愛しと乞うたら笑ってくれ

花山至

愛しと乞うたら笑ってくれ

九百九十九日目の夜が明けた。

今日、彼女が語りを終えたら、彼女の身柄を解放することになっている。

王は苦悩した。

好いてしまったのだ。流麗に、寝物語を聞かすだけの彼女に。

閨に入ることもないただの踊り子風情を。

それも自分の生き方を曲げて、賢王になろうと勤めるくらいには。


酒池肉林に溺れていたいつかが嘘の様に、善政を敷き、戦争も辞めた。

多少領地を支払ったには痛手だが、小さな問題だった。

王にとっての関心は踊り子だけだったのだ。

彼女にとってより良い男になる為に。彼女が惚れる男になる為に。

……千一夜目も彼女が側に侍ってくれる様に。

けれど、彼女が城を出て行くと言えば、王は止めようとも思わなかった。

初めて好きになった女の幸せを望むに千夜は充分過ぎる期間だった。

でも、最後に一人の男として縋ってみよう。恥も外聞もなく好きだと思いを伝えたら、あの踊り子は、シェヘラザードは何と言うだろうか。

あの綺麗な眉を困り眉にして、仕方がない人だと笑ってくれるだろうか。

公務に勤しみつつ、王は夜が待ち遠しくてならなかった。

それに彼女がくれる答えならどんなものでも、笑って受け入れられる気がしたのだ。

「きゃーーーーぁ‼︎」

劈く様な侍女の叫び声が城中に響き渡った。

書斎で重要書類に目を通していた王は、急にバタバタとうるさくなった城内に眉を顰めて、側仕えの執事に様子を見て来いと命じた。

執事は然程時間を取らず直ぐに帰ってくる。しかしその顔色は死人の様に青白く、ともすると今すぐ死んでしまいそうである。

常からポーカーフェイスの執事のそんな顔を内心笑いながら、王は尋ねる。

執事は、言いづらそうに唇を噛み締めるが、二度は言わないとの命に泣く泣く口を開いた。

「王に申し上げます。今し方、踊り子シェヘラザードが亡骸で見つかりました」

「は……」

王はその手をぴたりと止めて、執事の顔を食い入る様に見つめる。瞳孔が開きっぱなしの双眸は胸の内を見透かす様な魔力さえ感じられる。

尤も執事が居心地悪く思っている理由とは別だった。

執事、バルト・パメラックは長年王室に仕えて来た由緒正しい従者の家柄である。彼はそれこそ現王がよちよち歩きの頃から仕えている。

王の幼少から、愚王と渾名され、それを今懸命に立て直している最中まで彼ほど近くで見守って来た者も居ない。

どんなに愚かしい王になろうと見放さなかったのは単に沸いた情が成した技だった。

無辜の民草を平気で切り捨てていた王が費やした努力の時間を執事は知っていた。その立役者が一介の踊り子だとも。

遅い春が、王を人間の道に戻してくれた。

傀儡に成り下がることなく、今文机に向かっている王は国の行く末を考えられるまでになった。道のりは遠いだろうが、果てまで見ることが出来なくとも、王が賢王と呼ばれる為の手伝いをと思った矢先の事だった。



書斎を出て、慌しく走り回っている侍従の一人を捕まえると、男は踊り子の死を宣った。

嘘だろうと、バルトは全身の血が引いて行くのが分かった。

しかも詳しく聞くと、踊り子は嬲り殺しにされたと言う。目眩がした。

せめて病死であれば、どれ程良かったか。


この国を救ったと言って差し違えない女だったのに。


バルトは顔を覆った。ああそうだ。今夜は、丁度千夜目だ。


いっそこのまま死にたい。そう思うのも無理からぬ事象だった。


バルトの言葉を正しく呑み込んだ王は書類も纏っていたマントも投げ出して書斎を飛び出した。


「王!」


バルドの呼び声は静止にもならない。



王はその瞬間から全身が心臓になった。どくりどくりと血流の中の血液が暴れている。


タチの悪い嘘だと教えてくれ。お前だけは消えていかないでくれ。せめて、生きていてくれ。


最後の夜は、どんな話で俺の心を彩ってくれる?


なぁ、シェヘラザード。


王宮を兵士とメイドに紛れて駆け抜ける。呼び掛けの声には一切振り返らない。それよりも確かめねばならない事があるから。


シェヘラザードに充てがった部屋の前には幾人もの人間が詰め掛けていた。扉を占領して部屋の中を伺っている。


ざわりざわりと肌が泡立つ。生毛の先までどうしようもない思いを感じている。


王の姿を見とめた者は表情を歪め、首を垂れてその場に蹲った。


「そこを退け」



そこには冷や汗を垂れ流し、全てを射殺さんばかりの王が立っていた。メイド達は瞬時に一歩下がって王の道を譲る。見た事のない王だった。



王は段々と開けて行く道をゆっくり歩いて、シェヘラザードの部屋に入った。外の様子に気がついていた兵士が敬礼したが、王は意に介さず、赤い水溜りを拡げているベッドに足を向ける。


そこには白い布が掛けられた何かが横たわっている。じわりと滲み出す赤が鉄錆の匂いを発していた。それはいつからか嗅がなくなった匂いだった。

愛しい踊り子が嫌いだと言っていた匂いだった。

馬鹿で滑稽な王が愛の代わりに好きだった匂いだった。


震える手でその全体を覆う白布を捲ると、王は否が応でも理解した。


『今日は何のお話をしましょうか?ーーー様』


誰も呼ばない名を呼べと命じた事がある。それが、その声音が今では変え難いほどに好きだった。


ベッドに横たわっていたのは間違う事なく踊り子、シェヘラザード。

頬を誰かに張られたのか少し腫れ上がっている。手入れを怠らない指先は赤茶色の何かが滲み、綺麗な薄紫の長髪は無惨に切り取られていた。

それから首の締め痕に乳首の噛み痕、白布を捲り上げた瞬間から臭う鼻の奥につく様な生臭い匂い。一糸纏わないその姿に、王はどんな風に彼女が殺されたのか理解した。


「王。お目汚しです。どうか、我々にお任せを」


控えていた兵士の一人が呼び掛ける。


「出て行け」


「は…」


「この部屋から全員出て行け」


「いやしかしーーっ!」


「この俺に三度同じ事を言わせる気か」


怒気を纏いながらも、王の口調は至極冷淡だった。けれどその瞳は全てを殺す勢いで、本来ならこの王は一度の慈悲もくれない男だったと、その場にいた者達は思い出した。


いつからか些細なミスに目くじらを立てることもなくなり、公務を真面目に執りだしたこの国の王。以前は近隣諸国にすら名を轟かす程の道楽者で、気が短く、全てが自分の思い通りになると思い込んでいた。


王が変わったの理由など、考えるまでも無かった。


「何か有りましたらお呼び下さい」


そう最後に言い置いて、部屋を調べていた者も下がっていく。必然的に二人となった空間で、王はベッドに腰掛け、シェヘラザードの髪を梳いてやる。


『この身は生きる為に美しいのです』


少しだけ高慢無礼な女の戯言を王は何時迄も憶えている。間違っても男に媚びる為に美しくなったわけじゃ無い、言外に言ってのけた女。


その身が、何処の馬の骨ともわからない男の劣情に汚されている。


腹が煮える。頭が沸く。


今すぐその男を探し出して、その穢らわしい男根をこそぎ取ってやりたい。それから身の毛もよだつ様な拷問に掛けて殺してやるのだ。


「シェヘラザード起きろ」


彼女が生きている間に呼んだことは終ぞ無かった名。美しい名だと思っていた。今でも思っている。響きも音も何もかも。一人の時は呼べたその名を本人に溢すのが、今なのか。


「頼む。起きてくれ」


答えてくれる柔らかい声音は二度と聞こえない。


「まだお前は俺と、千夜を越していないじゃ無いかっ」


覆い被さる様に抱き締めた躯はまだ熱を持っていて、これは夢なのかと自問する。けれど、どれ程強く掻き抱いても、柳眉を顰めることも、呻くこともない。


それが、そんな現実がどうしようもなかった。


お前はハナっから変わっていた。たとえ王命でも閨を共にしない女だった。俺のものにはならない女だった。

でもそれでも良いと思っていた。


だってお前は、寝物語を俺の為だけにしてくれる女だったから。


「愛しているんだ。お前に自由をくれてやりたいと思う位に」


『貴方様の為だけに私は千夜を語りましょう』


声が、想い出が逆流する。

酒池肉林に溺れる邪智暴虐の王。嫌われ者の独裁者。無類の戦争狂で、趣味は拷問。

それが自分自身だった。誰もが知っているそれは間違っていることなど何一つなく、その通りのクソの様な男だった。


『一つ話したら、お一つ願いを叶えてくださいますか』


始まりの日に踊り子が歌う様に言ったそれ。

金を望むか地位を望むかと思っていたのに、彼女が願ったのは何にもならない事ばかりだった。

侍従に感謝を伝えろだとか、明日の朝食は残さず食べろとか。子供に言い含めているのかと思う位、幼稚なおねだりだった。


けれど、王はそれを叶えてやった。初めは気まぐれだった。こんな事何になると本気で思っていた。けれど、その一つ一つを叶えてやる度に、彼女は何より嬉しそうな顔をする。花が咲く様に笑う。まるで砂漠の一輪華の様に。


いつの間にかそれをどうしようも無く求めて、焦がれる自分がいることに気が付いた。初恋だった。


こんな事になると知っていたら、もっと早く手放してやったのに。


逝くなら、死んだことすらこの国に届かない最果てで死んでくれ。俺の手の届く範囲では決して躯にならないでくれ。俺より暖かい腕の中で、出来れば孫に囲まれながら逝ってくれ。


儘ならない願いが喉の奥に張り付く。もうその願いだけは一生叶わない事を誰もが知っていた。

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