから。
それに、『常識』や『正しさ』に、絶対的なものはないと僕は思っている。
「お礼を言われるような話じゃないよ。むしろ暗い話してごめんね」
彼女は困った顔をしていた。
「華菜が謝ることこそおかしいよ。華菜は何も悪くないんだから」
「そうなんだね」
「前に話してくれたように、そのお母さんと今一緒に生活していて、お世話をしているだよね?」
僕はできるだけ言葉に重さを持たせないように優しい声で聞いた。
「うん。心が寂しい人だとわかってるけど、それでも私にとっては親であることは変えようのないことだから」
彼女は笑顔を見せていたけど、その言葉にはずしりと重みがあったのだった。
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