断片世界

もやし

 茜差す夕暮れの教室。

 人のいる気配はない。ただ静かに、整然と机が並んでいる。静寂を打ち破るのは古びた引き戸の音。


「おつかれ」


 窓際の端の席に座り夕焼けに紅く照らされながら本を読んでいた少女が、そのドアから入ってきた少年に声をかけた。


「お疲れ様です。なんだってこんな所にいるんです?」


 この教室は少女のクラスのものでも、少年のクラスのものでもない。少女のクラスは隣で、少年はそもそも学年が一つ違う。黒板には少年がまだ解けない積分の問題の跡がうっすらと見える。


「んー、気分」


 顔を上げて本をに栞を挟み、肩にかかった長い黒髪を後ろに払う。セーラー服の白に濡烏の舞う。


「それよりさ、君。つぼみって漢字で書ける?」


「まあいいですが……。蕾、ですよね。草冠に、雷で」


 適当な席に座りつつ応える。


「正解」


 少女はそう言いながら立ち上がる。

 窓が開いている。その窓枠に座り直す。ここは四階でベランダはない。下を見れば校庭を見渡せる。


「先輩、さすがに危ないんじゃないですか?野球部いますよ今」


 風が吹いて髪がなびく。少女は意に介していない。


「大丈夫、今は繋がってないから。で、物知りな君にもう一問。蕾の文字の成り立ちはなんでしょう?」


「……味蕾のライってそれでしたよね。じゃあ、形声文字」


「せいかーい。と言いたいところだけど、実は違うんだよこれが」


 少女は戯けるように両手を広げる。先刻まで窓縁を掴んで支えにしていた手。


「答えは会意文字でした。残念」


「ああ」


 少年は何かを察した様子で、諦めたように頭の後ろで手を組んで椅子の背に凭れかかる。


「またいつもの自慢話ですか?」


「まあまあ、聞きなさいな。今は形声文字だって言われてるけど、実はこの漢字ができたエピソードがあってね?」


「はい」


 このやり取りはいつもの事なので、少年は適当に聞き流し続ける。少女もそれを気にせずに話し続ける。



「むかーしむかし、ある所に小さな村がありました。その村の近くには入っちゃいけないと言われている場所があって、村人たちは、自分たちも、たまに来る外の人もそこに入らないように厳しく気をつけていました」


 少女は伸ばした人差し指を振りながら楽しそうに語っていく。指先の動きは、窓の外、少女の後ろから吹き込む風と一致する。


「その場所は深い山の奥深くにありましたが、どういう訳かそこだけぺんぺん草も生えていないような所でした。ある日、その村を大きな嵐が襲いました。三日三晩続く大雨と強風で山は荒れ、木々は倒されていきました。嵐は、その場所にも届きました」


 脚を体ごとぷらぷらと揺らす。どこまでも危なっかしいその動きに、少年は少し目を逸らす。


「その場所には、神様がいました。何百年ぶりかの大嵐に神様は驚いていましたが、神様は風邪をひきませんから、その場所から動くことはありませんでした。ちょうどそこに、雷が落ちました。」


 どーん、と指を振り下ろす。それでバランスを崩したように窓縁から降りて、そのまま前につんのめるようにして少年の前まで移動する。ふわりと重さを感じさせない動き。


「するとなんということでしょう。雷に打たれた地面から、植物の芽が出てくるではありませんか。それはみるみる伸びて増えていって、すぐにその場所を覆います。ついさっきまで茶色だったそこはもう、緑色に染まっていました。神様はそれを見て感動しました。葉っぱの中に、違うのもが混じっていきます。それは花です。つぼみです。一面の花畑がそこにありました。嵐はまだ続いています。神様は、この景色だけは残したいと思って、そこを守ることにしました。」


 斜め上の中空を向いて思い出しつつというように続ける少女。


「神様の力のおかげで、嵐が止むまでその花畑が荒れることはありませんでした。ついでに周りの山も、以前の緑を取り戻しました。それは、田舎の隅に生まれた天国の映し身でした。──っと、こんな感じかな。それでそれから、つぼみは蕾って漢字になったの。花って字はその時もうあったからね」


 話し終えると、少女はさっきまで読んでいた本を取りにいった。


「さよなら。また明日」


 そして消えるようにドアを出ていってしまった。

 やっぱりどこまでも奔放だなと少年は思って、窓の奥の空を見上げる。



「まったく、いつも他人事みたいにさ」


 半ば雲に隠された星空が、藍を敷いて眩いている。変わらないように感じる静寂が教室に満ちる。


「神様」

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