帰宅
@k1nokinoko
帰宅
「そろそろお暇させていただきます」
サトはそう言って、深々と頭を下げた。夕飯も終わった。食器も下げた。たまには早く帰って、うちのことをしなくては。サトは内心そう思って焦っている。しかし、主人夫婦は困った顔だ。サトはその表情に失望する。今日もなのだろうか?案の定、主人夫婦はこう言った。
「今日はもう遅いから、泊まっていって」
「そうだよ。足元が危ない」
「でも、帰らなくちゃ…」
サトは、今日こそは帰らなくてはと決めていた。いったい何日間帰れていないのだろう?随分長いことこの家から帰らせてもらってはいないことだけはわかる。
「外は危ないから、ね?お部屋へ行きましょう」
妻の方がそう言ってサトの腕を掴んだ。さも親切そうな顔をしてはいるが、今夜もサトを帰さない気だ。いつまでサトを閉じ込めて、働かせておくつもりなのか。サトは、怒りに任せてその手を振り払った。妻が、驚いたような困ったような顔をする。
「今日こそは帰らせてもらいます!絶対に!」
「駄目ですよ」
また、妻の腕が伸びてくる。怖い…。サトは捕まってはならないと、目を瞑って妻に体当たりした。
「きゃっ」
ガシャンと、何かが割れる音がした。だが、サトはそれを確認することもなく、必死に玄関へと急いだ。背後では、夫が何やら叫ぶ声がする。怖い…。サトは、取るものも取りあえず、玄関から外へ飛び出した。
闇の中、ところどころに立つ街灯を頼りに、家を目指す。外に出るのはずい分と久しぶりで、少し道に自信がない。でも、とにかく前へ進まなくては、またあの怖い家に囚われてしまう。主の妻を傷付けたことで、尚更ひどい扱いが待っているだろう。
サトは、こっちだと思う方向へ、闇雲に歩いた。見覚えのない家、時折走ってくる自動車。いつまでたっても覚えのある風景が見えて来ず、不安だけが増幅される。それでも、ただ、ただ、歩いて、歩いて、歩いて行った。家へ帰りたい。その一心だけで、疲れ切って重い足を進めた。
「行男、洋子、おかあちゃん、今日こそ帰るからね」
「はい、はい、そうですか。ご迷惑をおかけしました。すぐに向かいます」
カチャリと受話器を置いた妻は、力が抜けたとばかりにその場へ膝をつきながら夫へ告げた。
「おかあさん。見つかったって。瀬尾町まで行ってたって」
「生きてるのか?」
行男は腕を組んだまま、ぶっきらぼうにそう尋ねた。
「少し脱水があるし、足に傷があるけど、命に別状ないって。念のため数日は入院って」
「ったく、世話ばっかりかけやがって」
行男は、吐き捨てるように言った。
「あの年で入院だろ?またボケが進んだら、たまったもんじゃない」
忌々しげに行男は毒づいた。認知症になった母は、こちらが世話をしてやっているのに、いつもわけのわからないことを言っては困らせる。遂には暴れて嫁に怪我をさせ、徘徊して警察の世話になる始末だ。いくら親でも嫌気がさす。
「やっぱりあの時私が無理にでも止めていればよかったかしら。でもねぇ、火事場のなんとやらなのか、凄い力だったしねぇ」
妻の篤美は、そう言って嘆息した。頬には大きな絆創膏が貼られている。右手の指にも包帯が巻かれていた。
「あぁ?あれはおふくろが好きで出てったんだろ?こっちは止めて暴れられるのは困る。利害が一致した。それだけだ。そう割り切らないと、こっちの身が持たん」
「まぁ、そうだけど…」
篤美は割り切れない顔をしつつも、身繕いを始めた。とりあえず、病院へ向かい、手続きをしなければならない。
「っとに、世話の焼けるばあさんだ」
行男も、渋々立ち上がり、車のキーを手繰り寄せた。
5日後、1人の老婆が、行男と篤美の乗る自動車に乗せられて来た。サトだ。目は虚ろで、眉間に皺を寄せて下を向いている。
「おかあさん。着きましたよ」
篤美が車を降りるよう促すが、サトは動こうとしない。
「おふくろ。降りろ。家だぞ」
行男も声をかける。老婆は、顔を上げて家を見たが、やはり険しい表情は変わらない。
「おふくろ!」
「あ、そうだ!」
篤美が何かを思いついた。
「おかあさん。こっち来て。モッコクの木があるよ」
篤美がサトの手を引っ張って誘う。最初は動かなかったサトだが、2度3度誘ううちに、ノロノロと動き始めた。玄関前を右手へ折れ、庭へとサトを誘導する。そこには、五メートルほどに大きく育ったモッコクの木があった。
「ほら、家を建て替える前からあったでしょ?これならわかる?」
サトは、モッコクに近づき、そっと枝に手を伸ばした。枝を、葉を撫でるうち、虚ろだった瞳に光が射し始めた。そして、サトは振り返った。
「行男か?」
額が後退した初老の男に呼びかける。
「そうだよ」
男が無愛想に返事をする。
「あぁ、そうか」
サトは、目をしばたたかせた。
「長いこと留守して、不便かけたなぁ」
そう言うと、サトはゆっくりと玄関へ向かった。
「こんなとこにいても仕方がない。茶でも飲もうや」
サトは、ドアを開けた。
「帰ったで」
「はいはいお帰り」
篤美がすかさず、サトに応えた。行男は肩をすくめると、母親の後について、家へと上がった。その目が少し潤んでいることに、篤美は気付かない振りをした。
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