第2章 第4話
ジェードは生まれて初めて知ったのだが、新任教師というのは、四月に体育館で、生徒を集めたその前に立ち、自己紹介をするのだそうだ。
いきなり面倒臭いことになったな、と溜息が漏れてしまう。
今回のウヴァロヴァイトの指示の内容を思うと、矢張り、ジェードが偽の教師である事実は、バレない方がよさそうなのだが――そんな大勢の前で、上手く演じられる自信が無かった。
同僚たちは何も疑っていないのだろうか、平然と職員室に通され、担当となるクラスの名簿やその他の資料を受け取って、席についてしまったが。
「俺の担当は、小学部の六年一組か……」
小学校の六年生って何歳だっけ、なんて、いまだに考えてしまう。それくらいジェードは教育に対して無知だ。
せめて、六花美織は別のクラスだと良いな、クンツァイトが担当するクラス、三組だったか、その中にいれば良い、と願わざるを得ない。仕事は楽な方が良い。
「ジェード先生、そろそろ体育館へ来てください」
声を掛けられて顔を上げる。何処かクラスの担任教師だろう。全く知らない顔だが、相手はもう、此方の名前を憶えているらしい。凄いなぁ、教師と言うのは頭が良いのだ。
体育館に案内され、扉を開くと、むわっと子供の汗っぽい香りと、ひそひそ声が溢れかえって来た。どうやら、会が始まるまで、束の間のお喋りということのようだ。
この後、ウヴァロヴァイトの商品にされるなんて、露ほども思っていないのだろう。
そう言えば、自分がこの年頃の時代、何をしていたか、ジェードは壇に近づくように歩きながら、思い返していた。笑った覚えなんてない。ただ、いつも腹を空かせて、あとは夜を恐れていた。夜になって眠っているとこの世で一番怖い物がやって来るから。
それはただの酔った父であったが、当時の幼い自分にとっては充分に力の強い相手だった。繋がれた小象が逃亡を諦めるように、ジェードも諦めの境地に達した。
ジェードを奮い立たせたのは兄弟の存在だった。
ジェードは、自分に助けを求めてきた幼い弟や妹の手を思い出す。あの小さな紅葉のような手。それから、自分の手を見た。
自分は彼らの為にこの手を汚した。
そして、その感情はやがて、救いようのない嫉妬となって――つまりは、兄弟ばかりが美しい手を保ちながら生きていることを疎ましく思うようになり、ジェードは、やっと手に入れかけた大切なものを全て自分で壊してしまったのだ。
幸せになれる筈だったのに――
今、ジェードは一人である。
毎日とても身軽で生きやすい。
孤独で狂ってしまうかと思ったら、全然そんな気配も無く、のうのうと元気に生きているのだ。
ただ、誰かのために生きるなんて、本当にクソ食らえだな、と強く思うようになった。
「見て、あの先生……」
子供たちの声が己を指していることにジェードが気づいたのは、その上品な制服を着た少女らが、自分の顔を指さしていたからだ。
ジェードは髪で隠しているその下に、大きな傷がある。勿論、それは手を汚した時より、ずっと前についた傷だ。傷そのものはもう痛くもかゆくも無いが、思い出したくすら無いので、傷を得た日から鏡は見ていない。子供たちには、その傷が見えているので、恐ろしがっているようだ。
呑気に生きている子供に、ますます腹が立つ瞬間だった。お前達が恐れるべきは、顔の傷なんかじゃ無く、もう直ぐ其処に迫っている命の危険だろうに。平穏に生きている人間には、全く危機感と言う物が無いのだ。
「では、新しい校長先生から御挨拶をいただきます。校長、前へ」
前へ、の合図で、梯子のような貧相な階段を上がって来る者がいるのかと思いきや、緞帳が上がった。
緞帳が上がった奥に座っていたのは、ウヴァロヴァイトだった。
薄い度の眼鏡に、ライオンの鬣じみたアッシュの髪。そして、金と銀で派手に彩られた椅子に身体を預け、チュロスを食べている。もぐもぐと口を動かして生徒たちを見下ろしているのだ。
「こ、校長」
周りを取り巻く教師たちが一生懸命にチュロスを離すよう、または起立をするよう、手と困惑極まる表情で促すが、ウヴァロヴァイトは全く動じず、じっと子供たちを睨んでいる。
ややあって、口の端についたチュロスの欠片を、真っ赤なベロを伸ばしてべろりと舐め取ると、やっとマイクを部下の若手の女性に持って来させ、持たせたまま口を開いた。
「今日からこの学園の教師たち、つまりこの学園のプライドの頂点に立った、ウヴァロヴァイトだ。お前たちの命は私のものになった」
子供たちのざわめきが大きくなる。
各々、恐がっているというよりは、このおかしなお兄さん誰だろう、という不審者を見る目だった。
「私はこうして、立ち上がることもできないが、お前たちの命を紙よりも軽く扱うことが出来る。なぜなら、私たち教師がライオンならば、お前たち生徒はシマウマだからだ――ライオンは、シマウマの群れを前に、先ず子供を狙う」
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