蕎麦好きのたぬき野郎に奪われた僕の天使
徳川レモン
蕎麦好きのたぬき野郎に奪われた僕の天使
愛すべき娘が奪われた。
実際には違うわけだが、僕の心情はまさにそれだ。
肉を切るナイフの手が止まる。
今まさに夫となる男性の横で、愛娘が幸せそうな笑みを浮かべる。
父親として門出を祝うべきなのだろう。分かっている。それが父親というものだ。苦労して育てた可愛い我が子を送り出すのが父親の務め――ふざけんなっ、納得できるか!!
苛立ちから頭をかきむしる。
「貴方、落ち着いて。大事な披露宴の真っ最中なのよ」
「分かっているさ。分かっているが、僕はまだ納得できていない」
「まーたお父さんの発作が起きた」
同じテーブルで食事をする次女が呆れ顔だ。
隣の席に座る妻は、僕が何かしでかさないかとハラハラした様子で見ている。
新婦の席にいる長女の
やはり可愛いな、僕の娘は。
なんせ美人で愛嬌があって気立てが良く、勉強もスポーツもできて父親想いだ。そう、父親想いだ(大切なことなので二回言った!)
なのにどうしてそんな男と結婚する。
結婚は百歩譲って許そう。子はいずれ巣立って行くものだ。しかし、そいつはダメだ。『緑のたぬき派』なんだぞ。
◇
『ほら、貴方抱いてみて』
『この子が僕らの娘なんだね』
初めて我が子を抱いた。
その時の美緒はとても軽く、正直娘ができたなんて実感はまったくなかった。けれど充足感はあった。
たぶんこれが幸せなのだろう、となんとなく思ったりした。
この日、僕は病院の帰りに『赤いきつね』を買って帰った。
◇
僕はカップから剥がした蓋を美緒に見せる。
『ほら、きつねだよ』
『き~、き~』
『あかい、きつね』
『あ~、き~』
ベビーチェアに座る彼女は、蓋をぷっくりした小さな手で掴み嬉しそうに振った。
そこへ妻の
我が家は週に一回こうして家族揃って『赤いきつね』を食べる。
なんせ僕と妻は、深夜のコンビニで最後の『赤いきつね』を取り合ったことがきっかけで付き合い始めた、ちょっと変わった夫婦だったからだ。
◇
狐の着ぐるみを着た美緒が、ダイニングをぱたぱた走る。
『おとうさん、似合う?』
『美緒はマルちゃんの天使だな』
『おか~さ~ん褒められた~!』
『ふふ、良かったわね』
部屋の中にはピカピカ光るツリーがあり、その横にはピラミッドのように積み重ねられた『赤いきつね』があった。
美緒を連れて智美が戻ってくると、その手には湯気が昇る三つのカップ麺が。
僕は娘を椅子に座らせフォークを渡す。
『赤いきつねだーいすき。あちちっ』
『ゆっくり食べなさい』
『あら、本当にゆっくりでいいのかしら。まだケーキがあるのに』
『おとうさん、ふーふーして! はやく!』
麺を小皿に分けて熱を冷ましてやる。
幸せなクリスマス。
いつかこの子も好きな相手を見つけてこの家を出て行くのだろう。
だけど、簡単にはやらない。美緒は僕の幸せそのものだ。
男らしくて仕事ができて優しくて、それから美緒の大好きな『赤いきつね』を好きな相手じゃないときっと僕は許さない。
◇
リビングへ入ると、学校から戻ってきた長女と次女が騒いでいる。
『ただいま~! おかーさん、赤いきつねどこ~?』
『ちょっと、鞄を投げ捨てないの』
『ただまっ! うわっ、おねーちゃんずるい!』
『
『また取り合いしてるのか』
仕事は上手くいったものの疲れ果てていて、つい鞄を投げ捨ててソファへ座った。
そこへ妻が目尻を上げて見下ろす。
『貴方も鞄を投げ捨てない!』
『は、はい、すいません』
『あはははっ。おとうさん怒られてやんの』
『み~な~、はんぶんこしよ~』
『やた』
湯気の昇る『赤いきつね』を持った美緒が、台所からリビングに戻ってくる。
元気な美菜は姉の周りでぴょんぴょん跳んでいた。
僕はニヤリとして鞄からカップ麺を取り出す。
『お父さんも食べるぞ!』
『それ、もーらい』
目にも留まらぬ速さで美菜はカップ麺をもぎ取った。
◇
『明日から美緒も中学生か』
『お祝いに赤いきつね食べよ。ね?』
『そうだな』
スーパーで陳列されたカップ麺を前に、美緒が両手を合わせる。
可愛い娘にお願いされるとNOとは言えない。
妻の険しい顔を横目に、籠の中へカップ麺を入れた。
こ、小遣いで買うから……。
◇
『ハッピーバースデーおねーちゃーん』
『はーい、きつねさんの到着よ』
ケーキのロウソクが揺らめく中、妻が四つのカップ麺を持ってきた。
嗅ぎ慣れた出汁の香りに僕も娘も喉を鳴らす。
『おねーちゃんはロウソク消してて。その間に食べてるから』
『姉の扱い!』
蓋を剥がし、箸で麺をほぐす。白い湯気が立ち昇り僕の眼鏡は曇ってしまう。
だが、これがいい。まずはお出汁から。
ずず、啜ると旨味とキレのある塩味に顔がほころぶ。
『おいしー!』
誕生日おめでとう、美緒。
◇
深夜。
僕は美緒の部屋の部屋のドアを叩く。
『勉強は進んでいるか』
『なんとか。もう少しだけ頑張ってから寝るから』
『お腹が空いたんじゃないか。これ、お母さんが用意してくれたんだ』
『わぁ! きつね!』
お盆に載った『赤いきつね』をデスクへ置く。
今の彼女の学力では志望校には入れないらしい。
だからこうして寝る間も惜しんで必死に頑張っている。
父親としては応援したい気持ち半分、体調を心配する気持ちもある。
無理はするな。でも、頑張れ。僕は応援しているぞ。
◇
じゃーん、と美緒がスマホで画像を見せる。
そこには張り出された合格発表と美緒の番号があった。
僕も妻も思わず目が潤む。
努力が実ったのだ。厳しいかもしれないと言われていた志望校に見事合格。美緒は本当に自慢の娘だ。
もちろんたとえ落ちていたとしてもそこに変わりは無い。
ずるるるっ。麺を啜る音が聞こえる。
妹の美菜は興味なしとばかりに、一足先に赤いきつねを食していた。
『み~な~、一緒にお祝いしてよ!』
『もう飽きるほどおめでとうって言ってあげたじゃん。でも、相変わらずこの”おあげ”美味しいなぁ。ところで”おあげ”と”胴上げ”ってなんか似てない?』
美緒は席に着くと自分のカップ麺の蓋を開け、おあげを美菜にあげた。
『私と同じ学校に入れるように、今から頑張りなさいよ』
『善処します』
お祝いムードのまま僕らは食卓を囲んだ。
◇
桜が散る中、妻と美緒が正門を出る。
僕は車から外に出て手を振る。
晴れやかな日の卒業式。
本日、三年間の高校生活が終わったのだ。
美緒は鼻を啜り、何度も何度も振り返る。
学生生活は楽しかったかい?
沢山の友達はできたかい?
思い出を作ることはできたかい?
もう美緒の制服姿を見ることはないと思うと、僕は少し寂しいかな。
卒業おめでとう。
◇
靴を履いた美緒が立ち上がる。
『これだけでいいのか』
『新しい部屋、そんなに広くないし』
玄関にはガムテープが貼られた段ボールが置かれていた。
大学を卒業し、いよいよ社会人として旅立つ。
美緒は会社に近い場所で一人暮らしすることにした。
愛娘が家からいなくなることは寂しいが、大人になるとはそう言うことだ。
彼女の成長のためにも喜んで送り出さなければ。
社会は冷たく厳しい、それでも決して道を見失うな。
疲れたら戻ってきなさい。ここはずっと君の家だ。
『そうだ! ちょっと待ってなさい!』
『忘れ物とかないと思うけど』
『そうじゃない。これだ』
僕は『赤いきつね』を差し出す。
美緒は笑顔で受け取った。
◇
『どうか娘さんを俺にください!』
『お願い、お父さん』
僕は美緒の連れてきた男を前に、口をへの字にする。
見た目は悪くない。能力も悪くなさそうだ。性格は、美緒が連れてきたのだから良いのだろう。しかし、一つ許せないことがある。
この
僕は昔からうどん好きだ。
そして、美緒の相手は『赤いきつね』好きと決まっていた。
『何度言えば分かる。蕎麦を食うような奴には娘はやれん』
『どうか緑のたぬきも食べてみてください。決して後悔はさせませんから』
『だったら聞くが、君は赤いきつねをどうして食べない』
『うどんはちょっと……』
『馬鹿にしてるのか! そうだろ!?』
怒りのあまり男の胸ぐらを掴んでしまった。
「――貴方、美緒のメッセージよ」
「お、おお」
意識が現在に戻る。
前を見ると、美緒が便箋を開いていた。
「お父さん、お母さん、二十六年間、大切に育ててくれて、本当にありがとうございます。こんなにも大勢の方々に祝福されて、今日を迎えることができたのは二人のおかげです――」
美緒の言葉に、僕も妻も涙がこぼれる。
沢山の思い出があった。沢山の喜びがあった。今日まで僕は一度たりとも不幸だと思ったことはない。それは彼女が生まれてきてくれたからだ。きっと妻も同じ想いだろう。
静谷君、この際君が『緑のたぬき派』なのは目をつぶろう。
だから必ず美緒を幸せにしてくれ。
もし不幸にしたら『この蕎麦好きのたぬき野郎』とぶん殴ってやる。
必ず、必ず幸せにして欲しい。
娘の感謝の言葉に、僕の怒りはすっかり消えていた。
――二十八年後――
僕はコタツでTVを見ながらミカンを食べる。
もう間もなく年が明けようとしていた。
台所では妻と美緒と美菜が年越しの準備を進めている。
ま、お湯を注ぐだけなのだが。
「お義父さん、聞いてますか!」
「おお、聞いてる聞いてる」
静谷君が怒りを露わにしていた。
原因は孫が連れて来た男にあるらしい。なんでもその彼は『赤いきつね派』だったらしく、どうしても結婚を許せないのだとか。
君もまだまだ若いな。
この歳になると、もう赤とか緑とかどうでも良くなるんだ。
「僕が君を信じたように、君も彼を信じてみたらどうかね」
「でも、赤いきつねですよ?」
「僕もそのきつね派なんだがな」
妻がカップ麺をコタツの上に置く。
赤も緑も分け隔て無い。
全員で「いただきます」と蓋を剥がした。
蕎麦好きのたぬき野郎に奪われた僕の天使 徳川レモン @karaageremonn
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