第45話 蒼炎の剣

 この身体に何が起きているのだろう。

 そんなふうに、九十九は自分の身に起きていることを、どこか他人事のように思いながら、その異変が起きた箇所に目を走らせていた。

 左手は何の異常もない。見慣れた自分の手がそこにある。足脚はどうか。スラックスと上履きを履いた、いつも通りの足脚。やはり何も変わりなく自分の身体。問題は右腕。自分の右腕は何処にいってしまったのだろう。この纏わりつく物体に、覆われているだけならいいのだが。

 鈍く光沢を放つ暗い黄金色のそれは、ぼこぼこと生きているかのように波打っている。右腕だけが、別の生物と入れ替わってしまったかのようだ。そして、その表面には、今しがた視界を埋め尽くした二重螺旋の帯が紋様のように刻まれていた。紋様は、紅く発光して明滅を繰り返し、物体の上を流れていく。いや、良く見てみると紋様が動いているのではなく、物体自体が流動している。まるで液体の金属のようだ。

 左手で右腕の表面を触ってみる。そっと人差し指で触れると、指先がぼこっと沈み込んだ。一度離し、少し力を入れて押してみると、指は沈み込まずに関節が曲がった。強い力が加わると硬質化するらしい。次に表面を撫でるようになぞる。つるつるとしていて、ひやりと冷たい。それは腕、肩、首、そして顔面の右側まで浸食していた。

 右腕に纏わりつくものの見た目、感触には覚えがあった。昨夜、雷門の前で拾った金属の塊。装丁そうていを施された、手の中に納まる程度の手帳のような形の金属。二重螺旋の紋様は、その手帳の表面にもあった。そして金属の手帳は、九十九の身体のうちに入り込んだ。それが今、表に実体として形を変え、九十九と一体化して現れた。九十九には、そのように思えてならなかった。

 同時に、九十九の脳裏にもう一つの記憶が思い浮かぶ。鬼面の男、水野十郎左衛門みずのじゅうろうざえもんに殺されかけた際に出現した一振りの剣。あの剣も、九十九の裡にある金属と関係があることは間違いない。ならば、同じものと思われる金属を右腕に纏った今の状態なら、もう一度出現させることが出来るのではないか。

 しかし、どうすれば……。何か方法はないか――そう思ったとき、右腕に動きがあった。右腕に纏わりつく金属が、内側から沸騰したかのように盛り上がり始めた。大小の気泡が、その表面に現れては割れる。二重螺旋の紋様が一際強く発光した。やがて、金属は収斂しゅうれんして、元の形に戻っていく。気付くと、九十九の右手の感覚が戻っている。そこに自分の右手があることが、はっきりと分かった。やはり、液体状の金属に覆われて隠れていただけのようだ。その右手は、力強く何か硬質なものを握りしめている。角ばっていて細長い……これもまた金属だろうか。

 右腕に纏う液体状の金属の収斂が進むに従って、押し出されるようにそれは現れた。鋭く剣呑な光を放つ剣尖けんせん。次いで、ズルズルと身幅の広い平造りの刀身が這い出るように現れる。刃文やしのぎのない刀身は、完全燃焼した炎のように青黒く、狐火の如く妖しく揺らめいていた。

 同じだ。昨夜手にしたものと同じ剣。圧倒的な存在感を持って、再び九十九の右手に握られている。記憶を遡り、思い描いただけで出現した剣を、九十九はじっと眺めて、握る手に力を籠めた。

 九十九は、天啓を得たような心地だった。そして、己の宿命を悟った。


 紫乃は、ペタンと座り込んだまま、変異した九十九の後ろ姿を眺めていた。傍らで、マロンも同じように座って九十九を見上げている。九十九は、ただそこに立って、喋るでもなくじっと佇んでいる。何かが纏わりつき変貌した右腕を、紫乃は凝視した。まるで引力でも働いているかのように視線が外せない。

 突然、その右腕が変化し始めた。肥大し隆起し、気泡が発生してプロミネンスのように飛び散って弾ける。次第に縮小を始め、元の姿に戻っていくにつれて、右腕の先から生えるように現れた異質の剣。青黒く発光する剣を見て、紫乃は綺麗だと思った。同時に、神聖なものを目の当たりにしたときのような、畏怖の感情も湧き上がってくる。

 紫乃は声が出せず、その光景をじっと見守っていると、不意に九十九の腰が沈み込んだ。右足を一歩前に、今にも走り出しそうな前傾の姿勢。次の瞬間、紫乃は目を見開いて叫んだ。

「――ミカンッ、戻ってッ!」


 九十九は、地を蹴って飛ぶように跳んだ。赤ん坊と取っ組み合うミカンは、紫乃の声に振り返り、跳躍して眼前に迫る九十九に気付くと、野太い音で焦ったように短く鳴いた。九十九とぶつかる寸前で身体にノイズを走らせて、その姿は消失した。

 九十九は、剣尖を赤ん坊に向けて構えると、円口の真下、顎に当たる部分に剣を突き刺した。赤茶色の血が噴き出して、赤ん坊が絶叫した。耳を覆いたくなるようなおぞましい叫びを無視して、九十九は剣を押し込んでいく。円口の内側から歯を押しのけて剣尖が飛び出す。赤ん坊は、たまらず手で九十九を払い落した。九十九は、勢い良く壁に激突するが、すぐさま体勢を立て直すと再び赤ん坊に取り付き、剣を突き立てた。

 その身のこなしは敏捷びんしょうだった。赤ん坊の身体に剣を突き刺し、払う手を軽々と避けてまた突き刺す。赤ん坊は、我武者羅に頭を振って両手で九十九を捕らえようとするが、九十九はその間を縫って躱し、攻撃を仕掛けていく。次第に赤ん坊の身体は、自分の血で汚れていった。

 赤ん坊の手を躱し、宙を舞う九十九。一度床に着地して、正面から飛び掛かろうとしたとき、赤ん坊の口から触手のような突起が無数に伸び、九十九の身体を捉えた。触手の先には人間の手があった。どす黒く腐敗した手が九十九の身体を這い回る。触手は九十九の胴体を縛ると、鞭のようにしなって天井へ叩きつけた。さらに真下へ叩き落とし、上下に二度、三度と繰り返す。最後に床へと叩きつけると、赤ん坊は九十九を眼前に持ち上げた。頭から喰らわんと覆い被さるように円口を近付けていく。

「先輩ッ、先輩!」

 紫乃が声を張り上げて叫ぶ。

 ひたひたと赤ん坊の唾液が床に落ち、音を立てた。九十九の頭が、赤ん坊の口に被さる。

「あ……あぁ……」

 赤ん坊の眼窩がんかと目が合って、紫乃が青ざめて声にならない声を上げた。

 徐々に飲み込まれて、上半身がその口の中に消えたときだった。赤ん坊の額から剣の剣尖が顔を出した。

 赤ん坊の動きが止まって、がたがたと震え出す。そして、赤ん坊の口から、ぼとぼとと何かが落ちた。それは、手。九十九を縛っていた触手が、切り刻まれて床に落ちていた。

 赤ん坊の額から飛び出す剣尖は、ゆっくりと伸びていく。九十九が、口の中で剣を真上に突き立てているのだ。赤ん坊は泣き叫ぶが、九十九の剣は止まらない。最後に剣を真上へ掲げるように突き上げると、一際派手に血飛沫が噴き上がった。まるでイッカクのように、剣は額から突き出ていた。

 血の雨の中で、赤ん坊は痛苦に泣き叫び、九十九は無慈悲に剣を刺し貫く。その惨たらしい光景は、まるで地獄を覗き見ているようで、紫乃は込み上げる吐き気を堪え、手で口元を覆った。

 赤ん坊の叫びが途切れ、ぐったりと身体の力が抜けたかと思うと、その身体がどろどろと溶けだした。泥のように床に落ちる四肢と胴。溶解した肉塊は剥がれ落ちていく。最後には剣が突き刺さった頭が溶け、するりと落下した。


 赤ん坊の身体は崩壊し、スライム状の液体になって廊下に広がっていた。式神を倒したのだろうか。そう思って、紫乃は呼吸を思い出したかのように息を吐き出した。だが、九十九は動かない。立ち尽くして、赤ん坊であった液体を見つめている。

 紫乃が身体をびくつかせた。赤ん坊の泣き声が聞こえる。先ほどまでの泣き声と比べて、か細く小さい。そして、バシャン、と水音を立てて、床に広がる液体から手が這い出てきた。紫乃は、両手で口を押さえながら目を見開く。

 一人、また一人と液体の池から式神が姿を見せる。禿頭の式神が五体、池から上がると、最後に髪の長い女型の式神が、赤ん坊をその胸に抱いて現れ、その場に座り込んだ。

 抱かれる赤ん坊は小さく、人間の姿をしていた。その赤ん坊を、女型の式神は愛おしむように包み込んでいた。赤ん坊と女型の式神を護るように、禿頭の式神が周りを囲む。

 そんな七人ミサキを見つめる九十九の眼に光はない。そして、ゆっくりと頭上に剣を振り上げた。

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