ヘザーグレイの景象

九賀逸句

第零次 綺麗で、空疎な、何色か

 放課後の教室は、「何もない」が飽和した最大密度の空虚だ。

 CO2に成り果てた、かつて声だった言葉。それらが溶けた空気が、教室の情緒と混じり合う。


「なーなーユクオ君。この写真、無機物が命めいてると思わん?」


 都築琴乃ツヅキコトノが示してきた携帯画面には、いつぞの夜のどこぞの海が映されていた。

 遠景の、海沿いに立ち並ぶビルの自己完結した輝きは、夜の溶け残りのように思えた。


「……真正面から撮ってるのに、やけに俯瞰的だな」

「分かってますなあ。パラドックスの説得力こそがヒューマニティーだと、私は思うのだよ」

 コトノは大層満足げな顔で、返却した携帯をプリーツスカートの中に入れた。


 かと思えば。

「ん、そー言えば、聞こうと思ってたんだけどさー。この街並み、海と夜空、どっちに沈みそうかね」

 やにわに、再び差し出された画面。だしぬけな質問に、僕は二の句を告げずにいた。


「質問を変えよー。実像に見える? 虚像に見える? それとも、鏡像?」

「…………有象無象」

「あははは、つれないねえ、釣れないねえ、不漁だねえ、不良だねえ、暴走族だねえ、のべ棒相続争いだねえ」

 げらげらと笑いながら、コトノは不埒な連想ゲームを始めた。


 窓の外。

 肉眼で見える限り、夕の空は綺麗だった。

 綺麗で、空疎な、柑子色。

 

- この街の空気は、血の匂いがする。ここは、世界の病巣だ。寛解した人間は、痛みの応酬に無自覚になってしまった。


- あなたは深い、濃い、無色透明だった。空疎な有象無象色なにいろかにならないで。


 違うよ。


「僕は変わり果ててなんかいない。代わり果たしてるだけ」

「んー?」

 コトノの声が聞こえ、息と言葉を吐き違えていたことに気が付く。

 首を傾げながらこちらを見る、コトノからは。

 外側の血生臭さはとうに消え、仄かだが、内側から有機物の香りがした。


「いや、一人言だよ、ただの」

「一人言を言う男はエッチだと、ガク君から聞いたのだがー。私欲、性欲、合わせて抑えて私性欲姿勢良く、背筋を伸ばして真面目に生きよー」

「らじゃ」

 形式的な敬礼をすると、コトノもそれに倣った。


「んじゃ、帰ろか」

 コトノは振り返る事もなく、教室を後にすべく歩き出した。刷り込みのように、僕はピヨピヨと後についていった。

生血12惨死3.45.6失血7吐血8、リズムに合わせてカニバリズム〜」

「それ、やめなさいって言ったじゃん。どうせガクでしょ、教えたの」

「えへへ、そうだよー。ガク君ったらこの前ねー……」


 綺麗で、空疎な、柑子色の空。

 僕らの足音が重なる度、その現実感が暴かれていく。

 昇降口は、僕を差し替えてはくれない。

 制服は、僕らを偽装してはくれない。

 クラスメイトは、演じてはくれない。


「娑婆の空気が五臓六腑に浸透しますなーユクオ君」

「工場の煙突・廃棄ダクト……美味しい空気だね。うーん、禁煙失敗」


 僕は未だ一人、数合わせにもなれない安い命を背負っていた。

 分厚い首輪で皮一枚を守り、太い鎖で己を繋ぎ止めるしかない。

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ヘザーグレイの景象 九賀逸句 @warewarehadokokara

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