第2話 鼓動

「おい、逃がすな!」

 背後から二人の駆ける足音が聞こえる。九十九は、振り向かずにただひたすらに走った。

 捕まれば死ぬ。そもそも右手の物を渡そうが、どちらにせよ奴らは斬るだろう。どうにかして撒くしかない。

 九十九は雷門通りを隅田川に架かる吾妻橋方面へ走った。

「おらぁ、小僧ォ!」

「止まらねぇか!」

 二人がぎゃあぎゃあと怒号を飛ばしているが、最早その声すら掠れて聞こえる。口内は渇ききり喉が張り付く。

 極度の緊張状態のせいか思っている以上に体力が削られていたようで、余力はあと僅か。だが刀を降り降ろされた時に感じた死への恐怖。死にたくない。生への渇望が気力となって足を動かした。

 幸い追手の二人はさほど足が速くなかった。九十九の足で十分振り切れる。吾妻橋を越えてしまえば墨田区は庭だ。容易に撒く事が出来るはず。


「がぁ、はぁっ……ふぅ、うあっ」

 息を飲み無理やりに足を動かし、雷門通りをひた走る。

 相変わらず人や車の気配はなく、九十九と追手の侍しかいない異常な世界だった。異世界にでも迷い込んでしまったかのように錯覚するほどだ。

 九十九は右手の謎の物体を拾った事を後悔した。これを拾わなければ、おかしな侍に絡まれる事もなかった。この人々が消えた異常事態も、これのせいなのではないかと疑い始めている。現実逃避なのか、意外と思考はクリアで些末な事を考えていた。

 気付くと、吾妻橋の橋上を走っており中間地点に差し掛かっていた。逃げ切れる。そう思った時だった。


 身体に押された様な衝撃が走りつんのめる。踏ん張り切れずに、走る勢いのまま倒れ込んだ。何が起こったのか理解する前に痛みが襲った。

「くっ、いっつ……」

 鋭い痛みに顔を歪めた。鼓動がさらに速まる。

 左の肩に違和感を感じ、恐る恐る顔を向けた。確認すると刀が突き刺さっていた。弥七が使った長い刀ではなく短刀。脇差である。

「はははっ、どうじゃ。上手いもんじゃろう」

「何をはしゃいでおるんじゃ。餓鬼か」

 忠吉のはしゃぎ声が聞こえた。どうやら忠吉が脇差を投擲したらしい。それが丁度肩に刺さったのだ。

 二人は走るのをやめ、喋りながらこちらに近づいてくる。

 九十九は、それでも逃れようと身を捩り芋虫のように這う。橋上の照明に血が照らされ、鮮やかな軌跡を描いていた。

 九十九の元まできた忠吉は九十九の背中を踏みつけ、刺さった脇差を引き抜いた。

「ぐあぁっ!」

「はひっひっひっ、見事に刺さったのう」

 下卑た声でニタニタと嗤い、九十九の身体を正面に向けるように蹴り上げた。

「……痛ってぇじゃねぇかよっ……クソ野郎っ」

 刺された事による痛みと殺されるかもしれない恐怖よりも、忠吉の癇に障る笑い声に怒りを覚えた。生殺与奪を握り高揚している異常者の声は、頭蓋を縦横無尽に跳ね回り神経を逆撫でた。

 どうせ結果は同じだ。泣き叫び命乞いをするのはらしくない。


「おうおう、痛そうじゃのぅ」

 口角を釣りあげて九十九の顔を覗き込む忠吉。

 九十九は、アドレナリンと怒りの感情で痛覚を隅に追いやりながら、眉間一杯に皺を寄せ忠吉を睨み付けた。

「まだ死んでねぇぞっ……しっかり狙えよ、下手糞が……ぐぅっ」

「随分ほざくじゃねえか。顔は真っ青だけどよう」

 そう言うと忠吉は、上体を反って一際大きく笑った。その声が脳を揺らし頭痛が襲う。さらに出血のせいか目が霞んだ。

「さて、そろそろ刻限じゃ。頭も探さにゃならんしのう。それは貰ってくぞ」

「渡すかよっ」

 忠吉が右手に手を伸ばしそれを掴んだ。だが、そう易々と渡す気はない。悪あがきだろうが抵抗せずにはいられなかった。離すまいと右手にぐっと力を籠め抗う。

「くっ、てめっ、離さんか」

 忠吉の拳が顔面にぶつかる。二度、三度と殴打を食らい皮膚が裂け血が吹き出すも九十九は力を緩めない。


「この糞餓鬼がっ」

「もういい、忠吉。どけ」

 忠吉の肩を掴み、押しのけた弥七。その右手には刀が握られていた。

「逝ねや」

 刀を逆手に持ち替え、忠吉は真下へ向かって突き刺した。

 その瞬間九十九の聴覚は機能を失った。先ほどまでの鼓動の音さえも消え、静寂が支配する。

 恐らく心臓を貫かれている。しかし痛みは一瞬で、痛覚すらも失ったようだ。視界も徐々に薄れ、じき暗闇に包まれた。身体は脱力してその運動機能を停止した。

 そして、残るは意識。死に際して意識は、多少肉体に残留するのだろうか。だとしてもこの意識もすぐに消えて無くなるだろう。不思議とあれほどあった恐怖は消えていたのが、せめてもの救いだった。

(これが死ぬって事か)

 九十九の意識は凪ぎ、平静に命が消えるのを待った。

 その時微かに身体の末端が震えたのに気付いた。一つ、また一つと五感が失われていく中、触覚だけが僅かに残り、皮膚にその感覚を伝えていた。

 囁きかけるような鼓動を。

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