第4話 佐々木累
時が静止したかのような空間で、九十九は言葉なく、ただ剣士を見つめていた。
やがて剣士はこちらに振り返った。九十九を見た剣士は、はっとした様子で九十九の元に駆け寄り片膝を突いた。
「なんと、怪我を……大事無いか?」
剣士が注目していたのは九十九の服。胸の辺りが出血によって赤く塗れていた。
手が届く距離まで近づいてきた剣士の顔を見て、九十九の視線は吸い込まれた。
美しくすっと伸びた
荘厳な雰囲気を纏っているものの彼女の中には、それとは違った本質が隠れているような気がした。
九十九は目の前の女性にどうしようもなく惹きつけられてしまっていた。
「おい……おい!」
呼び掛ける声に我に返った。女性は、
「あ、あぁ。大丈夫だ。問題ない」
「何を言う。無事なわけないだろう。これだけ血を流して、死んでいてもおかしくないんだぞ」
「いや、大丈夫だって。全然痛みもないし」
「いいからっ、見せてみろ。ほれ」
女性が九十九の上着をたくし上げようとシャツの裾を掴んだ。
「うおいっ!?やめろっ、大丈夫だって!」
「こら、抵抗するな!それにしても何とも珍妙な着物だな……このっ、ええいっ!」
女性が力を籠めると、シャツは一気に捲り上がった。
抵抗むなしく、九十九の上半身は露になる。しかしその肌は綺麗なもので、裂傷どころか掠り傷一つ無かった。
女性は、きょとんとして不思議そうに九十九の肌をペタペタと触りだした。
「本当に何ともないな……」
「だから言っただろ……もういいって!」
女性の手を払って捲れたシャツを直した。彼女の手の冷たさが肌に残る。
「しかしその血は……」
「うん、まぁ気にしなくていいよ。ところで……あんたは?」
九十九は、乱れた衣服を正しながら立ち上がり、名を聞いた。
自身に起きたことの詳細を説明する気にはなれなかった。説明したところで信じてもらえるとも思えない。
「あぁ、まだ名乗っていなかったな」
目の前の女性は、すっと立ち上がると九十九を見据えて答えた。
「私は……累――佐々木累だ」
互いの目が合う。
星をばらまいたような瞳の虹彩に九十九の視線は吸い込まれる。
背丈は、九十九より少し低いくらいで女性としては長身だろう。藤色の小袖に黒の
後ろで一本に纏めた長い黒髪が、柔らかな風に揺れ馬の尾の如くなびく。髪の結び目に、斜めに刺さった装飾が黒髪と相まって良く映えていた。
「佐々木……累……」
「そうだ。それでは君の名を聞こうか」
少し、口角が上がった様に見えたが気のせいだろうか。慇懃な受け答えに、不信感は生まれなかった。
「俺は阿原九十九」
「うむ、つくもか。宜しく頼む」
累は深々と頭を下げた。
「いえいえ、こちらこそ」
何故か九十九もつられてお辞儀してしまった。こんなに深々と頭を下げられた事はあまり記憶にない。
累は向き直ると表情を引き締めた。
「怪我が無さそうでなによりだ。して、九十九よ。二、三聞いてもいいか?」
「ん?あぁ。なんだ?」
「君は……何故あの二人に追われていたんだ?」
「えっと、あんたは……いや、佐々木さんはいきなり斬ったりしないよな?」
「いや、累で良い。さんもいらないぞ。あぁ、無暗に刀を抜いたりはしないよ」
累は微笑を浮かべた。
「……分かった。累なら話が出来そうだな。んーとな、いきなりあいつらが空から降ってきたんだよ」
「うむ、やはりか」
「突然空中に現れて……ってやはりっ?もしかして累もか!?」
「あぁ、そうだ。飛ばされてきたんだ。いや待て。君の話を先に聞きたい」
前のめりになる九十九を制して、累は先を促した。
「お、おう。少し話したんだが、全然話が嚙み合わなくて……で、あいつらこれを欲しがってたんだ」
九十九は右手に持っていたあの金属の謎の物体を累に見せた。
その時気付いたが、九十九の腕を侵食していた二重螺旋の跡は消えていた。
「……」
累は、右手を顎に左手を右肘に置いて、何やら考えているようだ。
「お、おい」
「開闢……」
「かいびゃく?」
「それをどこで?」
「あいつらが落ちてくる少し前に、同じように落ちてきたんだ」
累は口元を手で覆い、視線を落とし、思案を続けている。
「そうか……何故渡さなかった?素直に渡していれば、追われる事もなかっただろう」
「あぁ、そうなんだがな……」
今度は九十九が考え込んでしまう。
累の言う通り、さっさと渡してしまえば良かったのだ。今となっては何故そうしなかったのか、自分でも良く分からなかった。
ただ不思議な感情があった。九十九の心の中にもう一つ何かがいるような……。
「自分でも良く分からないんだ。何でか、あいつらには渡しちゃいけないような気がして……」
累の視線が九十九を射抜く。全てを見透かされているような心持ちになるが、嘘ではない。
萎縮しそうになるのを堪えて、負けじと強い視線を送る。
「……そうか。分かった。しかし、渡さないでいてくれて礼を言うよ」
「これが何か知ってるんだな?」
「これが何か……それ自体が何かは私にも分からない。だが、やつらが必要としているような、怪しい代物である事は確かだ」
「あいつら何だったんだよ?旗本なんとかって言ってなかったか?」
「いや、九十九。ここまでにしよう」
「え?」
累は九十九の疑問を遮り、橋の
「何もかもが違うな……」
「どうしたんだよ?」
しばらく隅田川を静かに眺めていたが、やがて振り返る。
「これ以上は君に難が及ぶ」
「おい、そんなもんもう……」
「死ぬかもしれないのだ。持っていても君に益はない。ここは、私を信用して渡してもらえないか」
懇願ではなかった。
その声色こそ穏和だが、有無を言わせぬ強制力を多分に含んでいる――そう思わせるだけの威圧感を感じた。
確かにこれ以上、持っている意味は無いかもしれない。それに、彼女ならおかしなことには使わないだろう。どうなろうが知った事ではないが、良からぬ事に使われるのは後味が悪い。
「分かった。これは累に任せるよ」
九十九は、微かに後ろ髪を引かれる思いを押し込めながら、累に右手を差し出した。
「ふふっ、いい子だ。有難う」
不意を突いたはっきりとした笑顔に、一瞬胸が高鳴った。女性特有の愛らしさが、ほんの少し垣間見えた気がした。
累が左手を伸ばし、掴んだ。
しかし持っている物ではなく、手首をがっしりと掴む。そのまま累の方へ身体を引かれた。
「どうわっ!」
累は、九十九のいた場所と入れ替わるように位置を変える。
九十九を背後に隠すようにして立ち、鯉口を切ると刀を真上に払うように勢い良く振り抜いた。
直後、キィンッという高い音が響く。程なくして橋上に何かが突き立った。
「なっ、なんだ!?」
手を引かれた九十九は、勢いを殺しきれずに地面に倒れ込んだ。
咄嗟に、累が刀で弾いた物に目をやる。それは小さな刃物だった。忠吉が九十九に投げ、累が忠吉に放った、脇差。
「る、累!」
「私の物だな……」
脇差は血に濡れていた。忠吉の血だ。累は脇差を拾うと袖で血を拭い、納刀した。
「何者だ」
此方に近づいてくる足音。
それは段々と近づき、やがて道路照明と月明かりに照らされ、その音が姿を見せた。
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