追い詰められる旦那様

「あぁ、すまない。違うのだ。もう二度と大声は出さまいと決めておきながら……すぐに約束を違う情けない俺で申し訳ない。今度こそ、本当に、二度と大声は出さぬようにするから──」


 謝らないようにしようと決めた約束すら、どちらもすぐに破ってしまう夫婦である。

 レオンの謝罪など、今さらのことだった。


 ガシガシと頭を掻いて詫び始めたレオンに、オリヴィアは呆気に取られていたようで、カップに両手を添えた状態のまま、しばらくはレオンを凝視した。


 おかげで怯えの色は鳴りを顰め、レオンは安堵したが、やはり大きな声に対する条件反射……と思えば、レオンの内にちりちりと怒りの炎が灯っていく。


 それは正当な怒りに違いないが、この場に限っては現実逃避であることには、レオンはまだ気付けなかった。



 やがて驚きから正気に戻ったように見えたオリヴィアが、いつもの謝罪も忘れ、レオンに問い掛ける。


「旦那様の真実愛する御方は、愛妾様ではないということでしょうか?」


 夫の愛妾に敬称を付けて呼ぶ妻は、この世にどれだけあろうか。


 などと、レオンは冷静にオリヴィアの言葉を受け止めて、疑問を呈する。

 まるで自分のことではないように、冷えきった感情がレオンを支配していたからだ。


 だがレオンは、冷静さを装っているだけで、とても正気ではなかったのであろう。

 まず否定しなければならなかったはずが、何故か疑問を口にしていたのだから。



「仮にオリヴィアの言葉通りだとして、その空想上の人物はどんな立場の者になるというのだ?」


 オリヴィアはカップから手を離すと、真剣さを示すように片手を頬に置いては考え込んだ。


「たとえば……愛妾様に出来ない高貴な御方……ではなく、高貴な御方のお相手……でしょうか?旦那様ほど身分の高い御方が愛妾様に出来ないとすれば……それとも離縁のときを待っていらっしゃるから今はまだ恋人?……ということも……」


 何故聞いてしまったのだろう。

 レオンの後悔はいつもながら遅かった。


 こんなことだから、愚者にさえ付け入れられる。



「オリヴィア」


 夫に名を呼ばれただけであるのに、オリヴィアは真っ青な顔をして、急ぎ頭を下げるのだった。

 オリヴィアにその気はなくも、レオンの心を抉る言動に容赦がない。


「ごめんなさい。旦那様の大事な御方に対して、大変失礼な物言いをしてしまいました。心よりお詫び申し上げます。約束通り私などと結婚してくださったのに、さらに失礼を重ねるなんて……本当に申し訳ありません」


 覇気を失ったレオンの顔が土気色をしている。


 知りたくなかった妻の真実は、どんなに見ぬようにしてもレオンにそれを意識させ、すると何故か、レオンは今日の疲れをどっと取り戻してしまった。


 レオンは今や、体中に重石を課せられ、地下室に放り込まれた気分だ。


 そういえばあの侍女は、最初こそうるさく喚いていたが、今頃はどうしているだろう。

 一瞬でも忘れていたいものが頭に過ったことで、レオンの気はさらに重くなっていく。


 それでも今は逃げられない。目の前の妻をどうにかしなければ……。


 だがその先で、レオンがさらに心を抉られることは分かり切っていた。

 もう無視出来ないそれは、レオンをじりじりと暗い深淵に追い詰めていく。



 レオンは努めて冷静に、それからなるべく穏やかな声色を選んで、オリヴィアに語り掛けた。


「存在せぬ者に謝ることはないが。まずはその、俺に愛する者がいるという前提で話すことはやめにしようか」


「え?ですが……」


「それが侍女らの妄言だったと言っているんだ。俺にそんな相手はいない。過去にいたこともない。本当にいないのだから、その前提でこれ以上話をしても無駄なことだぞ」


 これはこれで言葉選びを間違えていることに、レオンはまだ気付いていなかった。

 直後には妻によって気付かされることになるのだけれど。


 始まるはずだったレオンの快進撃は、一歩目にして躓いたことで、先に進むまでにはまだ少し時が掛かりそうである。





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