第30話 旗本奴、吉屋組

 帝陵高校昇降口前。

 上空には厚い雲が懸かり、先ほどまで見えていた澄み渡る青空を噓のように覆い隠していた。残暑厳しい九月中旬。日差しが隠れた程度では気温が下がる筈もないが、累は寒々しさを覚えていた。それは実際に肉体が感じているのではなく、精神に起因していた。

 校舎を突如覆い尽くした異形。暗闇へ引きずり込まれた九十九。手を伸ばすも空を搔いた手と、九十九の顔が脳裏に過った。

(どの口が守るなどと……)

 校舎を浸蝕する異形に無様にも怯え、平静を欠き、取り乱した己への怒りと羞恥。それらの感情が、胸中に暴風となって吹き荒れていた。

 一瞬、その感情に身を任せてしまいそうになる。四肢が震え、鼓動が速まって額の辺りが熱くなるような感覚。しかし、すぐに思い留まった。危険な兆候だった。こうして本能に従った故に死に至った者を、これまで幾人も目の当たりにしてきた筈だ。

(――未熟)

 累は目を閉じ、静かに空気を肺に取り込むと、ゆっくりと吐き出していく。沸き立った血を冷ますように。冷えた血は全身を駆け巡って、震えを止めた。

 そして、累は柄を握った。腕を持ち上げて、刀を抜くと正眼に構えた。こうして構えるだけで、散り散りとなっていた平常心が集まって憤懣ふんまんを掻き消していく。しかし、その中でも怒りは完全には忘れてはいけない。激情だけを捨て去り、澄んだ尖鋭せんえいな怒りのみを手繰り寄せるのだ。


(……)

 累は瞼を開く。針の如く鋭利な半眼で男を見据えた。

「斬る」

累の前に立つ男、三浦義也みうらよしやは、快活に笑った。

「良い面するなぁ、あんた。だが、ちょっと待てよ。少し話そうじゃねえか」

「話すことなど無い」

 累は低い声で言い放った。しかし、三浦は意に介さず喋り続ける。

「いやあ、勇んで来たは良いもののなあ。はっきり言って状況がまるで分かってねえんだ、俺は」

「……馬鹿なのか」

 思った言葉がそのまま口を衝いて出た。三浦の呆けた態度に、ほど良い緊張が解けて弛緩してしまう。

「わけ分かんねぇ場所に放り出されてよぉ。ここが日ノ本だって?信じられるかよ」

 三浦は眉間に皺を寄せて目を閉じ、喋り続けた。腹に溜まったものを吐き出すように次から次へと口から零れ落ちていく。

「組の奴らも置いてきちまって……聞けば九月だと。ふざけんな!富岡八幡宮の祭りが終わっちまってるじゃねぇかっ!糞っ、あいつら。この俺抜きで楽しんでやがったら徒じゃおかねぇ……」

「貴様、喋るのを止めろっ……こいつは一体何をしに来たのだ」

「ったくよぉ、やってらんねぇ。どいつもこいつも奇天烈な恰好してるくせに偉そうに指図しやがる……あんの妖術使い共がっ」

「……何だと?」

 三浦の妖術使いという言葉が引っかかった。学校までの道中で出会った男。あの者も妖術かは分からないが不可思議な力を使っていた。

「おい、三浦。妖術使いとは何だ?この時代にそのような者がいるのか?」

「あ?おうよ。昨日こっちへ来た時にな。そいつらがいたんだよ……くっ、ははっ。仁右衛門にえもんなんか、いの一番に斬りかかったんだけどよ。妖術で伸されちまった」

 三浦は笑いを堪えて、からかうようにそう言うと大声で笑いだした。

「あの異形はその者達の仕業か……」

「さあな」

 三浦は苦々しく顔を歪めた。

「他の頭領連中もいるか」

「あぁ、いるよ」

 累は奥歯を噛んだ。やはり、あの時あの場にいた者は、ことごとくこの時代へ飛ばされてしまったらしい。六方組の頭領全員が来ているだろうことは当然、可能性として考えていた。しかし、こうしていざ聞かされると落胆せずにはいられなかった。それに、六方組の方にまじない師が付いているとは。あの男の関係者だろうか。

「くそっ、悪夢だな……水野と違って、貴様等がただのごろつきであることが幸いだよ」

「ふざけんじゃねぇ。あんな化け物と比べるんじゃねぇよ。ったく、どこほっつき歩いてんだか」

 累は耳を疑った。

「水野は一緒ではないのかっ」

「あの人がじっとしてられるわけねぇだろう。すぐに消えちまったよ」

 昨夜の戦いの後、水野は他の頭領とは合流せず単独で行動しているらしい。この時代で行く当ても無く、どこで何をしているのか。もしかしたら、もう何人かこの時代の人間を斬っていてもおかしくない。累は、斬れなかったことを心底悔やむしか無かった。

「馬鹿がっ。何をするか分からないぞ、あいつは」

「知ったことかよ。面倒見切れねぇぜ」

「他の連中は勝手なことはしていないだろうな?」

「んなもん、それこそ俺らの勝手だろうが。はぁ……御上も奉行所の阿呆共もいねぇと思ったら、あんたがいるんだもんなぁ。七面倒な女よ」

「黙れ、無頼が。いい加減、槍を構えたらどうだ。貴様と話していると気分が悪くなる」

 ここで立ち話をしている時間はない筈だった。九十九の元へ急がなければならない。

「糞っ、おまけに可愛気もねぇ。まぁいい。そういや、あの小僧に用があるんだ俺は」

「……九十九に何の用だ?」

 その声は一段と低く、冷たい響きだった。

「あん?妖術使い共があの小僧を欲しいみたいでなぁ。俺達をあの小僧を捕まえる為の駒にしようって腹積もりよ」

 三浦は、頭上に槍を掲げると大きく振り回し、自身も一回転すると、左手を突き出し見得を切った。

「腹立たしいっ。そうだろう?良い様にされてたまるかっ!だから俺は、あの小僧を取っ捕まえてぶち殺してやろうと思ってんのよっ」

 直後、三浦の突きが飛んでくる。只の突きとは思えぬほどの速度で穂先が迫っていた。

 累は、構えた刀を自分の胴体に沿わせるように手首を持ち上げて引き寄せた。同時に上体を僅かに捻った。三浦の槍の穂が、累の刀を擦って通過していく。累は、刀を上方へ押し上げ槍を弾く。

「させるものか」

 そう言い放つ累に応えるように三浦は不敵に笑った。

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