第44話 二重螺旋

 七体の式神が融合し、大きな赤子となってその円口を広げた。

 円口の内側をびっしりと覆う立派な永久歯。滴る粘性の唾液。その口の奥には、底のない闇が広がっている。赤ん坊は、何がそんなに面白いのか、愉し気にキャッキャッと笑い声を上げている。赤ん坊にとって、目の前で青ざめる九十九は新しい玩具でしかないということか。

 九十九は、目をしばたかせて赤ん坊を見た。その見上げるほどの巨体に言葉を失う。目の前の光景には、現実感というものがまるでなかった。

 突然現れた侍に学校に起こった異変。陰陽師見習いの少女とヤクザ風の男。呪術と式神。昨夜から自分に降りかかる出来事は、全て九十九の理解を超えていた。その上、目の前の巨大化した赤ん坊である。九十九の思考は全く追いつかず、パンクを回避しようと現実を逃避していた。もしかしたら夢なのかもしれないと。

 しかし、そんな思いも虚しく赤ん坊は行動を開始した。巨大化した赤ん坊にとって、廊下の空間は動ける限界の狭さとなっていた。頭を天井に擦り付けながら。四つん這いで九十九の元へ突き進んでくる。その大きさ故、一歩一歩の幅が広く、あっという間に彼我の距離は縮まっていく。

 ――キャッキャッキャッキャッキャッ――。

 狂ったように上機嫌な笑い声を上げながら、赤ん坊は立ちすくむ九十九に突っ込んだ。

「あ……あ……うわッ」

 赤ん坊が九十九の頭をくわえ込もうとした瞬間、運良く九十九は尻餅をついて、赤ん坊の両腕の間に潜り込むように回避していた。

「はぁ……はぁ……」

 目を見開き、震えながら赤ん坊を見上げた。恐怖が完全に身体を支配してしまっている。足が竦み、到底立ち上がることなど出来ない。

 九十九を喰い損ねた赤ん坊は、その場でピタッと身体を停止させた。下を向いて、辛うじて難を逃れた獲物を探す。頭を下げても、九十九は赤ん坊の胴体部分にまで潜り込んでしまっていて、このままでは喰うことは出来ない。巨大化したことの弊害が生じていた。

 しかし、九十九はその場から動けずにいる。すぐに赤ん坊の手に捕まった。その両手にがっしりと掴まれて持ち上げられる。お気に入りの玩具を手に取ったように、赤ん坊は歓喜に笑った。

「くそ……くそッ!」

 九十九は、身体を捩って藻掻くも、赤ん坊の両手はびくともしない。波打つようにうごめく円口が近付いていく。深く暗い井戸を思わせる闇が、九十九の瞳に映った。近付く口から逃れるように頭を精一杯反らせるが、最早ただの悪あがきに過ぎない。

 ――あぁ……食われる――。

 そう、諦めて目を瞑りかけたとき、鈴の音が聞こえた。


 その鈴の音に、はっとして目を見開いた。

「マロン!お前ッ――」

 赤ん坊と九十九。その両者の間に、黒猫が、マロンが浮いていた。マロンの体勢から、勢いをつけて飛び込んできたように見える。昨夜の記憶が蘇り、九十九は茫然とマロンを見つめていた。

 マロンは、赤ん坊に向かって犬歯を剥いて鳴いた。風が巻き上がるほどの衝撃が赤ん坊を襲う。一瞬怯んだ赤ん坊は、不機嫌そうに唸って、九十九から片手を離してマロンを払った。マロンは迫る左手を踏み台にして跳躍。マロンの素早い身のこなしは九十九の目に追えず、気付くと九十九の頭頂部に着地していた。

 ちょこんと頭の上に乗ったマロンが、もう一度鳴き声を上げようと頭を低くした瞬間だった。九十九の視界が急速に真横へずれた・・・。強い風を肌に感じて、突然身体が軽くなる。九十九はその瞬間に気付く。投げ飛ばされたのだ。

 ちょこまかと動き回る黒猫に業を煮やした赤ん坊は、右手に持った九十九毎振り払おうと手を真横に振った。すっぽ抜けたのか、投げ飛ばそうとしたのかは分からない。どちらにせよ、九十九はその勢いに任せて斜めに飛ばされ、窓下の壁に強かに叩きつけられた。

 顔面から肩口にかけて強烈な衝撃が走り、バキバキッ、という音が脳内で反響している。このとき、九十九の頭蓋骨と右肩関節周辺の骨が粉々に砕け散っていた。壁に受け止められた身体は、その壁面に血の跡を残して床に落ちた。

 当然のことながら、身体はぴくりとも動かない。だが、頭蓋骨は割れて、その下の脳には損傷があろう状態にも関わらず、何故かはっきりと意識が残っている。最悪なことに、痛覚も未だ正常に働いていることが、襲い掛かる痛みで分かった。どうせなら意識が無くなってくれた方が良かった、などと九十九は思う。しかし、痛み以上に感じるのは燃えるような熱さ。全身の血が煮えたぎるような熱を感じる。その熱が、段々と損傷した頭部や肩に移動していく。顔全体が炎に包まれ、炙られているような熱さに、九十九は声に出さず絶叫していた。

「九十九先輩!」

 階段を駆け下りて、横たわる九十九を見つけた紫乃は、傍に駆け寄ろうとしたが、視界に飛び込んできた赤ん坊に瞠目し立ち止まった。さっと血の気が引いて立ち竦むが、意を決して九十九に覆い被さるように膝を突いた。横向きに背を向けて横たわる九十九。そのすぐ横で、マロンが後頭部を見ながら、身を案じるかのようにじっと座っている。

「先輩ッ、先輩!熱ッ……え?」

 肩を揺する紫乃は、すぐにその手を引いた。触っていられないほどの熱を九十九の身体が帯びている。紫乃は横たわる九十九を凝視して、困惑の表情を浮かべた。

 九十九の顔は血に塗れて、壁面にも血の跡が大きく残っている。この状況から、九十九はこの壁に叩きつけられたのだろうことは解った。問いかけに返事はなく意識を失っている。命を落としていてもおかしくないような惨たらしい姿。しかし、この高温の熱を帯びた身体は……。

 紫乃は、赤ん坊に向き直り呪言を叫ぶ。

識神猫鳴哭しきじんびょうめいこく――ミカンッ!」

 紫乃の目の前の空間が渦を巻くように歪んで、巨大な猫が出現した。橙色の縞模様。廊下を塞ぐほど大きな体躯。識神ミカンを再び使役した。

 赤ん坊と鼻を突き合わせるように睨み合うミカンは、壁のように赤ん坊の進路を塞いでいる。巨体には巨体を。今、赤ん坊の相手を出来るのはミカンしかいない。

「式神の相手をしてッ、ミカン!」

 この間に九十九を移動させなければ。死んだ人間の身体が、あれほど熱を持つことなどあり得ない。いや、それは生きていたとしても同じことだ。九十九の身体に何かが起きている。恐らく、昨夜雷門で手にしたものが関係しているのだろう。どのような変化かは分からないが、希望を持つには十分な材料だ。九十九は、まだ生きている。紫乃は、そう信じることにした。

 赤ん坊とミカンは、彼らにとっては窮屈な空間で、掴み合いながらその巨体をぶつけ合っている。傍から見れば戯れのようだが、十分に時間は稼げそうだ。

 紫乃は、九十九の脇を抱えるようにして持ち上げようとするが、とてもじゃないが熱くて持っていられない。仕方なくブレザーの襟の部分を引っ張って身体を引き摺っていく。

「ふんッ……んッ、先輩……しっかり……して下さいッ!目を覚まして!」

 紫乃は、九十九に繰り返し呼び掛けながら階段の方へ向かっていく。しかし、脱力した人間の身体は思いの外重く、遅々として歩みは進まない。

「くッ、ううぅぅ……うわッ」

 目をぎゅっと瞑って背を反らし、精一杯力を籠めていると突然、紫乃の身体が前へと引っ張られ、つんのめって膝を突いた。紫乃が見上げると、九十九が背を向けて立ち上がっていた。

「せんぱ――ッ」

 紫乃は、言いかけて口をつぐむ。その異様な姿に息を飲んだ。


 九十九は、はっきりとした己の意識の中で叫んでいた。熱い、熱い。助けてくれ。灼熱の業火に焼かれるような感覚が、断続的に襲いかかる。肉はおろか、骨すら灰となっているに違いない。そう思うほど長く続く熱の痛みは、治まる所か激しくなるばかり。鼓動のような熱の波は、早鐘を打つように間隔が短くなっていく。肉、骨、神経、血液、臓器、精神。自分を構成することごとくが燃えていく。

 やがて、意識すらも無くなって、存在が燃えて消えたかと思われたとき、九十九は意識を取り戻した。暗闇に覆われ、静寂が支配している。その暗闇に何かが現れた。それは、続々と数を増やしていく。それは、二つの鮮やかな紅い糸が絡み合うような二重螺旋の帯だ。暗闇に二重螺旋の帯が無数に広がって、全体を紅く覆い尽くした。気付くと灼熱が消え、痛みから解放されていた。二重螺旋の帯が一斉に消えて、目の前が暗転した次の瞬間、九十九は現実へと引き戻された。


 変わり果てた九十九の姿を、紫乃は唖然として眺めていた。シルエットは五体を描いて、辛うじて人間であることが解る。しかし、右半身、特に右腕は何かが取り巻いて蠢き、倍以上に膨れ上がっている。鈍く光沢を放つ腕の表面には、無数の紋様が刻まれていた。二本の糸が絡まって渦を巻くような紋様。その紋様が紅く不気味に発光している。

 そこに立つのは九十九なのか、別の何かなのか。

「九十九先輩……あなたは――」

 返事はなかった。紫乃の言葉はふらふらと宙を彷徨って、ふっと消えた。

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