第23話 西方征伐

■神聖暦三三三年夏季ニノ月五日 夜半 王家直轄領の平原部 


 ミットヘンメル中央王国の「肥沃なる平原」における戦いの趨勢は決した。カネヒラ率いる魔女の傭兵団によるが功を奏し、西方域の貴族連合軍の主力を一時的に壊乱状態に陥れ、反乱軍の主将たるジンメル伯爵を戦死させた。


 討伐軍の先陣を率いる第一王女のアビゲイルは、麾下の偵察兵団の長と共に二人だけで指揮所となっている天幕の中にあった。


「一撃であるか?」と第一王女アビゲイルが呆れ顔で問う。


「戦鎚の一撃で討死。間違いございません」と諜報部隊の鴉衆の頭目が淡々と返す。


 ジンメル伯爵が討死した直後、ラーヴェンスベルク軍務卿が率いる第一王女の近衛部隊が押し出せば、西方域の貴族連合軍の主力は呆気なく崩壊した。第三者視点では、近衛部隊が叛徒の突進を正面から受け止め、突き崩した様に見えた。実際、前線居合わせた将兵ですら、第一王女アビゲイルの威光が外法を打ち払ったと歓喜した。


「実に恐ろしきは厄災の魔女」


 第一王女アビゲイルの貌に渇いた笑いが張り付く。ミットヘンメル中央王国で通常入手可能な魔物避けの擲弾による魔力爆発など虚仮威こけおどしにもならない。神々の加護下、重騎兵が冷静であれば、効果は殆ど無い。乗り手が適確に防御するので、騎馬突撃の楔頭は崩れはしない。しかし、厄災の魔女アデレイドの冒険者たちは、擲弾一つで重装甲の戦車チャリオットを吹き飛ばし、重騎兵を何騎も纏めて薙ぎ払った。


「外法の影響ではざいません。神々の加護が消えてはおりませぬ。故に威力が尋常ならざるものかと存じます」


「知らぬもむべなるかな」


 厄災の魔女アデレイドは、外なる神々の力を欲しいままに使うと噂も絶えないが、彼女は外法など使わずに世の理の埒内で、尋常ならざる魔導具を組み上げる。疑う余地はなかった。

 最上位の冒険者でもある第一王女アビゲイルは、厄災の魔女アデレイドが創り出した様々な魔導具を幾度と無く使用した経験があり、魔女の傭兵団が使用する擲弾の魔力爆発の威力の高さを熟知していた。其れ故、彼女の麾下の中隊長級ならば十分に耐え得ると判断した。然したる障害ではないと。彼女は言葉を繋ぐ。


「其方ら鴉衆ならば、如何にして彼奴らあやつらを阻止せん」


 不意討ちの魔力爆発は耐えられるとしても、陣形が崩されるのを防ぐことはできない。


「最高位の看破持ちにすら彼奴らあやつらの動きを捉えること能わず、機先を望むは徒爾無益と存じます」


 鴉衆の頭目が眉を顰め答える。彼は自身の矜持を抑え込み、僅かな可能性すら吐露することはなかった。


「常に不意を襲われん」


 無表情の第一王女アビゲイルの言葉に鴉衆の頭目は無言で肯定した。


「其れもまた難儀なれど、悩ましきは……」


 鴉衆の頭目の復申を再度想い起こす。常に変化する戦場に於いて、魔女の傭兵団の動きは異常であった。予測可能であっても阻止することは不可能。


「因と果が逆様さかしまなことよ」


 第一王女アビゲイルが嘆息した。鴉衆の頭目は、心中避けていた事柄を、指摘されて一瞬だけ苦しげな表情を浮かべた。その気持ちの揺れを察したのか、彼女は賛同するように頷くと更に言葉を紡ぐ。


「神々すら偶然に翻弄されん。然れど厄災の魔女アデレイドは、世の理など無きが如く、易々と賽の目を従わせおる」


 この大陸にも名の知れた傭兵団は多数あるが、古今無双と称賛された西方域の騎馬軍団を相手に、僅かな兵力で斬首作戦を成功させる者たちなど存在し得ない。その場所、その瞬間、一切を過たずに躊躇なく動く。人の身で成し得るのかと、自身が人外と陰で囁かれる第一王女アビゲイルですら疑念が払えない。一連の戦術行動、何れか一つであっても僅かに違えれば、唯一無二の機会は訪れない。滅多な事ではないが、が幸運に恵まれ、大物を射止めることはある。それも戦場の理と言えた。彼女は、全ては厄災の魔女アデレイドの仕業であろうと思い至った。

 それは事実誤認ではあった。魔女の傭兵団はで敵将を討ち倒し、決定的な戦機を演出した。それは偶然や幸運による産物ではなく実力によるものであった。彼らが百回試みれば百回全て成功させる程度には戦理から逸脱した存在である。とは言え、第一王女アビゲイルによる魔女の傭兵団に対する過小評価は実害の伴うことではない。厄災の魔女アデレイドの存在が大き過ぎて、魔女の傭兵団の存在など誤差の範囲に収まるからだ。

 

「悠久の時の中で揺蕩う存在が、気まぐれにこの世に顕現したのやも知れぬ」


 第一王女アビゲイルの表情が僅かに緩む。超越者の存在を以て物事を断ずるべきではない。天佑天助など元より語るべくもない。莫迦げている。そう彼女は自省する。


 もし象棋チェス板を上から眺めているように戦場全体を実時間で把握可能ならば、誰にでも容易に成し遂げられることではあるな、と不意に思い至る。そのが超越者の存在を抜きに成り立たないのだから、という言い様が既に矛盾を孕んでいる。彼女は気が付かなかった。


 第一王女アビゲイルが益体もない思念に囚われそうになったところで、鴉衆の頭目が諌めるように告げた。


「此度は助けとなりましたが、次なる戦場で味方とは限りませんぞ」


「皆まで申すな」


 彼女は直ぐに右手を軽くかざし、彼の言葉を制して、如何にも承知とばかりに被せた。


「杞憂ぞ。厄災の魔女アデレイド民人たみびとを愛しておる。王家が民人と共にある限り敵対することなどない」


 そして数拍の間を置いて、重々しく命じた。


「此度の戦働きの一番は魔女の傭兵団と巷説を広めよ」


 アビゲイルは、王都の老人どもが憤死するのではないかと想像することで、思わす込み上げる笑いを抑えるのに難儀した。


「叛徒は指揮統制を喪失。不利を悟り前戦から次々と離脱。慥かに彼奴らあやつらの戦功は随一。承知仕りました」


 西方域の貴族連合軍は、その陣形が崩されると、グレーヴェ伯爵とマルーク伯爵の両伯率いる領兵の活躍もあって、全兵力一万七千余の兵力の中のおよそ三割の五千騎を喪失した。しかし、殲滅にまでは至らず、西方域の貴族連合軍は余力を残して西方域へ撤退した。王国軍に死者は無く、負傷者がわずかに五百騎程度。結果は王国軍の完勝と言えば完勝であった。


「両翼の動きが冴えず、両伯は失態を演じたようにも見ゆるな」


 第一王女アビゲイルが珍しく渋い表情を浮かべて考え込んだ。第二王子のリシャールを擁する東の公爵とその追唱者たちに付け入られるのも不愉快である。幸にして戦死者は一人もいない。一方、叛徒どもが全滅に至らなかったのは、殿を務めたグナイゼナウ子爵の手腕に拠るところが大きかった。味方が手を抜いた訳ではない。戦術目標である叛徒どもの撃退は達成している。しかし厄災の魔女に功績を取られたことを彼女の子飼いである両伯の責任問題にすり替えられないようにすべきであろう。


「調略の序でに道化を演じさせても良かろう」


 ミットヘンメル中央王国の第一王女アビゲイルは、勇気と知力を兼ね備えたグナイゼナウ子爵を当代随一の野戦指揮官であると大いに讃え、「肥沃なる平原」の一戦を収めた。



■神聖暦三三三年夏季ニノ月六日 夜明け前 リードベルグ辺境伯領境の渓谷の砦


 魔石燈の仄暗い室内。暗がりに白刃が疾り、血飛沫が飛ぶ。ドサッとか兵士たちが倒れると同時に闇から声が溶け出す。


「三ッ……」


 最早、その声を聞く者は誰もいない。砦の跳ね橋を守っていた不寝番の兵士三人がキースによって瞬時に無力化された。影と同化した様に音もなく近づき、象棋チェスに興じていた彼等の喉を双剣で切り裂いて血に溺れさせたのだ。


「遅いよね」


 キースは、魔女の森の奥底から帰還して以来、普通の人間たちの動きの遅さに近頃漸く慣れてきた。とは言え、自分自身が人ならざる者へと変容したのだと認めるのは、あまり気分の良い事ではない。


「跳ね橋を下ろして、取り敢えず、今日のお仕事はお仕舞い」


 彼は、そう独り言ちの後、跳ね橋を操作する絡繰りを動かした。


 数十拍の後、大きな音を立てて跳ね橋が降りた。深い峡谷に隔たれていた街道と関所の間に橋が掛かった。直ぐに守備兵たちが出てくるだろう。辺境伯軍の斥候によれば、守備隊の規模は高々五十人程度、ジェフリーとレイラにとって取るに足りない。勇者と剣聖。この世界の一体誰が二人に抗うことができるというのか?西方域の貴族連合の守備兵たちにとっては全く気の毒な話だ。


「ジェフ。これって何か狡くない?」


「そうか?」


 ジェフリーとレイラは、そう言葉を交わすと跳ね橋を渡り、開け放たれた砦の門の前で守備兵が出てくるのを待った。

 キースが「跳ね橋を下ろしてくるね」と一言残してからこの状況になるまで四半刻も経っていない。その間、彼は、渓谷を橋綱一本で越え、断崖を這い上り、城壁を越え、砦に侵入、不寝番を斃して羽橋を下ろすまでを何の苦も無くやって退けたのだ。レイラは、難攻不落と喧伝されていた砦が卓越した壁登りの技能の前に屈服した瞬間に立ち会い、その不条理さに不満を覚えた。自分の事を棚上げにしていることには気づかない。


「城壁とか城門の存在意義がないじゃない。頭おかしくなりそう」とレイラ。


「まあな……」とジェフリーが応じる。


 暗がりから大勢の兵士たちが近づく音が聞こえる。


「来たか……城壁壊すなよ」とジェフリーが注意を払うように促す。


「承知」とレイラが短く応える。


 どんッ!と衝撃波を残してレイラが瞬時に数十歩長の距離を詰める。開かれた城門に向けて突進。深淵の剣を振り抜けば、一撃で十数人の守備兵が吹き飛ばされた。

 悲鳴や怒号が吹き上がる。その只中にジェフリーは悠然と歩み入り、混乱の渦中、次々に守備兵を切り倒していく。

 一撃を放ち終えて役割は果たしたとばかりに、レイラは既に納刀していて、ジェフリーが戦う様子を眺めながら、時々、襲って来る敵兵に掌底を叩き込んで撃退していた。彼女の目には敵兵がジェフリーにわざと斬られている様に映った。奇妙な光景であった。


「やっぱり。ジェフ強くなり過ぎだよ」


「そうか?」


 二人は適当に言葉を交わしている。とてもじゃないが戦っているような雰囲気ではない。しかし周りは阿鼻叫喚。敵兵が残り数人となり、ジェフリーたちには敵わないと要塞の中に逃げ込むが、闇の中に潜んでいたキースによって、残り全員が刈り取られてしまった。


「お疲れさま」とキースが気の抜けた様子でジェフリーとレイラに声がけする。


「お疲れ」とレイラ。無言で頷くジェフリー。


「偉らそうな人の首も落としておいたよ」とキースは、砦の中に守備兵が一人も残ってないことを告げた。


「そうか」と応えて、ジェフリーが擲弾筒を使って信号弾を打ち上げる。


「青二つ」とキース。空に打ち上げられた光弾を目でおいながらそう呟く。


 ——人を相手にするのは苦手だ。魔物相手が気楽でいいよね。


 敵兵であっても何の罪もない人を斬るというのはどうにも気分が悪い。キースは兵士でも暗殺者でも野盗でもなく冒険者なのだから。身を守るためとは言え、三十一人衆の下人たちを殺めた後、暫くの間、気分が酷く落ち込んだ。今回の戦働きも同じように酷い気分になっている。


『誰もが誰かの犠牲の上に生きているのさ。絵空事で非難する奴らに尋ねるといい。それが何か問題?とね』


 キースの脳裏に無貌の修道女の声が鮮明に響く。彼女が語った通り、生きるとはそういうことなのだろう。小さなキースには何のことか分からなかったが、今のキースは確かにその通りだと実感している。忌避すべき事実から目を逸らしているつもりは無いが、お宝探しや救出活動の方がマシだと思う。


 キースが益体も無いことを考えながら、ジェフリーとレイラと共に城門付近で待つこと暫し、騎兵の一団がゆっくりと近づく音が聞こえてきた。続いて多数の歩兵の更新する足音も聞こえる。

 薄暗がりの中、先頭の騎馬から人影が降りる様子が見て取れた。キースたちに向かって歩み寄ってくる。ヨハンナ伯配だ。彼に随伴していた歩兵が素早く展開して、討ち取られた守備兵たちの骸を手際よく片付けて、ヨハンナ伯配であるエッカルト・デューラー男爵のために道を開ける。

 砦の門の篝火に浮かび上がるのは、中肉中背の三十代半で柔和な雰囲気を纏った文官風の男。厚手の皮衣に簡易な胸当てと足甲、それにリードベルク家の紋章入りの丈夫な外套を羽織り、水鳥の長尾羽で飾られた三角帽子を被っている。どちらかと言えば、狩装束という風体だ。


「辺境伯軍は気楽なもんだねぇ」とレイラが沈黙を破る。


「報酬弾んでもらったんだから文句言っちゃだめだよ」とキース。


 キースとレイラの戯言を聞き流し、気に止める事なく、ジェフリーが丁寧にデューラー男爵を迎えた。二人は旧知の中であるゆえに気さくに挨拶を交わしている。互いの近況について親しげに言葉を交わす様子をレイラは興味深気に眺めた。


「お貴族様ぽくないよね」とレイラ。


「そうだね。ヨハンナ伯もだけど、不思議なご夫婦だ」とキース。



■神聖暦三三三年夏季ニノ月七日 朝 西方域港町の商館執務室 


 ペルシアハル帝国の東方征伐軍を従えるハールーン・アッシードは、ミットヘンメル中央王国軍が西方域に進軍しないことを訝しんでいた。しかし、勇猛果敢なれど未だ嘗て戦理に悖る戦いを成した事など一度たりともない第一王女アビゲイルのことを思い起こし、彼女が兵站を無視して、ただ勢いに任せて西方域に進軍する可能性は低いと判断した。西方域を立て直す時間は残されている。


「まあ、順当と言うべきか……西方域まで一足長に進軍する事は無いか。第一殿も無理を通さず、準備に時を費やす腹積りなのだろう」


 斥候部隊の長を前に独り言のように語る。部下に語りかけているわけではない。彼の癖だ。整理する為に聞かせるでもなくブツブツと語るのだ。


「畑を焼く暇はなかったのが悔やまれる。いや、ひょっとすると……」


 彼は、ふと疑念がよぎったが、目前の最大の脅威たる第一王女アビゲイルの動向に集中すべきであろうと気を取り直す。

 アビゲイルが西方域に進軍するのであれば、今年の刈り入れ後、遅くとも来年の春先であろうと予測する。それでも常識的にはあり得ないほどの速さではある。第一王女アビゲイルの気性と能力を鑑みれば、常識を超えた速さで臨戦体制を整える筈だと彼は判断した。


「東域に内紛でも起せば、更に時を稼ぐ事ができるか……」


 第一王女アビゲイルが、同母弟の第五王子のバルデマーにこだわっていることは把握ずみだ。中央王国内部の火種は既に燻っている。あとは風を送るだけで炎が立ち昇るだろう。


「火種なら我らも抱えているな」とハールーンの相貌おもてに皮肉な笑いが浮かぶ。


 貴族連合は中央国軍の進軍に備えて、グナイゼナウ子爵が守備隊として三千騎を残し、自ら指揮をとって西方域東側の砦——「肥沃なる平原」との境となる渓谷を守備する——に籠っている。残存する九千騎は、休息と再編をかねて、各々の領地へと帰還していった。

 必要最小限の兵力ではあるが、長期間三千騎を駐屯させることは、砦の規模から難しいと言わざるを得ない。周囲に支城の無い状況下、東の領境の小さな砦に西方域の兵を貼り付け続けるのか、判断の為所しどころだ。

 グナイゼナウ子爵の手腕は優れているとはいえ、入婿であり名門とは言い難い家門出身であった。上位貴族や名門などから借り受けた三千騎を取りまとめるのは難しいだろう。敗戦の衝撃が和らぐ頃には不満も出てくる。


 先ずは、間者を使って、第一王女アビゲイルの動きをできる限り、詳細に把握すべきだ。戦線が流動的な今であれば「肥沃なる平原」の敵方への浸透も容易だ。敵情に応じて臨機応変に対処するのが肝要。その間に本国から遠征軍本体を早急に上陸させねばならない。最早、間接的な接近アプローチではなく、直接的な行動を強いられる状況となった。


「まったく余計なことを為出しでかしてくれた」


 彼は、自分の父親とその情婦たる外法の女を思い浮かべ、苦虫を噛んだ。



■神聖暦三三三年夏季ニノ月一〇日 夕刻 西方域と王家直轄領との両境の砦


「カネヒラほどではないが、其方、中々の古兵だね」


 白銀の長い髪を靡かせた妖精種の少女が虚空から滲み出る。魔女の娘にして深淵の娘たるアデレイドが姿を表した。死んだ魚のような瞳でボサボサ頭の一見して砦の司令官とは思えない風体の男を前にして、空中に浮かびながら、彼女は艶然として嗤う。


「なッ……」


 男は言葉に詰まる。その姿は白金の如く光を纏い美しく輝く。だか見栄えとは正反対に深淵の禍々しさが湧き立ち、執務室に溢れかえる。息が出来ないほどだ。目の前に浮いている少女らしきそれは、昔話の中の“無慈悲なる魔女”——厄災の魔女——そのものであった。彼は化物相手は軍人の仕事じゃないだろうと心の中で謐く。


「辺境の魔女様がこのようなむさ苦しい場所にお越し下さるとは思いもよらず取り乱しました事をお詫び致します」


 敵対状態ではあるが、直接、魔女の娘の広範囲殲滅魔法を浴びたわけでもなく、それなりに礼を尽くすべきであろうとの素早い判断であった。


「まあ良い。其方に所用あるは妾ではなく第一殿じゃ」


 転移門が開かれる。砦の司令官室と第一王女アビゲイルの陣が瞬時に繋がれば、快活な雰囲気を携えて、第一王女アビゲイルが子爵の執務室に供を連れずに入ってきた。


「其方がウィルヘルム・グナイゼナウ子爵であるか?」


「摂政殿下!」


 余りの珍事に自身の立場を忘れて、思わず席を立ち跪こうとするが、第一王女アビゲイルに止められる。


「其方は叛徒を従える西方域のぞ。今は妾に頭を垂れることは許さん」


「痛み入ります」


 二人は立ったまま対峙する。


「其方は、小麦、大麦、それに燕麦の畑すら燃やさなかった。何故か?」


 第一王女アビゲイルが強い眼差しを向けながら問い糺した。

 

「……逃げ延びるのに精一杯でした」


 グナイゼナウ子爵は、困ったような表情を浮かべて、頭を掻きながら応えた。しかし、第一王女アビゲイルは、彼の一連の戦術行動が和議に向けての最初の伝言であろうと考えた。

 彼が率いた西方域の貴族連合軍は、壊乱状態で逃げ去ったのではなく、組織的に抵抗しつつ、整然とこの砦まで撤退して見せたのだ。敵対者の兵站に僅かでも損害を与えることも思いつくであろうし、その時間も能力もあった筈。兵の配置を見れば明らかであった。意図的に畑を燃やす事なく撤退して見せたのだ。


うべし」


 暫しの間を置いて、第一王女アビゲイルは語りかける。


「然れど、此の小さき砦に三千騎。近隣の小貴族ばかり。其方の狙いは明白よ」


 そして彼女は獰猛な笑みを浮かべた。


「摂政殿下の侵攻に備えてのこと。名門も多く、先祖伝来の領地ゆえ、必死で戦いましょう。何ら不思議はございません」


 グナイゼナウ子爵は臆することなく、実に飄々と応えるが、心中では第一王女アビゲイルの洞察力に舌を巻く。しかし、この横着者は心の変化を表情に出すことはない。


「闘うて何を得る?其方らは失うばかりよ」


「我々は謀反人。引くも進むも地獄。であれば進むのみにございます」


 彼女は、少々、不機嫌になる。試されているような気分になったからだ。確かに目前の男は稀代の戦術家であろう。とは言え、戦略戦術を知らぬ小娘と思われているのか、武勇一辺倒の猪武者と思われているのか、つまらぬ問答で軽重を図られるのは、気分の良いものではない。しかし、それすらも死んだ魚のような目をしたこの男は見極めようとしているのかも知れない。


「其方らは今ここで妾の配下となれ。然すれば全て不問としよう」


 グナイゼナウ子爵は、これ以上はない、そう考えた。そもそも調略が有れば、迷わず砦も砦周辺の領地も第一王女アビゲイルに献上する予定であった。しかし、この時に此処での裏切りは、自領に残してきた一族を危うくする。


「それだけでこの戦は終わりますか?。西方域の貴族も郷士も多方調略済みです。そして帝国は強大……」


 少々、蛇足に過ぎる質問であったが、自領に隣接する領主で帝国に阿るであろう連中の顔が浮かび、口にせざるを得なかった。彼の幼い五人の子供達の命が危ぶまれた。子供達は自分の手が届く範囲にはいないのだ。


「異論を待たず。南方公爵殿が五日のうちに西方城塞都市ヴィッテンベルクを陥落させよう。然すれば西方域に潜む帝国軍に西端の港町を守る術など無い」


 余人が口にすれば妄言の類になるが、目の前の第一王女アビゲイルであれば既に終わったことの様に感じられた。


「……いや。そんな無茶な話が……」


 そこで止まる。今しがた、転移門——神々の御技すら凌駕する術——を見せつけられたばかりだ。無慈悲なる魔女アデレイドに視線を向ければ、己を深淵が見つめていた。詰まらないモノを眺めるように。


「いやはや、これでは戦さにもなりませんな。辺境の魔女様にはお手上げです」


 暫し沈黙。ため息が漏れる。石像の様に無言で厄災の魔女アデレイドは控えている。そこに第一王女アビゲイルは畳み掛ける。


「ペルシアハルの皇帝でもない一介の軍司令ごときの空手形を信じるほど、西方域の貴族どもは愚かなのか?帝国は水平線の向こうぞ。妾かそれとも謁見したこともない皇帝か?」


「どちらを頼るべきかなど年端もゆかぬ子供にも明らかではございますな」


 第一王女アビゲイルは如何にもと言わんばかりに男前に頷く。このタイミングで、子爵は賭けに勝ったことを確信する。また第一王女アビゲイルも調略の成功を確信した。


「其方らは妾と一戦して意地を見せた。妾とて自らの手を切り落として、帝国を利することなどやりとうない。大勢が決する前であれば中央の老人どもを黙らすことなど稚技にも等しい」


「さて、如何に」


 グナイゼナウ子爵は苦笑いを浮べた。


「今一度申す。其方は妾のモノとなれ!」


 莞爾として笑う第一王女アビゲイルの姿に眩しさを感じ、彼は己の卑小さを恥じ入った。



■神聖暦三三三年夏季ニノ月一三日 払暁 西方城塞都市ヴィッテンベルク外縁


 南方公爵軍及び南部辺境伯軍の連合軍数三万騎が攻城兵器とともに西方城塞都市ヴィッテンベルクを囲んだ。肥沃なる平原から撤退後、僅か八日後のことである。想像を遥かに超える進軍速度でミットヘンメル中央王国の大軍が西方域の中心部を突いた。西方域の貴族連合、帝国軍遠征軍、それに帝国に阿る民人に動揺が広がった。


「東門、北門が開放されました」と辺境伯配エッカルト・デューラー男爵が淡々と告げる。


「はっはっはっ。これは呆れる。辺境の魔女様の冒険者だ。実に実に恐ろしい」とヨルク・シュバーベン男爵が快活に笑う。


 彼は、南方公爵フリッツ・シュバーベンの領兵を束ねる長子であるが、中央王国軍の軍人として、成人後七年の軍務経験を持っている。年齢は二十三とまだまだ若く、厳ついとは言えないが、立派な体躯で戦装束が良く似合っている。デューラー男爵に比べれば、装備は物々しい印象になるが、戦場での軍装としてはシュバーベン男爵の身なりの方が相応しい。

 とは言え、ここまで戦闘らしい戦闘もなく、物見遊山の様相を呈していた。実際、南方公爵軍および南部辺境伯軍の連合軍は、無傷で領境を越えて西方領域に侵攻、今や最重要拠点の西方城塞都市ヴィッテンベルクを包囲している。


「外法の影響でしょう。ヴィッテンベルクの結界は全てかき消えております。守る術はございません」


「ならばデューラー卿よ。を突入させよ。我が方の兵はその後だ」


「承知」と応えて、デューラー男爵は、傍に控えていた伝令兵に指示を出す。


 勇者ジェフリー剣聖レイラの人智を超えた強さで守備兵たちの心を早々にへし折り、降伏させたい、そうシュバーベン男爵は想った。守備兵も住人たちも王国の民人なのだから、被害は最小限に抑えたい。それが本音であった。



■神聖暦三三三年夏季ニノ月一三日 夕刻 西方域の港町の商館


 歌声が微かに聞こえた。気のせいではない。そう確信したペルシアハル帝国の東方遠征軍司令ハールーン・アッシードは執務用の椅子から静かに立ち上がった。


『石の兵隊。私の可愛い石の兵隊。石の兵隊。具足を揃えて並べましょう……』


 確かに少女の歌声が聞こえる。コツコツコツと足音が近づく。足音以外の音がしない。建屋全体が何かに包まれたように静寂の中に在る。念の為に鈴を鳴らせば、澄んだ音が部屋に広がる。数拍の後、隣室に控えている筈の側仕えが入室する決まりであるが、一切反応がない。


 一度、扉の前で足音が止まるが、やがてコツコツコツと足音が遠ざかる。


 彼は剣を手に取り、聖女から下賜された抗魔抗呪の護符を首から下げて、ゆっくりと扉を開き、廊下に出る。廊下の奥、逆光の中、人影を認めた。その人影は豪奢な夜会服を纏った少女のものであった。裾を軽く持ち上げ、優美に頭を垂れる。淑女の礼を彼に向けた。


「異国の貴方様には石の兵士たちをご照覧あれ。陳腐で些細なものと憫笑されること勿れ。此れ等とて労苦を厭わず丹精込めて仕上げしもの。蒐集せしめた人形たちが、誰の目にも触れずは寂しく虚しい限りに候えば、自慢もまた幼き乙女の心とて、情けを賜るならば、これに代わる喜びは御座いませぬ。暫しの間、お付き合い召されよ」


 周囲の壁が光に溶けて港町の風景が広がる。転移の魔術か魔道具か。帝国史上最も力のある神聖不可侵な存在から下賜された抗呪・抗魔の護符が阻止できなかったのであれば神技の類の可能性は高い。何であれこの事態は、可成り不味い状況だと彼は理解し、視線を周囲に走らせた。そこで息を呑む。鼓動すら止まりそうになる。感覚が捉えても悟性が認識を拒む。

 彼の目前には数千体の石像。生きているような現実感のある彫像が、整然と立ち並んでいる。日々の生活で眼にするような動作、見事に喜怒哀楽を表す表情、精緻に作り込まれた服装に装飾品。英雄でもない市井の人々の精緻な彫像など誰が好き好んでこれだけの数を揃えるのだろうか。自分は気がつかないうちに眠りに落ちて夢の中にいるのだ。

 しかし、である。その中によくよく見知った男たちに生き写しの石像を認めると、本能的に怖気が全身を巡った。目前の石像は、彼の配下である帝国兵——東方遠征軍を構成する古兵たち——であり、少なくとも昨日までは生きていた筈の者たちだ。


「悪い夢だ……」とハールーンの心臓が早鐘の如く脈打つ。喉が渇き声が掠れる。呼吸するのも苦しく、肺臓が焼けるような感覚に意識が支配される。


「夢に如かず幻に非ず。其はうつつなり」


 そう語りかけてくる少女の声には、頭蓋の内側を引っ掻くように不快な音が重なる。可聴域を越えた領域で、無数の声による呪文が幾重にも唱えられる。


「有り得ない。このようなことは決して……」


 彼は脳幹が絞り込まれるような感覚に襲われ、意識が遠のいてゆく。身体の自由は失われ、みるみる内に石化した。


ついは汝なればこそ……」


 石化した彼の背後には深淵が口を開けていた。



■神聖暦三三三年夏季ニノ月一四日 早朝 西方域の港町


 避難民で溢れかえる港。大型の商船の一つが埠頭を離れようとしている。甲板の上から避難民に侮蔑の視線を投げかけている女がいる。外法を操る一族の女バリクィース・コーニアだ。自身の一族も百年近く前にこのように故郷を追われた。彼女の心中に苛立ちと怒りが湧き立つ。ミットヘンメル中央王国やその第一王女アビゲイルに敵愾心をたぎらせる。


第一王女あの女は気に入らない。全く癪に障るなんてもんじゃない。いずれ汚辱に塗れさせ跪かせてやるさ」


 彼女の心中は荒れていた。逃げ惑う西方域の中央国の民人たちの覚悟の無さが癇に障る。避難民でごった返す港の様子に劣等感が刺激される。美しさも強さも賢さも全てを備え、ミットヘンメル中央王国の至宝と讃えられる存在。その者に敗北したという事実を突きつけられているからだ。


「アビゲイル・リウドルファング!」


 光と影。実に陳腐な対比ではあるが、帝国の暗部として、余所者として差別され、どんなに己を磨こうとも讃えられることもない。誰かの憧れの存在となることもない。誰にも知られぬ存在。使い潰されるだけの影の存在。それが己である。


 いつの間にか、彼女は心の中でアビゲイルを散々に罵倒していた。


 持たざる者の妬み、嫉み、恨みというのは厄介であろう。散々に嘲り終えると虚しさに襲われた。我先に商船に乗り込もうとして、難民たちが揉み合い争うを、怒鳴り合い諍う様を、バリクィースは、冷めた視線で暫し間、眺めていた。


「バカな奴らさ。帝国と中央王国の美味しいところだけを何時迄も吸っていられる筈もなかろう」


 自らの一族も過去に体験したであろう似た様な光景に虚無感を覚えると、ふと彼女の口から思わぬ名前が溢れた。


「厄災の魔女……」


 不意に溢れた言葉に震えが脊柱を奔り昇る。アビゲイルとは違う。己とは余りにも隔絶した存在に悪寒を感じて身震いする。両手で自分を抱きしめるように震えを止めようとした。


「御伽話じゃなかったのか……」


 百年ほど前の史実。南洋都市国家同盟の侵攻部隊は、中央王国の南部辺境で一夜にしてほぼ壊滅した。生き残りの証言によれば、兵士は生きたまま石像にされたという。悪い薬に手出した臆病者の白昼夢の筈だった。不都合な真実を隠すための御伽話カバーストーリー。それが現実に起こった出来事であったのだと思い知らされた。


 バリクィースは、厄災の魔女の姿を直接見たわけではない。彼女が目にした事、それは自分の娼館に設た贅沢な寝室の窓越しの風景、朝焼けに映える港の風景、その中の違和感。無数の等身大の石像が整然と並ぶ異様さ。彼女の本能が直ぐに逃げろと叫び声を上げた。

 神々すら侮蔑する外法の女が魔女の娘を畏怖する。厄災の魔女の力に慄く。ハールーン・アッシードの敗北を直感しだけではなく、得体の知れない根源的な恐怖が空気に溶け込んで遍在していると感じたからだ。一刻も早く中央王国から逃れなければ己に覆い被さってくる死のイメージが命を喰らい尽くしてしまう。


 彼女は迷うことなどなかった。また彼女は常に用心深かった。商船による逃走経路の確保も活動拠点の娼館に対する逃走後の指示も抜かりなどない。自身の保有する商船に身一つで乗り込めば、四半刻経たずに港を離れることができた。


「南端の神殿に身を潜めよう。今回の敗戦を皇帝は許さないだろう。アッシードの家はしまいだ……」


 波の向こうの港町を眺めながらバリクィースは独言した。



補遺

 この物語における外法とは、信仰厚き人々が用いる言い回しに過ぎず、神々の根源の埒内にある力の一端である。世の理を乱す外法も多少毛色が異なる魔術体系に過ぎない。この世界の神々は吝嗇であり、神々は臆病であり、そして神々は怠惰である。神々は人々から捧げられる信仰心には貪欲であるが、人々の心の力を真に恐れるが故に、信仰者たちには、決して魔術や奇跡の根源たる力を与えることはない。


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