第8話 夜が明けて

 意識が混濁していた。

 ふわふわと宙に浮いたような感覚。気持ちが良い。このまま漂っていたい。しかしそこに邪魔が入る。身体が強く揺さぶられているようだ。遠くから声が聞こえる。何を言っているかは分からない。

 すると一発。さらに一発。頬に痛みが走る。その痛みは終わる気配なく、両頬を交互に襲ってくる。


「九十九っ、九十九っ!」

 はっきりと声が聞こえる。聴き慣れた声だ。それと未だ続く頬への衝撃に、意識はやっと引き戻された。

「あっ……ちょっと!あんた大丈夫なの!?」

「おい……やめっ……いったぁっ!……このっ、手を止めろっ」

 両頬を往復で叩く手を制して九十九は起き上がった。

 ぼーっと周囲を見ると、そこは自宅の玄関先だった。何とか自宅まで帰ってきて、そのまま寝てしまったらしい。少し前の記憶を思い返す。

    ◇

 あの時、累が九十九を背負って橋から飛び降りた。

 橋上から水面までは十メートルもない。数秒の間もなく一瞬で水面に叩きつけられる筈だった。

 落下してから、九十九はただ叫び続けていた。九十九を強く抱える累の腕の温かさだけを感じながら。

 間もなく二人の身体が水面に接しようとした時、大きな水音を立てて何かが横から彼らの身体をすくった。

 それとぶつかった時、痛みはあまり感じなかった。それに生える黒い毛と、その毛に覆われた肉がクッションとなって衝撃を吸収した。

 二人が乗っている下に絨毯の様に敷かれた毛は、きらきらと光るほど光沢がある綺麗な黒毛で、ふんわりと柔らかく身体を包み込む。それには体温が感じられるが、その体温は温かいというよりはじんわりと熱い。二人の人間を乗せている事からかなり大型の動物である事が分かった。

「……」

「……」

 累と九十九は何が起きたのか分からず、顔を見合わせた。二人とも表情はなく、口をポカンと開けて間抜け面である。

 その動物は、二人を乗せたまま一瞬動きを止めたが、すぐに飛ぶように動き出した。

 墨田区側の隅田川沿いの道。首都高速の高架下へとふわりと降り立つ。その動作は余りに優雅だった。四本の足を折り畳み、二人に降りるようにうながす。

 地面に着地してから改めて二人を救った英雄を見た。

 突き出した鼻。ピンと突き立つ耳。犬だ。大きいなんてもんじゃない。体長は五メートル以上あるだろうか。体高を含めると圧倒的な大きさだ。そんな大きな犬の優し気な瞳と目があった。

 累も続いて降りると、圧倒される九十九をよそに犬の黒毛を労うように撫でた。

「ありがとう」

 累は、一言そう言うと一歩下がった。犬は立ち上がり、大きな身体を震わせると上空へ飛び上がった。夜空へ躍り出ると、暗闇に溶け込むように、その姿はすぐに消えた。

 九十九は、犬が消えた後も空をしばらく眺めていた。分厚い雲が広がっているのか、空一面に暗闇が覆う。

「……九十九……」

 累の声がして、彼女の方へ振り向く。片膝をついてうずくまっている。すぐに傍に駆け寄った。

「ちょっ、おい!大丈夫かよっ」

「いや……すまない……少し、疲れた……」

 そう言うと累は、倒れこんでしまった。

「うえっ!?おいおーい、累!累さーん?」

 肩を揺すって呼び掛けるも応答はない。しかし、息はしているようで、その肩は上下していた。気を失ってしまったようだ。

「はぁ……マジかよ……」

 九十九は、累の寝顔を呆然と見て、暫し立ち尽くす。

 とにかく、このまま放ってはおけない。気付くと、車の走行音が吾妻橋の方から聞こえ、橋の方を見遣ると街灯に照らされて大型トラックが走っている。深夜なので人の姿は見えないものの、少なくとも交通は元に戻っているようだ。朝になればいつも通りの浅草に戻っているだろう。

 累を放置すれば、警察の厄介になるのは分かり切っている。恐らく彼女はそうなった場合……刀を抜く気がする。躊躇わず確実に。九十九には、それが容易に想像出来てしまった。

「あぁ、くっそ、仕方ねえ」

 九十九は、累の上体を起こすと自らは背を向けた。両腕を肩に乗せてしっかり掴むと、累を背負うようにして立ち上がりおぶった。

 正直な事を言えば、九十九自身も気分は最悪だった。ガンガンと頭痛はするし、散々に走り過ぎて足も痛い。一度死に至った事実と、右手の事もあって精神的にも参っていた。何が何やら分からず、倒れてしまいたいのは自分の方だと声を大にして言いたいほどだ。

 それでも、結果的に彼女に守られた事は無視出来なかった。このまま放って帰るという選択肢は、端から考えていない。

 九十九は血の匂いを纏う累をしっかりと抱えて、ゆっくりと歩き出した。

    ◇

 累をおぶったまま何とか自宅へ辿り着いて玄関に入った所で力尽き、倒れこんで眠ってしまったようだった。

「九十九っ!服!それ血!?どうしたのよっ」

 狼狽ろうばいした様子でこちらを覗き込むのが姉のりつである。上下スウェット姿で、ロングの茶髪は静電気を帯びたように寝癖で広がっている。

(変身前か……)

 変身前とは律のメイク前の事を指していた。別に姉の事を不細工だとは思わないが、メイク前と後では印象が違いすぎて変身したとしか思えないのだ。

 そして、律の姿から今しがた起きたばかりであり、時刻は朝の七時前後である事が推察できた。

 ぼーっと無駄に冷静にそんな事を考えていると、頭部に平手が飛んできた。

「痛っ!いちいち叩くなよっ」

「あんたがぼーっとしてるからでしょ!怪我はないの?」

「え?あぁ、大丈夫だよ」

 もう一発、平手が飛んでくる。

「そんなわけないでしょうがバカ!その服の血は何!」

 九十九は、そう言われて自分の服を見ると、半袖のTシャツの広範囲が血で赤く染め上がっている。恐らく背中も脇差が突き刺さったので同様だろう。さらに穴まで空いて、見る者によっては卒倒すると思われる。

「いやー……これは……あの、赤のスプレーで……」

「は?」

「いや、ほら!壁にスプレーで絵描くやつな……最近ハマっててさ」

「……救急車、呼ぶわ」

 律はおもむろにスマートフォンを取り出した。

「だぁー!ほらっ、怪我なんかどこにもねぇから!スマホしまえ!」

 九十九は、証明するように上着をたくし上げた。なんとか通報を思いとどまらせる。

「本当に怪我は無いのね?……つまんない嘘つくんじゃないわよ、本当だったら警察突き出すから」

「……嘘だよ……ちょっと遊んでただけだ!」

「ふーん、女の子と一緒に?」

「あっ」

 律の視線は、玄関で未だ倒れている累に注がれていた。それからゆっくりと九十九を見る。その目は非難の色が浮かび、変身後の倍は見開かれていた。

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