第36話 月下の三人
19
薄い雲が月の光を優しく包み込んでいる。
「……やっぱり問題は屋敷の中だなあ」
檜山は双眼鏡を覗きながらひとりごちた。
高元邸を一望できるマンションの屋上である。
三人の影があった。
檜山、八波、川中島の三人だ。
目立たぬように黒っぽい服を着て、それぞれ手に持った夜間仕様の双眼鏡を屋敷の方向に向けている。
屋敷までは三百メートルほどだろうか。もっと近いところに立っているビルもあったが、近すぎて発見される恐れもある。その点このマンションは適度に距離が離れているので、向こうから発見されるという確率は少ないだろう。
住宅の明かりが取り囲むなか、その一角、高元の屋敷のある敷地だけは黒々とした闇が広がっていた。広大な庭を照らす街灯は驚くほど少ない。
庭の向こうに屋敷、屋敷の裏手には無骨な倉庫が立てられていた。屋敷ほどではないが倉庫もかなり大きい。恵理子の話では、港のほうにも倉庫があるらしいが、重要な車両や取引商品はこちらに保管しているのだそうだ。
檜山が狙う取引もここで行われるらしい。
八波たちはもっぱら屋敷の方に視線を向けていた。
家宝である石――月の漣があるとすれば屋外にある保管倉庫より屋敷内の収蔵室に保管している可能性の方が高い。残念ながら外からでは収蔵室のある場所までは見えなかった。
「屋敷の中は結構警備の男たちがおったぞ」
唯一屋敷の中に忍び込んだことのある川中島が言った。
どうやら屋敷内の警備は黒服たち、庭の警備は監視装置が中心になっているらしい。琴美と川中島に侵入されているのでもしかすると増強されているかもしれない。
「あの中に……」
八波は屋敷を見ながらつぶやいた。檜山もうなづく。
「あるとすれば、収蔵室か……あとは応接室か書斎ぐらいじゃないかなあ」
「応接し――」
八波の言葉が不意に途切れた。
「どうしたの」
檜山は不思議そうな顔で八波を振り返った。
八波は屋敷とは反対方向を向いていた。川中島も同じ方向を向いている。睨みつけている目からは殺気がほとばしっている。
二人の視線を追った檜山はそこで自分の目を疑った。
なんとも奇妙な光景だった。
月明かりに浮かぶように人が立っている。いや、人の形をした真っ白い〝紙〟が立っている。
丸みを帯びたところはない。すべてが四角で構成されている。頭の部分も四角い紙になっていて、体全体が一枚の紙でできているようだ。何の支えもなくその紙が屹立している。
「なんだ? これ……」
「四ツ戒堂の式神か!」
八波が叫んだのと同時に式神の手がすっと上がった。檜山に向けられたその手が猛烈な勢いで伸びる。
「うわあっ!」
間一髪のところでかわした檜山の足元でカラン、と何かが落ちた音がした。持っていた双眼鏡が真っぷたつに切れている。とっさにかわしたからいいものの、恐ろしいほどの切れ味だ。
切られた双眼鏡をのんびり眺めている暇はない。
式神の伸びた腕はそのまま檜山の右腕に巻きつき、ギリギリと締め上げてくる。
振り払おうとした檜山の目の前が真っ白になった。叫ぼうとしたが声が出ない。
い、息が――。
式神のもう一本の手が絡みついている――と理解するより先に檜山は呼吸困難に陥っていた。
「善次郎! 檜山殿を!」
言うが早いか、八波は大刀を抜いて式神の元へ駆け出した。
式神の左足が空気を切り裂いて飛び出してきた。
八波の頬にパッと血が飛ぶ。しかし、八波の足は止まらない。
懐に飛びこんだ八波は瞬時に式神の両腕を切り落とした。
式神は下がりながらも八波めがけて頭部を伸ばす。
この攻撃をギリギリでかわした八波は、横殴りに式神の頭部を叩き切った。
とどめを刺そうと本体に詰め寄り、横一閃になぎ払う。
手応えがない。
目の前から式神が消えていた。
――上!
上空を振り仰ぐ。風に舞う式神がいた。
八波の剣が切り裂く刹那、式神はふわりと跳躍していた。そのまま風に身を任せ、上空へと流れていく。
八波は歯噛みしながら上空を睨んでいたが、やがて視線を背後に戻すと倒れこんでいる檜山のもとに駆け寄った。
うかつだった。月の漣をめぐって熾烈な争奪戦を繰り広げている四ツ戒堂は、当然自分たちを狙ってくるものだと思っていた。まさかいっしょにいた檜山のほうを襲うとは……。
そばで介抱している川中島の落ち着いた様子から大事はないようだが――。
「檜山殿!」
咳き込んでいた檜山は心配そうな顔を向ける八波を落ち着けるためか、大丈夫というように手を上げた。
ようやく咳がおさまった檜山は大きく息をついて顔を上げた。
「びっくりしたァ……今のは……」
「四ツ戒堂の差し向けた式神じゃ」
「式神?」
川中島の言った聞きなれない言葉に檜山は首を傾げる。
「それはいったい――」
「檜山殿」
八波が檜山の言葉を遮った。その目に苦渋の色が満ちている。
これ以上檜山に言うわけにはいかない。
教えたくないわけではない。ただ、ここで四ツ戒堂のことを話せば、檜山をこの件に巻き込んでしまうだろう。
これは自分たちと四ツ戒堂の問題だ。檜山にどう思われようと巻き込むことはできない。きっと檜山はわかってくれる。
「檜山殿、すまぬがこれ以上は貴殿を巻き込んでしまうゆえ、話すわけには行かぬのだ」
檜山はうつむいたまま静かに答えた。
「……ここまで来てそれはないよ、八波くん」
静かだが強い意思を感じる声だった。
事情を察して引き下がってくれると思っていた八波と川中島は、檜山が見せた意外な態度に言葉を失った。
川中島がようやく口を開く。
「檜山殿、わかってくだされ。わしらとて辛いのじゃ。しかし、ここでお前さんまで巻き込むわけにはいかんのじゃ」
「もう十分巻き込まれてます」
嫌味な言い方ではない。真摯なまなざしが川中島の瞳を射抜く。
「二人の気持ちはわかります……でも、僕はもう知らないふりをしているのは嫌なんです!」
八波と川中島の見守る柔らかい月明かりの下、檜山の声がこぼれた。
「……二年前、僕は刑事でした」
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