第3話 君のナハ、ナワ?
中学の社会教師・野呂(のろ)先生はとても変わっていた。千里達の最初の授業を作文を書く時間にし、テーマは生徒に提案させたのだ。最初聞いた時千里は「国語じゃあるまいし、マジかよ…」と思った。が、「身近な物の経緯」という条件を聞いて先生が本気だと分かり、大き目の学ランの下で汗をかいた。少しだけ開けてある窓から、桜の花びらが入って来る。市の地名の起こり、学校の変遷等の案が出た後、天音が「自分の名前の由来」と言った。面白そうなのでこれに決まった。残りの時間で書き、次の火曜日に先生が選んだ一人が発表する。
一週間が経った。歴史の時間が始まる前に千里は
「なぁ、誰が読むと思う?」
と天音に尋ねた。同じクラスになれて嬉しい。
「僕ではないよな。テーマを提案した人選んだら不公平だろ」
そうだなと応じたら、後ろから声がした。
「僕は島君だと思う。千里君って名前だよね。一瀉千里(いっしゃせんり)って四字熟語があるんだ」
「おー、引地君物知りだね」
天音に言われて、引地君は照れた。彼は休み時間の度に合唱団の話をしていた千里と天音が気になっているらしく、時々こうして話し掛けてきていた。チャイムが鳴った。千里はまた昼休みになと言って自分の席に戻った。
起立、気を付け、礼。皆が椅子を引く音に混じって、野呂先生が問う声がする。
「発表するのは誰だと思う?」
引地君が手を挙げる。先生が指す。
「島君だと思います。島君は千里という名前なんです。一瀉千里という熟語があるから作文が得意なのではないでしょうか?」
野呂先生は、なるほどと言って黒板に一瀉千里と書いた。
「聞いたことがある人は手を上げて」
半分より少し多い手が上がった。自分の名前が入った熟語を知っている人の数に千里はドキドキした。
「割りと知られていますね。言葉や文章が淀みなく出て来るという意味です。が」
と、先生はわざとここで言葉を切って千里の方へ顔を向けた。
「そんな良い意味を持っている熟語があるのに、島くんが作文に書いたのは『悪事千里を走る』という言葉でした。確かに悪い事をしたらすぐに広まります。そして、悪い事をしないようにしようという島君の心掛けは立派です。でも、中学に入ったばかりの君達にはもっと明るい文を書いて欲しかった」
先生はまた中央に向き直った。
「そこで選んだのが、引地君の作文です。では、読んでもらいましょう」
皆がおーっ等と声を上げ、引地君が立ち上がった。
僕の名前 1年A組 引地 和夢
僕の名前は、平和の和に夢と書いてなごむといいます。珍しいでしょう?父が付けました。父はその父さんから、戦争で亡くなったそのまた父さんの話を聞いていました。だから、兄が生まれた時平和の平の字が付く名前にしたかったそうです。母も賛成して、兄は将平(しょうへい)となりました。将来は平和にという意味です。兄はこの名前が気に入っていて、将平の将は王将の将と言いながら、将棋道場の講師を目指しています。
僕が生まれた時「和」という字を使う案が出ました。合わせて平和。兄弟仲良くして欲しいという願いと、もう一つ日本という意味です。母方の祖母が着付けの先生なので、名前の漢字に取り入れたかったそうです。皆に望まれて生まれて来たという思いも込めて。僕は時々「わむ」と読まれてしまうけれど、この名前が好きです。音も可愛らしいし。
中学に入って、名前で発見がありました。最近話すようになった崎元君の名前が、天音なんです。僕の名前と組み合わせると「わおん」です。協力すると凄いことが起こりそうな予感がします。
僕は、崎元君とも他のクラスメイトとも仲良くしたいです。崎元君、皆さん、一年間宜しくお願いします。
読み終わった瞬間、拍手が起きた。感激したのか涙ぐんでいる女生徒までいる。千里は、これからはできるだけ明るい文を書こうと決めた。
野呂先生がまとめた。
「前向きで素敵な作文でしたね。皆さんも調べていて分かったかと思いますが、どんな物にも歴史があります。次の授業から順番に学んでゆきますよ。一年間宜しくお願いしますね」
その日から、3人で昼食を食べ始めた。引地君はニコニコして下の名前で呼んで欲しいと言い出した。2人も何だかそれが自然に思えていた。
火曜日は合唱団の練習がなかった。3人で下校していたらいつの間にか家族の名前の話になっていた。千里が、うちは父さんが一(壱)、母さんが十、妹が百、自分が千。でも、数学が得意な人はゼロと言ったら和夢が笑った。天音はやっぱり千里は自虐気味だなと呆れた。和夢は、面白い漫才の脚本が書けるはずだよと言った。
3人が気になったのは、天音の兄の名だ。天音は父・天(たかし)と母・美音子(みねこ)の名から来ているが、兄・卓人(たかひと)は父から音のみもらっただけだ。何故兄弟で差があるのか?それに、兄の名が「たくと」と読めることが気になった。タクト、つまり指揮棒だ。兄が指揮者になりたがっているのはこの名前の影響ではないかと天音は思っていた。兄を声楽家として育てたかったら、もっと別の名を付けていたのでは?兄とは10歳離れている。僕が生まれる前に何かあったのだろうか。天音が作文のテーマとして名前を思い付いたのは、そのことを突き詰めて考えたかったからかも知れない。
そんなことを話し合っていたら和夢が千里と天音に、お互いの家で遊んだことがあるかと聞いた。天音が、天に頼まれて千里を連れ帰ったことを言うと
「そうなんだ。僕も行ってみたいな」
と言い出した。いたずらっぽく目が光る。
「何か企んでいないか?」
と、千里が念のために尋ねると話し始めた。
和夢が思い付いたのは、自分の名前の由来を家族に聞く宿題が出た振りをすることだ。和夢は天に、僕達兄弟はつなげると平和になる。戦争で誰か死んだのかも知れなくて聞くのが怖い。大人はどう聞かれると答え易いですかと相談するつもりらしい。それをきっかけに、天が兄弟の名を付けた経緯を聞き出す作戦だ。天音には内緒にしてくれよと言われるかも知れないが。確かに、自分の子供に面と向かって聞かれるより答え易いだろう。
他に案が浮かばなかったので、和夢が親戚からの頂き物をお裾分けしに来たという形で遊びに行くことが決まった。合唱団が無く天が家にいる日に。
木曜日の合唱の練習が終わって、天音は
「和夢君、待っていてくれて有り難う。父さんが好きな物が分かった」
と言った。千里は来月に出回る物で良かったと思った。その日の夕方、天は天音の新しい友達が来月初日に自分の好物を持ってやって来ると知り形相を崩した。それが、過去と向き合うきっかけになるとは知らずに。
学ランを来た3人の少年が、白くて大きな家の前に立っていた。一番後ろにいる和夢が緊張しているのを察した千里は、わざと少し大き目の声で言った。
「良かったぁ。バラが咲いているよ!」
「綺麗でしょ。母さんは花を育てるのが得意なんだ」
家の中に聞こえるように天音も調子を合わせる。白いアーチ型の門に桃色のバラが絡まっていて、その内の数個が開いている。千里は無邪気に言った。
「ねぇ、匂いを嗅いでもいい?」
「いいよ。棘に気を付けてね。和夢君もどうぞ」
急に振られた和夢は首をピクリとさせたが、千里と天音のうっとりとした表情を見てそっと顔を近付けた。本当にとろけそうな香りだ。気持ちが落ち着いたところで、天音が玄関のベルを押した。
天音の母・美音子は、藤色のスラックスを履いていた。一目で上質だとわかる生地だ。千里が
「今の時季にピッタリな色ですね」
と言うと、照れた様に天を呼びに行った。
天の姿が見えると、和夢が一礼した。
「初めまして。引地和夢と申します。天音さんと島君とは同じ組で仲良くさせて頂いています」
「天音の父です。息子と仲良くして下さり有り難うございます」
和夢は、白い肩掛け鞄から小包の様な物を出して天に差し出した。
「昨日、親戚から沢山届きましたので、お裾分けにとお持ちしました」
かすかに、目の前に緑が広がっているような香りがしてきた。
「これはご丁寧に。良い香りがしてきますね」
「狭山茶です」
「そうですか。埼玉県の名産品ですよね?一度飲んでみたかったんですよ。有り難うございます」
天が合図をすると、美音子は頷いてお茶の包を持って姿を消した。
4人は応接間に移って会話を続けた。最初は天音の学校での様子を話した。和夢が、ある女生徒が天音の窓の拭き方が丁寧だとほめたことを言うと、天は目を見開いて喜んだ。お茶を運んで来た美音子も笑っていた。5人共、狭山茶が気に入った。美音子は
「美味しかったから、もう一踏ん張りできるわ」
と庭に行った。和夢は持って来て良かったと思った。
天の外国での失敗談に皆が大笑いした後、和夢が思い切って言った。
「僕、おじさんに相談があるんです」
いよいよだなと察した千里がさり気なく援護。
「もしかして、歴史の宿題のこと?」
「そうです。大人の人にしか出来ない相談なんです」
和夢は、すがるようにじっと天を見詰める。
「父さん、協力してあげて」
天音も言った。天はピンと来た。もしかしたら、同級生に聞かれたくないかも知れない。
「分かった。話を聞くよ。天音、千里君、暗くならない内にひまわりの様子を見てきてご覧」
上手くいった。千里と天音は
「有り難うございます。そうします」
と言って庭に向かった。廊下で和夢の声を聞いた。
「自分の名前の由来を聞いて、作文を書くという宿題がでたんですけれど…」
庭に出ると美音子が雑草を抜いていた。千里が
「手伝いましょうか?」
と声を掛けると
「ひまわりの様子を見に来たんでしょう?じゃあ、その周辺だけ宜しく」
と言われた。
「はい。スケッチブックにまとめたらまた来ます」
と答えてひまわりの花壇に向かった。天音が夏休みの自由研究用に育て始めたのだが、1本だけ別では寂しいので千里の分も移してもらった。以来、遊びに来る度にスケッチブックにその時々の様子を絵と文で書き留めてきた。
2人で15分程草取りをした。汗をかいた。気持ち良い汗だった。ひまわりは、縄跳びで飛ぶ位の高さになっていた。これから、中学最初の夏休みに向かってグングン伸びてゆくんだな。楽しみだ。
応接間に戻る前に美音子の様子を見ると、草取りを終えて空を眺めていた。
和夢の話を聞いて天は
「そうか。君の気持ちは分かる。命に関わる重い話だ。だが、向き合う良い機会だよ。」
と言った。和夢は沈痛な表情を浮かべた。
「そうですよね。なるべく家族に辛い思いをさせない聞き方はありませんか?」
「宿題なので協力して欲しいと、素直に言う事だ」
「分かりました」
「安心してくれ。君の家族だけじゃない」
天はそう前置きして、卓人の名前の由来を語った。
天は父を早くに亡くし音楽の道を諦めようとしていた。そんな時、道に落ちていた定期券入れを交番に届けた。中にはパスポートも入っていたそうだ。持ち主の音楽家は大変喜んで、お礼に学費を負担してくれた。だが、その人が跡継ぎを探している声楽家だったので、指揮者になりたいと言えなかった。息子が生まれた時、この子を指揮者にと卓人と名付けた。が、恩人が卓人を可愛がってくれたのでやはり声楽家にさせるのが筋だと思って育ててきた。恩人が死去した今、卓人本人の希望を聞き出す機会を逸して悩んでいるらしい。
和夢は聞き出せて嬉しい反面、気まずかった。
「そうでしたか。辛いお話をさせてしまったのでは?済みません。切り出す協力をしましょうか?」
「いや、気にしないでくれ。話して楽になったよ」
「僕、家族に思い切って聞きます」
「私も、卓人と向き合ってみるよ」
「2人切りにさせて下さり有り難うございました」
「こちらこそ」
2人が握手した手を離すと、千里達が戻って来た。
「和夢君、落ち着いたかい?」
「うん。時間をくれて有り難う。ひまわりは?」
「帰り際に一緒に見よう」
「それがいい、親戚の方にお礼をお伝え下さい」
「はい、気に入ってくれたとも伝えます」
「お邪魔しました。また、来ます」
帰り際ひまわりを見ると3本に増えていた。しかも、正三角形の形に並んでいる。
「気に入ってくれたかな?三角形って丈夫な形なのよ。3人の友情が続くように私からのエール」
いつの間にか、後ろに美音子がいた。
「有り難うございます」
「母さん有り難う」
「気に入りました」
「僕達ずっと仲良しでいます」
「ご馳走様でした。また、2人で来ます」
「じゃあ、学校でな。気を付けて」
分かれ際、千里は和夢にお茶のお礼をし、肩を小突きながらこう言った。
「ひまわり、下駄を履かせてもらってズルいぞ」
千里が家に帰ると、百代がアニメを見ていた。ランダムだ。月が写っているので前回の再放送だろうか。いくら好きでも、同じ話を2回見るなんて珍しいなと思いながら一緒に見ていた。すると、2点違う箇所に気付いた。うさぎの姿勢と持ち物だ。先週一緒に見た時は4本足で何も持たずに飛んでいたが、このアニメでは2本足で縄跳びを持っている。アニメが終わって何故か尋ねると、飯綱のお姉さんの友達が授業で作ったからだという。美雪お姉さんはアニメの専門学校に通っている。そこでの友達・有働さんは好きな作品を脚色する課題にランダムを選び、飯綱さんを通して百代に視聴を依頼したらしい。明日の牛乳当番のついでにDVDを返すので、始めから見たいなら今日中に見終えてねと言われたが、チラッと見たのでもう良かった。百代は、そうと言って感想を書く欄に鉛筆を走らせた。
次の日の昼休み千里は音楽室で天音と和夢の話に耳を傾けた。名前の意味は天音の予想通りだった。
「父さん、指揮者になりたかったんだ…」
天音の声は、もしも自分が声楽家を諦めざるを得なかったとしたらと言っているように聞こえた。将来の夢が特に無い千里と和夢には分かりにくい気持ちだが。
「問題は、兄さんが指揮者になりたがっていることを父さんにどう伝えるかだよ」
天音がそう言った時、戸が開いて瀬越先生が入って来た。合唱団を指導している。
「休み時間にも練習とは関心、関心」
そして、和夢に気付くと
「おや、君は誰だい?」
「引地和夢と言います。同じクラスの友人です」
「そうかい。合唱団に入団希望ならテストするよ」
「いえ、そうでは。お邪魔しました」
和夢が部屋を出ようとすると
「いや、実は団のまとめ役が受験対策で抜けてしまってね。一人探していたんだ。入らないか?」
「急に困ります」
「一曲、ア・カペラで頼む」
無茶振りをされた和夢は
「屁をこきましたね、あな〜たぁ〜」
と、下ネタで逃げようとした。ところが、出たのは良く響く綺麗な声だ。汚い歌詞が勿体ない位の。
更に驚いたことに、その時和夢はお腹から声を出して歌うことの快さに目覚めてしまった。こうして、和夢も合唱団に入団し、千里や天音と一緒に時々貴羽子のカラオケ・ボックスに通うようになった。
和夢が入団して初めての日曜日、仲良し3人組はカラオケ・ボックスで入団祝をしていた。皆で楽しく歌ってそろそろ1時間という時、トイレから戻って来た千里が幽霊でも見た様な顔をしていた。どうしたのか尋ねると、途中の部屋で口をパクパクさせながら手を振り回している20代位の男性がいたらしい。切りが良かったし3人は帰った。
怖い思いをした千里とは対象的に、百代ははしゃいでいた。先日書いたアニメの感想を喜んだ有働さんが会いに来てくれ、目の前でランダムや月のうさぎを描いてくれたそうだ。美雪お姉さんと有働さんの知り合い・香椎さんも来ていて3Dメガネを貸してくれた。掛けてアニメを見たら夢の様だった。秋祭りでまた会うんだと、楽しみにしている。
ところが、翌日の朝礼で百代の願いは叶わないことが分かった。昨年のインフルエンザ対策と治療で市が財政難に陥り、毎年行っていた秋祭りが中止になったのだ。代わりに夏休みに市民文化祭が行われるが、百代は落胆した。
文化祭は、日頃芸術に携わる者達の発表の場という名目で、夏休みに中学校で行われることになった。驚いたが、千里達の学校の前身は劇場だったらしい。どんな物にも歴史がある、という野呂先生の言葉が蘇る。瀬越先生は、文化活動の中心的存在とばかりに合唱団の練習を厳しくした。和夢が驚いて辞めようとしたのを、祖母が着物を贈ってなだめた。和夢はべそをかきながら、この着物を着て出たいと言い出した。民謡か演歌でも歌うのか…。
和夢の祖母の話を聞いて、百代が私も参加したいと言い出した。千里が最近英会話を聞き始めたのなら英語の歌にしたら?と冗談半分に言うのを真に受けドレミの歌などを練習し始めた。
その内、ただ歌うだけより映像等を組み合わせた方が文化の祭典らしくなるという意見が出て、有働さんのアニメに沿って合唱団と有志の面々が歌うことになった。演奏が有った方が良い部分は、瀬越先生がピアノを弾く。香椎さんは、百代に会った時感激された3Dメガネの改良に努めた。告知ポスターは、ランダムを描きなれている飯綱のお姉さんの担当だ。
一人、大切な縁の下の力持ちが欠けている。指揮者だ。天音は勇気を出して兄に合唱する曲目のリストを渡した。全部、カラオケ・ボックスで練習してきた曲だった。卓人は大丈夫だよと深く頷いた。
ポスターが街中に貼られ、歌も演奏もアニメもメガネも指揮も最後の調整に入った。
8月中旬最初の日、蝉の合唱が聞こえる街路樹を抜けて町内の殆どの人が中学校の体育館に入って来た。商店街は早目にお盆休みに入り、子供の活躍を見たい両親は仕事を調整して有給を取った。
壱朗は十和子とパイプ椅子にかけた。美雪が
「ご無沙汰しています。ご兄弟揃って出場おめでとうございます」
と、言いながらメガネを渡した。壱朗は受け取りながらこれはと尋ねた。美雪は自慢げに
「私の知人が作ったメガネです。平面の物が立体に見えるので、一番初めの歌が終わったらおかけ下さい」
と答えた。有働さんと香椎さんも同じ説明をしながらメガネを配っていた。そこに
「隣、いいかしら?」
と声をかけながら貴羽子が来た。3人組と卓人が自身のカラオケ・ボックスで練習した成果が気になるのだろう。
「もちろん、聴きに来てくれて有り難う」
「お礼を言うのは私の方よ。練習で使ってくれて」
「千里の父です。合唱団に合格したのは音無さんのお陰です。お礼が遅れて済みません。有り難うございました」
壱朗に深々と頭を下げられて貴羽子は面食らった。
「どういたしまして。こちらこそ廃業を回避できました。有り難うございます。今度親子でお越し下さい」
「はい、いつかは」
崎元夫婦も引地家も席に着いて、戸が閉められた。照明が落とされ、野呂先生の声が響く。
「皆様、本日は暑い中お越し頂き有り難うございます。この場所はかつて劇場でした。芸事の守り神様に喜んで頂けるよう、どの児童・生徒も精一杯努めますので、最後まで暖かく見守り下さい」
一礼すると拍手が聞こえた。壇上に後ろ向きに立っている人が、指揮棒を振って拍手を静めた。ピアノの音が聞こえて来る。瀬越先生だ。子供達は、ランダムの主題歌だと気付くと手拍子し始めた。千里・天音・和夢が歌い始める。
耳 すませ
目を見張れ
宇宙の声を聴き取るんだ
百代の声が混じり舞台にスクリーンが降りて来た。
忘れないで
忘れないよ
みんな みな宇宙の一員
歌が終わると、スクリーンにランダムが映し出された。座っている人全員がメガネをかける。
月が写った。縄跳びを持ったうさぎが2羽。元のアニメでは月の探索をもっと静かに行なってというのが願いだったが、このアニメでの願いは何だろう。1羽が尋ねる。
「君は、誰?」
スポット・ライトが和夢に当たった。スクリーンに向いて答える。
「僕は、和夢。つまり、アイム ナゴム」
ひまわり柄の着物を着て下駄を履いているのに、2個めのセリフが英語だ。吹き出す人もいた。
「君たちは?」
和夢が聞き返すと2羽声を揃えた
「ナワ」
「それは、君たちが持っている物だよね。君達の名前は?」
「私は、ナナ」
「私が、ワカ。2羽合わせて、ナワ」
ランダムがスケッチ・ブックを掲げた。「月では兄弟の名前を合わせて呼びます」ネリの字だ。
なるほど。ナナが尋ねた。
「ねぇ、地球ってどんなところ?」
和夢は大きく息を吸って答える。
「会津磐梯山は、宝のやぁまぁ、よぉ〜」
民謡の歌詞ではあるが、笹に黄金がなり下がると聞いたナワは、目をキラキラさせた。小原庄助さんの下りの手前で歌が止まった。声を合わせて言う。
「地球に行きたい!」
ナワは、一緒に跳ぶタイミングを合わせようとするが上手くいかない。縄を合わせ1本の長い縄にして飛ぼうとしても駄目だ。諦めようとした時、指揮棒を持った人が振り向いた。卓人だ!うさぎに呼びかける。
「ナワ、聞こえるかい?僕は、タクト。この棒だよ。これから棒に合わせて歌うから合図にしてね」
千里にライトが当たって、歌い始める。ナワは、歌に合わせて長い跳躍に備えて体をしならせてゆく。
う〜さぎ、うさぎ なにみて跳ねる
十五夜お〜つきさん みてはぁねぇ
るの1瞬前、卓人は机を叩く要領で指揮棒を斜めにピッと上げた、千里も音を短く切る。そして、ナワは縄を帆のようにして舞い上がった。
「わぁ〜」
客席から歓声が上がった。3Dメガネをかけているので、ナワが自分に向かって飛び込んで来るように見えるのだ。瀬越先生が、ロッド・スチュワートのセイリングを弾き始めた。卓人が百代に向かって、手の平を見せてから後ろに引いた。2回繰り返す。何かを入れ替えてというサインだろうか。百代は理解したように頷いて歌い始めた。
ナナ イズ セイリン〜
ワカ イズ セイリン〜
元の歌はアイアムだが、今宇宙の海を渡っているのは、ナナとワカだ。アニメに沿っている。
ハロー ジ・アァース
アクロス ザ スィー
ホーム・アゲインの部分も変えた。英会話をやっておいて良かった。
ナワ アー セェイリン
ストーミー ウォーター
ナワは2羽のことなのでアーとなる。実際に嵐の海の絵がスクリーンに現れた。有働さん、細やかだ。
トゥ ビー ニィア ユウ
トゥ ビー フリー
ナワが地球に到着し、ランダムとネリが迎えている。無事に兄妹による歌のリレーが完走できた。百代は、ポケットからハンカチを出してこっそり汗を拭った。
地球では、ナワの歓迎会が始まった。ランダムは両手を眉の様に曲げてナナとワカを撫でた。その間に、ネリはキャベツを用意してやっている。瀬越先生が可愛らしい曲を弾き始めた。卓人は踊るように指揮棒を振る。
そそら そらそら うっさぎのダンス
歌っているのは、天音だ。いつの間にかうさぎの耳を付けている。スクリーンに近付き、混じろうとして笑いをとった。後ろ向きで跳ねた時に尻尾が見えて子供が喜んだ。
うさぎ跳び競争、人参のおやつ等楽しい映像が流れた後、しんみり来る旋律が流れ始めた。故郷だ。卓人は、一番だけ自分で歌うと会場に呼び掛けた。
「今回の芸術祭にアニメや着付けや会場整備等でご協力頂いた皆さん、歌いませんか?」
呼び掛けに応じて、美雪姉さんの声が加わった。有働さん、香椎さん、和夢のおばあちゃんも。音無さんも小声で歌っていた。
ナワが月に帰る時が来た。今度は瀬越先生が会場に呼び掛けた。
「今日最後の曲になります。『怪獣のバラード』。ご存知の方はどなたでも一緒に歌いましょう」
老若男女入り混じり大合唱となった。普段頑固な表具屋のおじさんまで、童心に帰ったのか大きな口を開けて歌っている。ランダムは怪獣の様に口から光を出した。魔法のような時間だった。まるで、体育館自体が生きているような。海を見たがった、人を愛したがった怪獣は、地球に来たがったナワみたいだな。百代は、歌いながらそんなことを考えていた。
新学期を迎えた千里が最初に耳にした朗報は、天音が声楽家を目指すということだった。
翌年の4月、卓人は指揮科の大学院生になった。
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