第29話 底なしの迷宮

 大厄災たる魔物氾濫スタンピードの後日談。


■神聖暦三三四年秋季三ノ月十日 黄昏


「あー、あれだ。何やらかした?」


 カネヒラは、苦虫を噛んだような表情のキースに尋ねた。彼の様子から、厄介事を押し付けられるに決まっているのだと、カネヒラは即座に理解する。如何に回避するかと思考を巡らせるべきであろう。


 此処は、冒険者組合長アデレイドの執務室。部屋の主人は、椅子に座して、カネヒラに背を向け、窓越しの風景を眺めている。彼が入室してから一言も発していない。彼女から言葉にできない重圧感が放たれている。


「で、マーカス。何で此処にいるんだ?」


「ご、ごめんなさい……」


「お主は謝るでないッ!」とアデレイドはマーカスを叱りつけた。


 マーカスは更に縮こまる。その様子を見てカネヒラが引き気味になる。


「いつまでボサっとつったっておる。さっさと、其処に座れッ」


 深淵の娘にして魔女の娘から横着者のカネヒラに命令が下る。


「お、おう……」


 こいつは相当に不機嫌だ。キースがやらかした何かが、アデレイドの逆鱗に触れたようだ。


「此奴らは、冒険者組合ギルドの取り決めを、破りおったのだ」


「アデレイド様。キースは悪くありません」


「まだ言うのかッ!」


「私が確りしていれば——」


「お主ごときで上位の冒険者に抗えるか?」


「優柔不断なのがいけないのです。それに——」


「悪い気はしなかった、と言いたいのか?」


 アデレイドが蔑するように重ねて尋ねた。マーカスは頷く。耳まで赤い。カネヒラは一体何を見せられているのやらと三人を見回した。


「キースさあ、何か言えよ。訳がわからん」とカネヒラが問えば、「が好きなんだから仕方ないでしょッ!」と声を荒げた。


 それで漸く合点が入った。組合の禁則破りに関しては、キースとマーカスは共犯者ということになる。カネヒラが視線をアデレイドに向ければ、彼女は嫌々ながら状況を説明する。


「此奴が多情なのは後で説明するが、キースがやらかしたのだ。職員とそういう関係になるのは禁則だ。不正があってはならないからな……」


 キースは名うての冒険者で、マーカスは冒険者組合の熟練職員。両者とも注目を集める美人であり、それぞれ実力者である。キースの方は、昔からマーカスに懐いていた。正確には初恋であるが、その当時は、マーカスが男であるとは知らなかった。


「まあ、それはそれで、おめでたい、ということで——」


 アデレイドは巫山戯た言い回しに鋭い視線を向ける。カネヒラは馴れたもので受け流す。


「マーカスは職員を辞める。お相手のキースはマーカスの面倒を見る。それだけだろ?」


 面倒臭い。もう年上女房(?)ってことで差し支えない。そうカネヒラは考える。竿付き云々は嗜好の違いだろう。辺境じゃ同性の番いなど珍しくもない。


「容易くはないぞ。目を逸らすなッ!」とアデレイド。


 貴様の目は節穴かと語気を強めた。無慈悲なる魔女と恐れられる超越者とは思えない程、感情を露わにしている。


「コイツは組合長ギルマスの魔導具じゃないのか……なるほどなるほど」


 マーカスの腰辺りに一対の黒翼が生えていた。アデレイドのお手製の衣装で魔導具の類だと考えていたが、どうやら間違いのようだ。


「うむ。可愛いいぞッ。マーカス」と右手の親指をあげる。


 カネヒラは現実逃避なのか投げやりに褒めておくことにした。褒められた本人は厳しい状況下に置かれていてそれどころではないのだから、窮して惑う様な表情を浮かべた。叱責されて縮こまっているというだけではなく、実際に一回りほど小さくなり、見た目も若返っていたのだから、間違った感想ではない。


「戯けたことをッ!此奴の魔族の血が覚醒したのだ。淫魔の魅了ぞ」


「認識阻害の術は?」


 冷静に平坦な声音で返せば、一呼吸置いて、アデレイドも淡々と応える。


「先ずは、此奴が力を抑える方法を学ばねばならぬ」


 なるほど、本人に力を意識させることが不可欠ということか、とカネヒラは諒解した。


「その間、貴様に預ける」


 此処、辺境の開拓地の冒険者組合において、魔女の娘たちアデレイドやD.E.を除けば、魔族の魅了に耐性があるのはカネヒラだけだ。本人にとって誇れるようなことではない。若い頃の迷宮探索中に罠に引っ掛かり、状態異常として身体に刻み込まれたに過ぎない。生まれた時から付き纏われている悪運に引き起こされた苦い失敗の帰結。心疾しい記憶だ。

 カネヒラが忸怩たる思いと共に「そうなるな」と呟いて、冒険者組合長の命令を受け入れる。キースを見れば、アデレイドの発言に一瞬表情を失う。深刻な状況下で色々と理解が追いつかないのであろう。


「えっ?何で、カネヒラ?」と心底驚いているという表情でアデレイドに尋ねた。

 

 カネヒラが気を利かせて、自分に備わっている抗魔の能力について、説明しようとするが、アデレイドは察知して割り込み、キースに命じた。


「キースは自室で謹慎しておれ。暫くは外には出さぬからなッ」


 そう言うや否や、アデレイドは、唖然としているキースを瞬時に転移させて、執務室から追い出した。ここから先は、やらかした本人に聞かせる内容でもない。マーカスの極めて私的な情報だ。彼女は、マーカスの対面の長椅子に音もなく近づき、カネヒラの左隣に陣取った。


 暫しの沈黙の後、カネヒラが会話を再会させた。


「覚醒の鍵は?」 


「死霊術者の精だ」


 アデレイドは不愉快極まりないという表情を浮かべ、マーカスの封印が解かれた理由を端的に告げた。


「深淵が及ばないのであれば——」


 アデレイドは、カネヒラにぐいっと身を寄せ、彼の唇に彼女の人差し指を押し当てた。彼女は、外なる神の干渉である、とは言わせなかった。二人は無言で視線を交わす。長い付き合いで互いを理解している。そうした見つめ合いの後、カネヒラが視線をマーカスに向ければ、アデレイドがそれに応じるように言葉を繋ぐ。


「未覚醒であっても、互いに好意を持つ者同士であれば、淫魔の魅了に影響を受ける。まさか同性で、左様な事態を招くとは、妾も迂闊であった」


 傾国の美貌とまで言えなくとも、一瞥で人を惑わすに十分な容姿の二人だ。アデレイドは定命の者たちの恋愛の機微に疎すぎるだろう、とカネヒラは残念に思う。其処で、ふと疑問が湧く。


「キースは深緑の大司教の魅了に抗えるのに?」


「聖と魔の違いぞ。馴れねば無理だ。否、神気に晒され過ぎて、彼奴は魔の魅了に抗い難い」


 アデレイドは更に辛そうに付け加えた。 


「護符の影響もある」


 カネヒラは、深淵の娘にして魔女の娘たるアデレイドを慰めるなど烏滸がましいと思いつつも、言わずにはいられなかった。


「巡り合わせの悪さ……というか、賽の目の悪さだ」


 カネヒラは、外なる神が嗤ってやがる、という言葉は飲み込んだ。


「実に腹立たしい」


 彼が何を言わんとしたのか、アデレイドには確りと伝わった。


 二人はマーカスを見つめた。彼は優し過ぎて押しに弱い。前途有望な冒険者で、しかも憎からず思っているキースから強く求められて、拒否できなかったのであろう。第三者的には、有望な若者を惑わせたタチの悪い年増ということになる。溜息が同時に漏れる。人心の陰翳というのは誰にとっても厄介事だ。


「ところで——」


 マーカスの頭髪が青髪であることと淫魔が繋がらない、とカネヒラは疑問を口にして話題を変える。


「——どうなっているんだ?」


「転移であろうと、転生であろうと、人間は人間のままというのがこの世の理だ。 貴様の疑問はもっともだ」


 アデレイドは面白くないと不満げな表情を浮かべて続ける。


「此奴は古王国時代の勇者様の召喚に巻き込まれた不運な奴よ」


「時代が千年以上ズレているぜ?」


「其れは此奴にとっては些事よ。転移させられた先が魔族の肉体に重なっていたことが難事であった」


「成程、そいつは気の毒だ」


 そうは言ったが、カネヒラは分かってはいない。マーカスの肉体が細胞単位で魔族と混じり合ったという事にアデレイドは言い及ぶも、彼の理解が及ばない。


「宿主の魂は呑まれたのかも知れぬ。故に此奴の件は転移憑依の類と言えよう」


  マーカス本人を蚊帳の外に置いて、アデレイドとカネヒラは、転移直後のマーカスの様子から現在に至るまでの一連の流れを一刻ほどかけて、共有するのであった。その間、彼は会話に入ること無く、不安そうに二人を見つめていた。その黒翼が無意識のうちにぱたぱたと羽ばたき始めた。



■神聖暦三三四年秋季三ノ月二十日 底なしの迷宮第十一層


 底無しの迷宮。迷宮の素材採取人のマーカスの代わりにキースが万能薬の材料の一つとなる苔を採取するために迷宮深層に向かっていた。目的の苔の採取の他にも、休息場所の安全確認と掃除という任務を請け負っている。其れは懲罰でもある。


「一人は寂しい……」


 安全地帯と呼ばれている場所で、お茶を淹れて、休息を取る。


「そりゃ、 冒険者組合ギルドの規約破りは悪かったと思うけど、恋愛は自由じゃないの……」


 未だにキースは引きずっていた。独り言が多い。魔導具の灯りを見つめて膝を抱える。


「マー姐に会いたいよ……」


 やや小さく成って、更に若返ったマーカスの姿を思い出す。毛皮の敷物の上、丸くなってコロンと倒れ、そのまま魔導灯をぼうっと眺める。


 ——黒翼がとても可愛いらしいよね。


 最早、姐さんとは呼べない姿になった。年上なのは確かであるが、見映えが幼く、彼が甘えられる相手ではない。彼の嗜好は、大人で包容力が有って、而も嫋やかな人である。幼い子供達には決して向かわない。辺境の冒険者組合の女性は、職員も冒険者も妖精種や獣人種が多いため、全員年下にしか見えない。特にアデレイドやモモは、老化とは無縁の存在故に、十代半ばの少女の姿のままである。彼の性愛の対象にはなり得ない。唯一、大人の女性に見えたのが、マーカスであった。


 ——大好きな人に、口付けできないとか、凄く嫌なんだけど。

 

 マーカスとの情交を思い出す。今では心底から忌避感が湧き上がる。幼い見た目のマーカスを抱くことは出来ない。それでも彼はいつもと変わらず、優しく接してくれるだろう。絶対責めたりしない。恨み言などぶつけたりしない。嘆くこともない。数え出したらきりがない。何処までも明るく前向きで優しい。ぐっと泣きそうになるのを堪える。自分が心地の良い関係を壊してしまったのだ。最早、取り戻すことはできない。


 ——こんなに辛い気持ちになるなんて、あの人から教わらなかったよ。


 彼は無貌の修道女を思い出す。


『そうさね。情愛とは厄介なコトさ。線を引いて世界に彼我が生じた刹那に満たされない渇望となる』


 故に人は、こうして慰めるのだと語った。キースを抱えて実に心地よいと囁いた。忘れていただけだ。確かに教えを受けていた。


 ——あの人はいつだって傍にいてくれる。


 闇に溶け逝く感覚に浸ろうとして違和感に気がつく。邪魔が入った。敵だ。迷宮の魔物が仕掛けてきた。キースは叫ぶ。


「鬱陶しいッ!」


 跳ね起きると、双剣を抜き放ち、剣撃を飛ばす。この技はレイラから習った。死霊術に頼らない純粋な剣技だ。敵を捉え確殺するも——


「えッ?」


 キースは驚いた。


 ——闇夜に忍び寄る者ナイトストーカー!?


 迷宮の深度は十一階。転移の罠などなかった。明らかにおかしい。中層域五十階から出現する魔物が、こんな浅い階にでる筈はない。


 残り三体の闇夜に忍び寄る者ナイトストーカーに半包囲された状態ではあったが、キースは、瞬歩で正面の一体との距離を詰めて、首を斬り飛ばしながら、中央を抜けて距離を取る。残り二体。其処で——


冒険者組合長ギルドマスター。異変確認」


 キースは、魔導具を起動し、アデレイドに状況を伝える。


「深度十一。安地に忍び寄る者四体。二体討伐。交戦継続」


 二体の闇夜に忍び寄る者ナイトストーカーが特殊な攻撃を放つ。駆け出しの冒険者ならば、麻痺、幻覚や鈍足などの状態異常を引き起こされたであろう。しかし、キースには全く通じない。


「上位個体じゃないね」


 ならば倒すのは容易いと、彼は双剣をくるりと回し、順手に持ち替える。右手側の敵に一気に踏み込んで突きを放つ。キースの速さは、剣聖のレイラに引けを取らない。中層に出現する魔物程度では捉える事は出来ない。急所に深々と双剣を突き立て、更に捻り込んで刳り倒す。そこで数拍の間が生じれば、残り一体が、大きな動作の隙を突いて、長い爪で切り裂くように仕掛けてきた。


「一体討ち漏らしか——」


 快活な少女の声が虚空から流れ出ると、残りの闇夜に忍び寄る者ナイトストーカーが切り刻まれ、血煙となった。じわりとレイラが現れて、漆黒の刃から血を振り払う。


「んん〜。解せない」とレイラ。


 彼女は、闇夜に忍び寄る者ナイトストーカーとの交戦の報告を聞いた時、キースだけで十分対処出来るから急ぐ必要はない、とアデレイドに言い切った。しかし、彼女が想定したようには戦えていなかったことに首を傾げる。体捌きや技にキレがないと指摘しながら、控室でウロウロとして落ち着かなかったジェフリーに、過保護過ぎるだろうと思っていたが、どうやらそれは間違いであった。


「やはり動きが悪い。いろいろあったから仕方ないだろう」とジェフリー。


 レイラに続いて、キースの戦いを評しながら大柄のジェフリーが姿を現す。


「レイラ……ジェフリーさん……」


 キースは動かなくなった魔物の骸から剣を抜いて立ち上がった。決まりの悪そうな表情を浮かべた。


「ははッ、キースも男の子ってことさッ。気にすんなーッ」


 レイラは励ましにもならないことを言い放つ。種蒔きにしか興味のない好色男を肯定するような反応はいかがなものか。恐らく、彼女の場合、女性の繊細さを神々の恩寵と共に枯れた迷宮に忘れてきたのであろう。


「レイラ。来てくれたんだ……」


 寂しくて辛かったのか、キースは言葉に詰まる。仲間とは実に有難いと心に染み入る。


「モモさんもいるぞッ!」とレイラが付け加えた。意気軒昂である。いつもの事だ。


 キースはギョッとして背後を振り向く。其処には、闇に溶け込んだようにモモが佇んでいた。深淵の娘にして魔女の娘アデレイドの従者である獣人のモモの冷たい眼差しが刺さる。威嚇するようにグッと顔を近付けてから、底冷えのする声で警告した。

 

「次は許しませんから……」


 仲の良い同僚が冒険者組合を辞めなければならない状況を招いたのだから、更に複雑な感情が渦巻いている。小声で愚痴愚痴と責めるが、正論なのでキースは言い返せない。困惑するだけの彼を気の毒に思ったのか、レイラが重い雰囲気をぶち壊す。


「嫉妬ですか——」


「違いますッ!!」


 モモは、キッとした視線を向けて、被せる様に否定した。レイラは惚けた顔で肩を竦める。獣人の好意は分かり易く、キースにベタ惚れである事は言を俟たない。当然、マーカスが選ばれた事で、心中穏やかでは居られない。レイラに揶揄われて、気が失せたのか、個人的な気持ちを抑え込んだ。


「アデレイド様は、諸般の事情を鑑みて此度は不問とする、と仰いました」とモモが事務的に伝える。


「草毟りなんかさせる余裕は無いってことさッ」とレイラが混ぜっ返す。


「レイラ。少し黙ってろ」


「おっと……」


 モモは咳払いを一つ。

 

「先の魔物氾濫の原因が関係しているようです。底なしの迷宮に入り込んだ異物を除く必要があります」


「異物?」とキースが尋ねる。


「恐らく呪物の類です。アデレイド様はキースならば見つけられると仰いました」


「呪物……。枯れた迷宮と同じ?誰が仕掛けたの?」


「底なしに仕掛けるのは誰であれ不可能です」


 モモは張り詰めた笑顔で粧しつけて応える。


『想達されし事々は、悉く具に現れる。実仮の境を呈するは非なり』


 無貌の修道女の声が心に響く。


 ——混ざり合う世界。不可能はない。


 埋もれているだけで存在しない訳ではない。


「でも、油断できないよね」


 モモは、未だ収まりがつかないのか、キースの返しが一々引っかかるのか、眉を顰める。


「はいはい。魔物氾濫の被害者のレイラさんが思うに、全ての迷宮は異界で繋がっていて、稀に良く異物を互いに吐き出し合うのさ」


「本当か?」


「今、思い付いた!」


「「「……」」」


 三人は、冷たい視線を向けるが、レイラは満面の笑顔を返す。彼女は、パンパンと手を叩き、人の身で迷宮について彼れや此れや考えた所で無駄無駄、と言い切った。そして深層に向かうことを促す。


「キースは探知技能で魔物の把握。種類も漏れなく報告ね」


「モモさんが魔導具で確り記録してくれるぞ」


「私は取り敢えず——」


 闇に紛れていた黒い靄を切り払えば、人の悲鳴のような音が響く。愚者の黒火ウィルオウィスプと呼ばれる討伐困難な魔物が一瞬で消滅した。


「推し通るッ!」


 彼女は踊る様に安地から下層に向かう通路へと踏み込んだ。


「レイラ。記録できないから数拍待ってから斬ってくれる?」


 魔導具の十二面体を睨みながら、モモは強めの語気で、彼女の背中に言葉を投げ付けた。剣聖であれば、その程度の間など隙にすらならない筈だと理解している。決して、無理な要求ではない。


「おっと……」とレイラ。敢えて、魔導具の性能を超える速さで、討伐していることに気づかれたかと笑う。


「レイラ……」とジェフリーが諦めたように彼女の名前を口にした。


 ——このまま正面突破するの?


 キースは、レイラの嵐の様な振る舞いに戸惑う。回収作業は、討伐とは勝手が違って、静かに深く潜航するものだ。今回は、剣聖に勇者、更に凄腕の暗殺者が加わった。彼では、出し抜けないヤバい魔物が待ち構えているのだ、と覚悟を決めた。それを尻目に、レイラは野遊びピクニックにでも出かける風に燥いでいる。


「アビスちゃんもうずうずしているのさッ!」


 深淵の剣を納刀すると莞爾と笑う。彼女の愛剣となった付喪神の柄をトンと軽く叩いた。



■神聖暦三三四年秋季三ノ月二十一日 底なしの迷宮第二十三層


 ジェフリーが、長刀を構え直して、この階層の安全地帯である筈の開けた場所を狭い通路から窺う。


「全ての安地に魔物が出てくるという訳ではないのか……」


 此処迄、百体を超える討伐難易度の高い魔物を苦もなく屠って来たが、ジェフリーに油断はない。


「神像の泉には魔物が寄りつかない筈」


 キースの脳裏に冴えない中年男の嫌味な笑顔が浮かぶ。


 ——迷宮だからね。


「斬り倒せばいいだけじゃん」


 レイラはそう言い終える前に深淵の剣を一閃。安地に一歩踏み込んで、湧き出てきた真名を呼ばれぬ者巨大な邪眼を両断した。


 その真名を口にした者は熱線で射抜かれると言われる浮遊する魔物。径が九尺ほどの巨大な球体で、無数の触手の先に擬似眼を持ち、球体の中央に巨大な邪眼を有するグロテスクな風体。


「ね、問題ないでしょ?」


 雰囲気は軽薄だが、レイラとて油断している訳ではない。ただ底なしの迷宮に付喪神を携えた剣聖というのは相性が良過ぎた。迷宮にとっての厄災と呼ぶべきであろう。


「そう思うのは、多分、お前だけだ」


「僕たちのような並の冒険者には無理だよ」


 キースの言葉に追蹤して、ジェフリーが頷く。


「誰と誰が普通だって?」


 レイラは剣呑な視線を向ける。彼女から見れば、キースもジェフリーも飛び抜けた存在で、自覚が無いのは何方だと言いたいのだろう。


「まあ、いいや。キース。標的の存在は強くなった?」


「……多分、八十階層の辺りだね。変な感じ。魔物でもないし、神像や神代の遺物アーティファクトでもないね。遭難者でもない。確かに異物だ」


「やっぱ、泥濘の辺りか。アビスちゃんの言う通りだと嫌だな」


 ——深淵の剣アビスソードって、喋るんだ。


 空気の僅かな乱れ。可聴域に掛からない振動。周囲の警戒を怠らないジェフリーが気付く。


石像鬼ガーゴイルだな……来るぞ!」


 唐突にジェフリーが声を上げる。


「嘘ッ!?」


 ——何処から沸いた。反応が無かったんだけど。


「何だ……掃除屋スイーパーか」

 

 レイラは腕組みで仁王立ち。迷宮の魔物との戦闘では圧倒的な経験を有する彼女は余裕を見せる。キースにこの類のガーゴイルは初めてかと尋ねる。


 ——何を今更なことを……


 彼は迷宮救助人。回収作業サルベージでは戦闘は徹頭徹尾避けるもの。当然、遭遇する魔物も限られてくる。討伐中心の剣聖レイラ勇者ジェフリーとの経験の差がある。


「奴らは壁に埋まっている。探索系の技能も万能じゃない」とジェフリー。


 レイラは獰猛な笑みを浮かべる。


「二人とも急ぐ急ぐッ。は柔らかいから、パッパと潰すよッ!」


 レイラは、モモに視線を向けて、記録したのか確認する。いつでもお好きにどうぞ

 と手振りで返されたのを確認すると、やおら壁に向かって突進。壁から抜け出ようとしているガーゴイルに拳を叩き込んだ。


 ——殴るのかッ!?


「ほらほら、キースも手伝うんだよ!」


「相手の体は石だよッ!」


 何故、素手で殴るのかとキースが疑問を投げ掛ければ、彼女はアビスちゃんが嫌がってるからと当然の様に応えてから「素手が嫌なら剣撃を使いなッ。キースには丁度良い練習相手さッ」と付け加えた。


 ——剣聖って何なんだろうね……


 レイラは壁から次々と現れるガーゴイルを嬉々として殴り倒している。キースは只々茫然と見守るだけであった。



 ■神聖暦三三四年秋季三ノ月二十三日 底なしの迷宮第八十三層


「あの辺り、何か微妙に動いてる」


「下層への通路だな」


 ジェフリーが長刀を構えて慎重に進む。英雄であっても油断できない階層まで辿り着いた。此処の直下は果てしない泥炭土が広がる難所。レイラが泥濘と称した第八十四階層。


「要救助者……」


 ——異物って、この人のこと?


 キースが無言でモモを見つめれば、モモは営業微笑アルカイックスマイルを浮かべて頷く。


「じゃあ、頑張ってね。キースッ!」とレイラがポンとキースの肩を叩く。


「えッ?」


「担架なんて気の利いたものは無いのさッ」


 キースは頭を抱えた。回収作業サルベージの装備一式が手元にないことを嘆く。支援のカネヒラもいない。ジェフリーとレイラは戦闘以外で手出し無用と言い付けられている。モモは同行調査に限定されている。しかも獣人で臭覚が飛び抜けて鋭敏。故に、この酷い匂いには耐えられない。


「か、担ぐさ。救助人の意地だ」


「装備くらい剥がしたらどうだ?」とジェフリー。


「深層から中層までは其の儘とのこと。中層の泉で清拭せよ。それがアデレイド様の指示です」とモモが澄まし顔で深淵の娘からの命令を伝えた。


「ん?」


 レイラがモモの発言の違和感に気付く。


「……」


 渋面で頷くジェフリー。


「……最初から異物の正体分かってたってことじゃん」


 レイラは気抜けしたように返して、呆れた様な視線をモモに向けた。魔女の娘の老獪さには敵わないと言ったところだ。


 キースは気が付かなかったのか、レイラの一言には反応を示さなかった。自他共に認める迷宮遭難救助人。目の前の要救助者が何よりも優先されるのであろう。


 彼は迷いなく行動する。うつ伏せで倒れている泥土まみれの要救助者を、両脇から手を差し入れて、引き上げるように抱き起こして、腋の下に首を差し入れてから、ひょいと肩の上に担ぎ上げた。所謂、消防夫搬送ファイヤーマンズキャリーだ。因みに、この世界に消防夫はいないが、冒険者たちが負傷した仲間を運ぶ時に使用する方法である。


 ——軽い。それに……。


 身体の均斉からもそうだが、抱き起こしたときに女性であることが判った。

 

「では、急ぎましょう」


 モモは、キースが要救助者を担ぎ上げるのを確認すると、往路に戻るべく先導する。


 風は浅層から深層へ流れる。獣人は鼻が効くから、単に泥土の悪臭を避けられりという利点もある。先頭は魔物に遭遇しやすいという欠点は彼女には問題にならない。無言で頷くとキースは、確りとした足取りで続く。二人の様子を後ろから眺めながらレイラが語る。


「ねぇ。ジェフリー。何か変だ。キースが担いでから直ぐに泥土の匂いが消えたんだけど」


「泥土の匂いに慣れただけだろ?」


「違うね。キースの足元に光の粒子がぱらぱらと跳ねてるでしょ?」


「ああ、僅かだがな……」


 浄化ではないかとレイラが尋ねると、ジェフリーは頷きながら「深緑の大司教の影響か、あるいは……」と返す。彼は最後までは語らない。レイラはジェフリーの懸念などお構い無しで「神気を放つ死霊術師とか、ますます御伽話だねッ!」と子供の頃に好きだった御伽話を思い出しながら実に楽しげであった。



 ■神聖暦三三四年秋季三ノ月二十四日 底なしの迷宮第五十九層


 浄化の泉から伸びる排水溝の傍に要救助者を横たえた。未だ気絶している。キースは、浄化の泉にそのまま放り込みたい衝動に耐えて、の装備を外し始めた。帯革の複雑な編み込みや止金を泥土の滑りや詰まりに苦労しながら構造を把握する。胸当て、肩当て、肘当て、手甲、胴巻きと順番に外す。最後に太もも丈の薄皮の長靴ちょうかを引き抜く。内側に入り込んでいた泥土が漏れ落ちて悪臭を放つ。

 彼は、急いで取り外した装備を網に入れると排水溝に放り込んだ。八十四階層の泥土には呪因が含まれる為、神像の泉を軽く掛けた程度では、容易には落とせない。彼の装備にも泥土が付着していた。


「水門の設定を変えられない?」とキース。


「これ以上、流量を多くすると清浄度が失われます」とモモ。


 ——泉の中央。神像の足元に放り込んだ方が早いと思うけど、ダメなんだろうね。


「一晩もあればかなり浄化されるでしょう。持ち込んだ物資に余裕がありますので、ここで野営しましょう」


 ジェフリーが手印ハンドサインで作業を続けるように伝えると、野営の準備に取り掛かる。キースは、ジェフリーに視線を返して、清拭の作業を続ける。


 ——露出していた頭とか、泉に漬けるわけにもいかないし……。


「聖水とって」とキース。


「はいはい」とレイラがキースの雑納の蓋を開けて渡す。


 彼は大きめの聖水瓶を雑納から取り出すと、固まった泥土を洗い流すためにドボドボと掛ける。聖女リコリス・フローラの手による膨大な神気が込められた聖水だ。凄まじい音を立てて顔を覆っていた泥土が消滅する。


「ひゃい!」


 レイラは驚きの声を上げる。一歩引いて様子を伺う。要救助者の顔面が溶けたのではないかと恐る恐る覗き込む。


「可愛い女の子だね……」とレイラ。何とも間の抜けた感想だ。


「そうだね……」とキース。益体もない遣り取りになった。


 爆音によって設営作業を中断したモモとジェフリーがキースの背後から覗き込む。

 ジェフリーは、要救助者が何者なのか気づいた。


「エミリー・ローレンだな?」


 ジェフリーがモモに鋭い視線を向けて尋ねれば、彼女は「間違いないです」と事務的に答えた。彼はエミリー・ローレン一党を客として自分の馬車に乗せたことがあった。仕事を選り好みしないため、口さがない者から酷く評判が悪いが、王都の冒険者組合からの評価は高く、その実力の高さも相俟って“最優”と呼ばれている。


「エミリー・ローレン……って、ヴィルへイムのバカ息子をとっ捕まえた人だ!」


 レイラは歓喜したように声を上げた。アデレイドから自分の仇である西方城塞都市領主代行アウグスティス・ヴィルへイムを討ち取ったのがエミリー・ローレンであることを聞かされていた。


「王都の最優が、何故、底なしの迷宮にいるの?」


 キースはジェフリーとレイラに尋ねるが、二人は首を横にふる。分かる筈もない。


 ——転移の罠だろうか。他の迷宮から?


 有り得ないとキースは思った。底なしの迷宮は、南方の辺境開拓地の冒険者組合が厳重に管理している、許可なく立ち入ることはできない。有り体に言えば、深淵の娘にして魔女の娘が張り巡らせた結界で守られているのだが——


 キースは無貌の修道女の言葉を思い出す。


『実仮の境を呈するは非なり』


 ——そうか、有り得るよね。


 エミリーの内衣を外そうとした時、彼女の身体の刺青が蠢いていることに気が付いた。


「ジェフリーさん。この娘に何か張り付いてる」


「問題の呪物でしょうね。キースは、この娘をうつ伏せに寝かしてください」


 キースがモモの指示に手際よくエミリーをうつ伏せにすると、彼女は腰に佩いていた鎧通しを抜き、エミリーの傍に片膝立して、躊躇なく内衣を切り裂いた。


 腰の付け根の辺り——仙骨と第五腰椎も間——に扁平で放射状に枝を伸ばしている脈動する物体が目に入った。


「荊棘の箱に似ているが……」とジェフリーが問えば、「似ていますが……違いますね」とモモが応える。


 現役時代のジェフリーは、荊棘の箱と呼ばれる神代の遺物アーティファクトを迷宮探索で入手したことがあった。


「ジェフリーは完動品を冒険者組合ギルドに2個納めましたね」


 モモは、「私か鑑定しましたからよく覚えています」と付け加えた。彼女は、実物を鑑定した経験からエミリー・ローレンに張り付いている神代の遺物アーティファクトが歪められていると理解できた。某中央王国人の手によって呪物に変えられているという言葉は飲み込んだ。


「ジェフリーさん。荊棘の箱って何なの?」


「全身鎧のようなモノだ。各種耐性が高くて軽い。装備者の意思に反応して武器にも転じる」


「何それ便利じゃん。一個欲しいぞッ」


「お薦めできないな。一度装備すると外れない。体の一部になるからだ」


「うわっ。変態呪術師どもの寄生花みたいじゃん」


 モモは、何やら悩んでいる様子で、ジェフリーとレイラの会話を聞き流している。

 彼らに声を掛けることはない。同行者三人の様子を眺めていると、キースは、不意に気が惹かれ、彼女の首筋の辺りを滑る様に蠢く荊棘の一つに触れた。


 不快な映像が脳裏に差し込まれる。寄生虫のような呪因がエミリーの身体を這い回る。黒百合の聖女の解呪の時に感じた同じ不快感。それは呪術師の姿を捉えることはできなくとも、同じ韻律の呪文が幾重にも重なって聞こえるのであえば、容易に特定できる。


 ——彼奴だッ!


「巫山戯んなッ!」 


 キースは、突然、怒声を上げた。


 彼は、黒百合の聖女に呪種を埋め込んだ呪術師が、エミリーの身体を締め付けている荊棘の箱を歪めて、呪物に転化させた者であると直裁的に理解した。目の前が赤くなるような感覚。怒りが迸り我を忘れる。


「待ちなさいッ!」


 反射的に聖水を荊棘の箱の心臓部に叩きつけようとしたキースをモモが制止した。凄まじい速さと力だ。


「なッ?」


 モモは、強い闘気を発しているが、優しい眼差しを向けて、諭す様にキースに語った。


「この呪物はエミリーに馴染み過ぎています。白曼珠沙華様の聖水は強過ぎます。命が危ぶまれます」


「あ〜死霊術もダメだよ。相手が悪いってアビスちゃんが言ってる」とレイラが付け加えた。


「キースが抱えて、浄化の泉に浸かるのがいいかもしれんな」とジェフリーも冷静だ。もっと不愉快な事々を見知っているのであろう。


「悪くないですね。此処の泉は半月ほどは使えなくなりますが……」とモモがジェフリーの提案を肯定する。


「有り有りだってさ」とレイラ。付喪神の深淵の剣も同意したらしい。


「エミリーを浸ける前に野営に必要な分だけ汲み置きしますね。キースはできるだけ、その娘を回復薬を使って綺麗にしてください。キースも装備を外すのを忘れずに」


 ——が泉に浸かるのは決まってるんだ。



■神聖暦三三四年冬季一ノ月一日 辺境の冒険者組合の錬金室


 魔女の娘アデレイドは深淵を携えて宙に浮いている。権能を解放して、寝台に仰向けに横たわるエミリー・ローレンを眺めながら、此処に運び込まれるまでの経緯と彼女に関わった人々の挿話的な出来事を漠然と眺めていた。


「さてもさても浅ましき事かな」


 過去視によって詳にされた関係者の人々の膨大な記憶の中、荊棘の檻に纏わる人々の七情の醜悪さと迷宮崩壊を惹起した六欲の賎陋さを呈する二つの物語が、深淵の娘ですら酷く不快にさせた。


「王都の最優がくだんの迷宮崩壊に巻き込まれていたとは……」と傍にひかえているカネヒラが謐く。


 マーカスも共に呼び出されていたが、カネヒラの背後に隠れる様にして、横たわるエミリーを覗き見ている。


「あの……。アデレイド様」


「御母様だ」


「えっ、あ、はい。御母様。何故、私も呼ばれたのでしょうか?」


「見て分からぬか?」


「はい……」


「此れを見よ。ぞ。実に厄介な呪物じゃ」


「あー、長くなりそうだな」


 カネヒラの一言にアデレイドはキッと睨みつける。彼は億劫だと言わんばかりの表情で返す。この横着者めと溢しながら彼女は言葉を繋ぐ。


「順序立てて語らねば分かるまい」


「願わくば要点から始まらんことを……」


 この冴えない中年男は、深淵の娘にして魔女の娘を相手取って、融通無碍に言葉を返す。対して魔女の娘は胡散臭い墓荒らしトレハンを半眼で睨め付ける。


「定命の者は気が短い喃」

 

 見栄えの悪い男から冴えた黒翼へと視線を移して数拍の後、アデレイドは端的に告げた。


「半身残余を見出せり」


「はい?」 


 黒翼を携えた妖の少女の姿となったマーカスが戸惑う。そりゃそういう反応になるだろうとカネヒラは眉を顰めた。暗喩絢爛の饒舌か、さもなければ、提喩質素の朴訥。無慈悲なる魔女は極端に過ぎる。


「マーカスがこの世界に召喚された日のことだ——」と、結局、アデレイドの長語りが始まった。


 とある呪術師によって淫魔が呪物の生贄にされた。魂は抜き取られ荊棘の箱に移された。魂が宿った荊棘の箱は呪物となり、ここに横たわるエミリー・ローレンに埋め込まれた。

 呪術師の目的は、彼女を魔力収集の為、生きた呪物とすることであったと、推察された。もしその様な意図で呪物を作るのであれば、仕上げの段に於いて、魂魄共に荊棘の檻に封じられるべきであった。呪術師の技の未熟故か、将又、意図的にそうしたのか、淫魔の魄は骸に残った儘で、骸の方は用済みとして打ち捨てられた。荊棘の檻は本来の力は出せず、エミリーは不完全な媒体となった。

 一方、打ち捨てられた骸には、時空と異界を越えてマーカスの転移が重なった。どこぞの未熟な呪術師の所為で両者共に半端な存在に転じた。魂はエミリー、魄はマーカスが与ることになった。

 偶然に淫魔の骸と融合することになったマーカスは肉体が不安定で、アデレイドが血分けすることで、融合した肉体が人の形を失うことなく、現世に固着させることができた。それは本筋から見れば瑣末なことだろ。


「わかったようなわからん話だ。其れでコレからどうするんだ?」


「魂と魄を融合させる。首尾良く収まればマーカスは元に戻る。無論、エミリーの荊棘の檻も解呪に至る」


「なるほどね……仮に、やりしくじったら?」


「魔女の娘は無謬ぞ」


「頼むから、こっち見てくれよ……」


 舌打ちがカネヒラの耳に届いたが、続けて、アデレイドの高らかな宣言が響き、掻き消される。


「深淵の娘の魔導の極み流流たれば、貫徹たる仕上がりを御覧じろ」


「待てッ」


 彼は、アデレイドを煽ったつもりはないが、何が気に入らなかったのか、彼女は問答無用で魔術を発動した。深淵が一気に沸き立ち、高次元の魔法陣が展開されると、時間逆行の多重詠唱により発生した魔力の奔流がマーカスとエミリーを飲み込んだ。


「やりやがった」とカネヒラは苛立ちに駆られた。


 アデレイドがを発動させるのであれば、展開される魔法陣から距離を取るべきであった。過剰に満ちる深淵の力が、彼の左手に刻み込まれた神代の遺物アーティファクトを起動させてしまうからだ。現世の存在を虚無に還す力。それは意志の力で押さえ込むことは叶わない。人の身では限界がある。深淵から溢れ出た魔力が収束したが、虚空の力が干渉して、魔法陣に流れる魔力は不安定になる。部分的な過負荷を生じると、現世に顕現するはずの魔術は隠り世へと消失したように見えた。


 沈黙が降り積もる程に十分な間が空いた。


「僥倖僥倖。望外の結果ぞ」とアデレイドは満足そうに頷く。


 気を取り直したカネヒラが驚愕して動けないマーカスに尋ねた。


「マーカス!」


「び、吃驚しました」


 何とも無いのかという問いにマーカスはコクコクと頷く。視線をエミリーに向ければ、何事もなかったように横たわっている。身体に欠損はない。しかし——


「マーカスは淫魔のままだし、エミリーの荊棘は蜿ってやがるぞ」


 カネヒラが焦燥感に捉われる。何も変わってないどころか、荊棘の檻だか何だか得体の知れない魔導具から過剰な魔力が漏れ出ていた。


「マーカスと淫魔。エミリーと荊棘。互いに慣れ親しみ過ぎたのであろう」


 どういった帰結に落ち着いたのか説明が無い。エミリーの身体をうねうねと這い擦っている荊棘。先ほどまでは動いていなかったのだから素人目には失敗したように見える。


「俺抜きでやれば、に分離と解呪ができたんじゃないのか?」


「揺らぎは不可欠よ」


 普通では面白くないだろうと呟く。


「人様を何だと——」と言いかけて、カネヒラは黙る。


「不満か?」


「……そうじゃない。結局、どうなったのか教えてくれ」


「都合よく淫魔の魂魄が倍化した。各々に分け与えることができたから善しとすべきであろう?」


 アデレイドは、お主の此れが役に立ったと言って、カネヒラの左手を取って両手で包みこんで嬉しそうに笑った。


「それがどういう事なのか、普通のおっさんにも分かるように頼むわ……」


「エミリーは荊棘の箱を自ら操り、マーカスは魅了と吸精を為し能う」


 彼女と彼は、各々の意思で権能を発揮できるようになった、と魔女の娘は得意気に語る。冴えない中年冒険者は、以前よりは増しになったと解釈したが、エミリーやマーカスの思いを聞き出さなければ、本人たちにとって望んだことなのかは分からない。


冒険者組合長ギルマスの魔術は顕現しなかったように見えたが?」


 魔女の娘が無謬ということに疑いなど無いが、それ故に、カネヒラは魔術が発動しなかったことが気がかりである。何らかの反動が二人の対象者に降りかからないとは言えないだろうと。


「あれは反呪の技カウンタースペル。理由は分からぬが、エミリーも淫魔もそれを望まなかった故に発動せなんだ」


「カウンタースペルねぇ……。まあ、いいか」


 アデレイドには呪術師が誰なのか判っているということだ。


「エミリーの荊棘の呪いは解けたんだよな」


「無粋よ喃」


「無粋ついでだが、淫魔の魂魄をどうするつもりだった?」


「血肉を与えてやろうかと思案していたが、エミリーとマーカスと共に在ることを選びおった。無理強いするのも気の毒。好きにさせた」


「いやいやいや。エミリーとマーカスはどうなんだよ」


「確かめるまでも無かろう。互いに望まねば斯くの如き帰結は得られぬ」


「……そりゃ良かった」


 本当にそうなのか、不安が心底に渦巻いているが、普通の冒険者に何かできるわけもない。毎度の事ながら有りの侭に受け止めて諦めることだ。そうカネヒラは思い至った。

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