魔女の娘と破滅する者たち
第21話 外患内憂
■神聖暦三三三年春季三ノ月二五日 正教会南方統括大聖堂の大司教執務室
ヒルデガルドは、希少価値の高い聖遺物が外法の発動媒体として利用されていたことに我慢ならなかった。義憤や公憤などではなく、彼女の怒りは個人的な理由によるものだった。
彼女は、ジェームスから手渡された呪物を執務机の上で検分していたが、突然、顔色を変えて聖笏を呪物に叩きつけようとした。
「よくもこんなことをッ!」
ヒルデガルドは、目前にジェームスやキースが控えているにも関わらず、我を忘れるほど激怒した。温厚で学究肌ではあるが、信仰だけに囚われることはなく、時に政治的な妥協も厭わない、そんな強かさも備えた大司教という表向きの仮面が崩れ落ちるほどであった。
「ヒルデ様ッ!」
ジェームスと共に面会に望んでいたキースが慌てて止めに入る。瞬時にヒルデガルトの左側から回り込み、呪物との間に体を滑り込ませて、振り上げた聖笏を絡め取る。彼女を抱えて、互いの体を入れ替えるようにして、聖笏での打撃を試みた彼女の勢いを逸らした。
その際、キースとヒルデガルドの唇が触れ合うような距離にまで近づいた所為もあって、キースが保有する死霊術の力がヒルデガルドに掛けられている認識阻害の術を数拍の間ではあったが無効化した。彼女の面差しが顕となる。
瞬きする隙も無く、キースの眼差しが虜になる。傾国の美女が突如として現れ、キースは息を呑む。視線が交わる。
別人の顔ではあるが、其れこそが確かにヒルデガルドだと覚知した。そして昔から見知っていたという既視感に驚く。
「お、落ち着いてください」とキースが顔を赤くする。
先ずは、お前が落ち着けと、ジェームスが視線を送っている。戦闘訓練を受けていない只の信仰者の打撃など容易に逸らすことができる。大袈裟な立ち回りは不要であった。
キースに抱き寄せられて、互いの温もりと柔らかさを感じて、怒りによる震えが止まる。ヒルデガルドは我に返り、「あっ……」と小さな声を上げて恥じらう。
「キース。猊下に触れるのは拙いのではないか?」とジェームス。
「わ、わっ、ごめんなさい。ヒルデ様。ご、ご無礼をお許しください」
ちなみにヒルデガルドは、キースのことを優秀な女冒険者だと思っている。今も昔も変わらず。男名など気に留めない。彼女の本性は自分の関心事以外には無頓着。全くもって、感情も知識も常識も偏っていると言わざるを得ない。彼女の存在理由たる聖ロングヒルの足跡を余す事無く辿ること、聖ロングヒルの挿話や聖遺物を収集すること、其れらに関わると彼女の感情の箍が簡単に外れてしまう。今回は取り分け酷かった。
この呪物には、聖ロングヒルが祝福した九つの聖杯、その一つが使われていた。聖ロングヒルの九つの聖杯は、神の器とも呼ばれるほどの聖遺物。今世では『九つの聖杯が揃えば神域が開かれ、神々の領域に招かれて、永遠の喜びが授けられる』という言い伝えが残っている。
残念なことに、呪物の触媒として組み込まれていた聖ロングヒルの聖杯の一つは完全に力を失っていた。残り八つを揃えたところで、永遠に神域が開かれることが無い、という現実がヒルデガルドの目の前に転がっていた。
聖ロングヒルは、彼女の全てと言える。彼の足跡を辿り、彼に習い、神域を開き、異界に至ることこそ彼女の願いだ。異界を渡り、世界の理の深淵に触れるために、彼女は存在すると言っても過言ではない。神々にそのように創られたのだから。しかし、神々の下に至る道は、外法を弄ぶ者達によって既に閉ざされていた。許せるはずがなかった。
同席していたキースが慌てて止めに入るほどの取り乱し様ではあったが、キースに宥められて、落ち着きを取り戻すと、直ちに側仕えを呼び、枢機卿会の開催を指示した。
■神聖暦三三三年夏季一ノ月一〇日 王都正教会大聖堂の枢機卿会議室
「奇跡を捻じ曲げ、外法を顕現させるなど、神々の栄光を汚す行為に他ならない。世の理を
憤怒の念が込められた彼女の言葉が青白い炎を纏って臨席した枢機卿たちの瞋恚を焚き付ける。
「否。断じて否である」と西方域の年老いた枢機卿が決然と応える。
この年老いた枢機卿は西方域の出身であり、慣習に従うのであれば、同郷の城塞都市の領主代行を弁護する立場にある。しかし、今世の聖人とまで謳われるほど信仰心に篤く、奇跡の代行者として人々から讃えられる者として、無辜なる民人たちを冥府に追いやった涜神者を許せなかった。
個人的な理由もある。押し殺していた感情が溢れ出る。煉獄の門の魔物氾濫が発生した日に、彼は血縁者や知人のほとんどを失った。彼の穏やかな祈りの日々が、終わらぬ悔恨の日々へと変容した日であった。それも彼自身の言葉による涜神者への断罪によって、今日ようやく終りが告げられた。
「魔物氾濫を惹起せしめし者。唆せし者も。悪しき神々の御名においてすら許されざる者。その汚れた魂魄は煉獄の門に繋がれるべし」
ヒルデガルドは満足げに頷き、神々の御名と共に、この年老いた枢機卿を讃えれば、列席の枢機卿全員も口々に神々を讃える祈りを捧げ、賛意を示した。全会一致であった。
■神聖暦三三三年夏季一ノ月一二日 西方域に向かう街道
西方城塞都市の領主代行アウグステス・ヴィルへイムが刑死した日から遡ること三日。
アウグステスに対する破門理由は、西方域の貴族達に衝撃を与えた。その日の内に不穏な気配が王国全土に燎原の火の如く広がった。事態を重く観た王国宰相が、即日、王都冒険者組合副本部長を経由してアウグステスに出頭を要請した。しかし、彼は、宰相の要請を無視し、西方域へと逃亡を企てた。
王都の西方域の貴族たちや裏組織に協力を依頼するも、全ての伝手で拒まれたため、彼は単身で王都を脱出する羽目に陥った。
「恩知らずどもめ!」
彼は内心で毒付きながら、王都の迷路のような裏路地や排水路を駆け抜けた。
神々の恩寵に与かる王国の民人は、貴賤を問わず、背教者を隠匿することも逃亡を幇助することもあり得ない。冷静になれば、破門された瞬間、魔物と扱いは同じであろうことは理解できた。心が冷えることで現実が見えてくる。そうなれば腹を括るだけだ。領主代行ではあるが、生来育ちの良い貴族というわけではなく、そもそも彼自身は中堅以上の実力を持った元冒険者だった。
「西方人を舐めるなッ。王都の衛兵如きに捕まるかよ」
夜陰に乗じて、王都を脱出すること自体はそれほど難しくはなかった。彼にとっての不幸は、逃亡の可能性に備えて、宰相が予め王都冒険者組合副本部長に捕縛を命じていたことだ。
衛兵たちの監視網を潜り抜け、王都の城壁外に脱出するまでは、何の困難もなかった。その後の選択が拙かった。彼は、水路を経由して南東部の海岸に出て、南洋都市国家同盟経由で、西方域に逃れるべきだった。焦りが判断を鈍らせたのか、最短経路となる西方域に向かう街道で、待ち構えていた王都の冒険者たちに捉えられた。彼を捕縛したのは、“最優”と称えられる若手の冒険者一党の頭目であった。
「ここがお前様の終の場所です」
細剣を構える姿は、戦士というより、遊郭の歌姫のようである。
「エミリー・ローレン!?」
アウグステスが驚きの声をあげる。一切の気配無く、唐突に最優と称される一党の女頭目の姿が闇より浮かび上がった。鴉色の皮革鎧は、身体に吸い付くように、女性らしい曲線を強調する。露出した腹部から背部にわたり、荊棘の蔓の刺青が纏わりついている。禍々しくも美しい。黒髪も相まって、悪しき神々の使徒のような見栄えだ。男という生き物の劣情を掻き立てるには十分であろう。彼は一瞬の隙を突かれた。そして捕縛の術により身体の自由を奪われる。
「油断したな」
硬直してその場に倒れたアウグステスをエミリーは無表情に見下ろす。彼は、何も言い返せない。ただ忌々しげに見上げていた。騎馬が近づいてくる音が遠くから聞こえ始めると、エミリーは、それ以上は何もせず何も言わず、彼女の背後に控えていた一党と共に踵を返して闇に消えた。
「北方の淫婦め!」
アウグステスは、屈辱のあまり、ついに怨嗟の声を上げるが、それは闇に虚しく吸い込まれ、誰の耳にも届かなかった。
彼は、騎兵に捕縛された後、わずか三日で王命によって斬首となった。正式な裁判を受けることもなく、実際、王命だったのか疑わしかった。過去の不都合な事実は、外法に手を染めていない王国貴族達の関心事とはならなかった。
しかし、北方の公爵ヤーヴィス・ノルトハイムの派閥の貴族達にとって、降って沸いた様な絶好の機会となった。彼らにとって、目下、政治的な障害となっていた西方城塞都市ヴィッテンベルクの
謀殺された
■神聖暦三三三年夏季一ノ月二〇日 王国宰相執務室
王都に悪い知らせが届いた。西方域の貴族連合が現王に反旗を翻したのだ。直接的な原因は、西方城塞都市ヴィッテンベルクの領主代行アウグステス・ヴィルへイムという重しが外れたことにある。
帝国の全面支援を前提とするも、彼ら反乱軍の動きは堅実にして素早く、また大胆であった。海上を除く、西方への交通線の全てを、其の要衝を開戦初頭で全ておさえることに成功した。
北方公爵ノルトハイム領との領境の険しい山岳地帯の要所を崩壊させ、交通線を遮断。また西方域城塞都市と王国南部を繋ぐ要所を守る渓谷の砦を占拠。反乱軍から見て東側、王国の直轄領となっている平原に速やかに軍を進めた。反乱軍の敵の総兵力は一万七千余。軽騎兵であれば王都まで四日の距離にあった。兵を分散させるという愚を犯さず、ほぼ全軍を東の戦線に兵力を集中させた。戦術的には正しい。また戦略的にも割り切りの良い判断であった。
但し、帝国の海上交通線が確保されていることが大前提であり、帝国よる本領安堵の確約が有れば、であろう。
「短慮にも程がある……」
王国の宰相ゲルトルート・ノルトハイム侯爵が執務室で呻いた。東方公爵派閥の対抗馬である北方公爵に連なる者として、西方域を傘下に収めるべく影響力を行使していたが、帝国の仕掛けの方が上手であった。彼は、凡庸ではないが英才とは言い難く、調整型であって大鉈を振るう性格ではない。彼は、今回の反乱の下地を作ったのが、自らが行った中途半端な政策であると後悔した。
五年前、西方域の徴税率を三〇年前と同じ水準——他の地域と同率——に戻した。長期間、特別扱いを当然と思う程に甘やかされることに馴れていた西方域にとっては苛烈な政策に思えたのだろう。
本来なら、帝国に対する備えとして、国王の直轄軍あるいは北方公爵軍を西方域唯一の港街に進駐させるための増税という名目であるべきだった。目に見える形で、王国からの恩恵を示す必要があった。しかし、現王と北方公爵の二人が難色を示したため、港町の接収も進駐も実現することはなかった。
増税だけが実施されたため、結果として、王都の贅沢な暮らしを維持するための搾取に過ぎないという声が高まった。そこに付け込まれる形で、帝国による西方域の調略が一気に進んだと言える。領土的な野心のある帝国は、血ではなく金で切り取れるならと、貿易を通じて膨大な資金を王国西方域に投入した。
「西方域は王都に較べればまだまだ貧しく、人手が足りていない。王国軍と戦える筈もないのだが、
宰相は、帝国の空手形に踊らされる程度には、帝国の調略が西方域の日常風景に溶け込んでいると、思い至った。
■神聖暦三三三年夏季一ノ月二〇日 同日 西方域最大の港町の或る商館
西方域最大の港町。帝国との貿易拠点でもある。その大きめの商館の一つの執務室で男が、王国宰相と同じように呟いていた。
「軽率すぎる」
彼の名はハールーン・アッシード。帝国の東方侵攻の調略の指令塔であり、正面戦闘においては、東方遠征軍の司令を務める才人である。西方城の城塞都市の
帝国本国には報告を上げたものの、彼は直接的に動くことはなかった。傘下に収めた西方域の有力貴族に使者を送ることもなかった。王国の諜報部隊に西方貴族連合の要を察知されないように警戒したためだ。
「貴族連合を抑え込むべきだったか?」と彼は自問する。
彼の直下の即応部隊として特別に訓練された帝国兵たちが、商船の船員や貿易商の使用人に扮して、この王国の港町に一個旅団分(七千人程)を上陸させており、いつでも軍事行動を採れる体制ではあった。今となっては、西方域の貴族たちに対する接近方法が慎重すぎたことに僅かばかりの後悔もある。
西方域への人的な浸透は、三〇年前から静かにそして継続的に行われ、今現在も順調に進んでいる。二年前に引退した父親に代わって、彼が浸透作戦の指揮を担っている。
西方域の主要貴族だけでなく、領地の有力商人一族や豪農一族も帝国の意志——帝国東方遠征軍の本体がこの地に姿を現わせば——を喜んで受け入れるだろう。彼はそう確信していた。
人的侵略はおおよそ一世代もあれば十分な効果を発揮するものだ。それは、時を隔てようとも世界を異にしようとも、迂遠だが最も効果的な侵略の手管である。
「このまま流れに乗るということも無くは無い」
しかし、彼は西方域の貴族たちが戦端を開いたことで、却って帝国の勝利が揺らいていると感じた。
帝国遠征軍司令であるハールーンは「やはり時節が悪い」と
帝国東部の軍港から南回りで、一〇日もあれば、この地に到達できる。途中竜の巣と呼ばれる海域を通過しなければならない。そこは夏季から秋季にかけて、台風が頻繁に発生し、航路が荒れる。迂回する場合は、三ヶ月を要する北回りの航路しかない。帝国から王国まではやはり遠すぎるのだ。
二〇年で下地を作り上げ、その後一〇年の時をかけて、西方域の貴族たちに様々な軍事的経済的支援を続け、入念に王国侵攻の策源地を整えてきた。彼と彼の父親は、帝国貴族たちから疑いの目を向けられ讒言されることもあった。有形無形の妨害工作に晒されながらも、帝国皇室に対する愚直過ぎる忠誠心を拠り所に挫けることなく調略を進めた。そして今や偉業の達成は目前にまで迫ってきていた。
■神聖暦三三三年夏季一ノ月二〇日 同日 王城軍議場
西方域の反乱に対して、王国宰相ゲルトルート・ノルトハイムは、その日の内に諸侯を招集して、西方域の反乱に備えるも、東方の大公爵ヴァルモンド・オルソカールは軍務卿ゲオルグ・ラーヴェンスベルクが主張する強硬策である王命による討伐を拒んだ。使者を送り、話し合いで解決する道を探るべきである、とオルタムミア公ヴァルモンド・オルソカールの一派は口々に王国人同士話せばわかると主張した。
苛烈な性格のオルタムミア公とその一派には似つかわしくない言動ではあるが、彼らは時節を見誤るほど愚かではなかった。実際、ミットヘンメル中央王国は、南洋都市国家同盟による中央国南方域への侵攻の気配、東方域を襲った黒き厄災など、国内の主要地域に大きな問題を抱えている。
オルタムミア公は、東方域の自派閥の穏健派貴族から大規模派兵は避けるべきだと意見具申されていることもあり、西方域への派兵には慎重にならざるを得なかった。また宰相ゲルトルート・ノルトハイムも自派閥である北方公爵軍を直接派兵できない状況下にあって、討伐の功績を他派閥に奪われてはならないという想いが強すぎた。
王家に対する忠誠心が軍服を着てあるいているような軍務卿と豪放磊落ではあるが政治・経済に造詣が深く柔軟でもある東方公爵とが舌戦を繰り返す中、宰相は沈黙を守り続け、軍議の大勢が融和派の意見に傾きかけた。その時、近衛兵を引き連れて
「我が王国の諸侯は武人の魂を持ち合わせておらぬようだなッ!」
第一王女アビゲイルが居並ぶ諸侯を前に大声で叱責する。玉無しどもめと。下品も度が過ぎた。軍議に列席した諸侯を唖然とさせるには十分であった。彼女は獰猛な笑顔を浮かべて、諸侯を見回しながら、大股で上座へと歩を進める。
「アビゲイル殿下。軍議にございますれば、お控えください」と宰相が諌める。
「黙れ!」
魔物を相手に威圧する様にアビゲイルが殺気を放つ。歴代最強の剣聖にして、最高の野戦指揮官である彼女に敵う者など、王国中を探しても数える程しかいない。議場にならぶ、貴族では相手にならない。
「謀反人どもに膝を折るなどあってはならん。ましてや使者として
「殿下。然れども軍議にて——」
「騏驎も老いては駑馬に劣るなッ!」
宰相は言葉に詰まる。
「なッ!」
彼は自身の孫のようにアビゲイルを幼少期から可愛がっていた。彼女から思いもよらぬ辛辣な叱責を受けたことに衝撃を受けた。それだけ年老いて気持ちが弱くなっていたのかもしれない。
「貴様の任を解く。領地に戻って花でも愛でておれ」
アビゲイルの側に控えていた親衛隊の四名が、宰相を取り押さえて、躊躇なく退出させる。なにやら喚き散らかしていたが、彼女は全く何も聞えないように、また何事も無かったかのように振る舞う。議場の最奥、宰相が座していた中央の席に、勿体ぶった動作で、どっかと腰を下ろした。美しい見栄えに相反する無骨で男前な仕草だ。
「さあ、軍議を始めようではないか」
王城内で帯刀が許されているのは、王族と直轄の護衛や近衛兵だけであったため、大貴族と雖も、横暴な第一王女に従わざるを得なかった。
彼らから見れば、小娘の様な第一王女に自分の矜持やら面目やら威風やら諸々を潰されたのだ。慙恨、恨憤、憤怨、怨悪、嫌厭、厭悪——無数の悪感情が澎湃のように軍議の場を飲み込む。誰もが苦虫を噛み潰したような表情で無言を貫こうとした最中に光が降り注いだ。
軍議が執り行われている暗い室内、その天井が抜けた様に、晴天からの陽光に満たされた。暗く粘りつく黒い気配を白く塗り潰す。議場の誰もが呆気に取られる。
光とは対極の存在——深淵の娘にして魔女の娘——無慈悲なる魔女の二つ名で呼ばれる者、アデレイドが嫣然として、清浄な光の
彼女は、白金色のドレスを纏い、金糸の刺繍で飾られたレースの
「摂政殿下。辺境伯領との古き盟約に従いて、ヨハンナ伯の名代たるアデレイド、御身の前に仕り候う」
優美に跪いて、
彼女は、第一王女の前に恭しく床に跪いているように見えるが、濃厚な魔素が霧の如く、沸き立つ中に浮いていた。濃厚な魔素に影響されない力ある者、或いは祀ろわぬ者であれば、彼女の足下に深淵が口をあけていることを見るだろう。
善き神々から強い加護を受けた者たちが、魔女の魅了から覚めると、大いに驚き、声を潜めて、口々に憎悪と厭忌、嫌悪と嫌厭の言葉を漏らす。
「凶変……」「魔女……」「厄災……」「禍殃……」
議場に臨席した諸侯からアビゲイルに向けられていた悪感情の全てをアデレイドが吸い込むよう奪い取った。普段、滅多に感情を表に出さない軍務卿ですら、苦々しい表情を浮かべ、彼女を睨み付けている。アビゲイルは、軍議に列席している諸侯を嗜め、彼らが醜態を晒すことを許さなかった。
「大儀である。ヨハンナ女伯の忠義は嬉しく思う。然れど——」アビゲイルは決然と言い放つ。「聖杖も魔杖も王笏の代わりたり得ぬのだ」と。
しかし、無慈悲な魔女は嫣然と咲う。アビゲイルの内に秘めたる覚悟を嗤う。王族の矜持を大いに嘲る。外なる神々に連なる者は世の理すら
「此度の戦、外法を好む帝国の影も色濃く
そう告げると無慈悲なる魔女は返事も待たずに虚空へと姿を消した。数拍後、自ずから喜悦が溢れんとするを取り繕うかのようにアビゲイルが「厄災め。全く憎げなりや」と呟いた。
彼女は続けて「軍務卿。いや侯爵殿。中央街道北西の砦に国軍を集結させよ」と命じ、「千も揃えば、直ちに打って出るぞ」と宣べれば、軍務卿は「三千騎は招集可能かと」と即答する。
「まかせる。討伐軍の先鋒は我が末弟とする。初陣を飾らせてやろうではないか。後詰は異母弟の第二殿とせよ」
ここで、アビゲイルが、体の弱い同母弟第五王子を引っ張り出すとは、その場にいた諸侯にとっては予想外であった。しかし、それなりに目算が立つのであれば、悪くない選択肢であると東方の公爵家を中心とする主流派は考え、異議は唱えなかった。
少なくとも一戦交えることで、王国と王家の面目は立つ、勿論、負けないという前提ではある。おそらく、バケモノじみた第一王女個人の戦力があれば、最悪でも膠着状態にまでは持ち込める筈だ。その後、主流派が後ろ盾となって、第二王子を出陣させて、西方域の貴族連合と和議を結ばせれば良かろう、という程度の甘い目論見は立てられた。
この時は、国王派閥である第一王女を中心とする国王派と主流派を自認する東方の公爵家派閥は、互いに利有りと判じた。
「西部平原に隣接する二つの領地。両伯爵は、各々戦上手であったか?」
軍務卿は肯首して「都合よく領地に戻っております」と含みを持たせた。
「重畳重畳。彼奴等に命じよ。全領兵を率いて参陣し、王家に忠誠を示せと」
「御意」と一礼する。
「公爵殿。貴卿に命じる。討伐軍の輜重を担え。仔細は軍務卿と合議の上、早急に決めよ」
「畏まりました」と東方の公爵は表情を変えずに応えた。
■神聖暦三三三年夏季一ノ月二五日 南洋都市国家同盟の北部城塞城壁
西方域の貴族連合の反乱に呼応するように南洋都市国家同盟が辺境伯領に侵攻を開始した。
事前に戦の準備を終えていたヨハンナ・リートベルグ辺境伯領の領軍は、初日で南洋都市国家同盟の遠征軍三千騎を蹴散した。三方から分進する敵兵を各々隘路に潜んで、事前に設置し隠蔽した投擲機を用いて迎撃、殲滅した。その勢いに乗って、辺境伯の領軍の【龍馬】で構成された一五〇〇騎の軽騎兵が長駆、南洋都市国家同盟の策源地となっていた要塞都市までも開戦二日目で陥落させた。
「一体何がしたかったのやら」
冴えない中年男が後頭部を掻きながら、心底、敵の意図が理解できないという表情を浮かべた。占拠した南洋都市国家同盟の要塞都市の城壁の上からは、遠方に広がる柔らかな海を遠くに望むことができる。彼は、ぼんやりと、海を眺めている。
「事前に構築した警戒線に見事に掛ったのは僥倖。普通なら気づかないまま、
冴えない中年男の横で黒い鎧の偉丈夫が語る。
「あの辺は、魔女の森とまではいかないが、巨木に覆われた厄介な場所だ。連中、木樵にでも成るつもりだったのか?」
「領都直撃の進路をあえて選ばず迂回して領軍を誘い出す。見方を変えれば良策なのだが、あの辺りでは只々孤立するだけだ。戦術的に何の意味もなさない」
「連中が自領に居座っていて、ちょっとイラつく、という効果はあるだろう」
「放置できないのであれば、糧道を断って、干上がるのを待てばよい。僅かな兵力で事足りるな」
「そうそう。だから何をしたかったのかさっぱりわからない。それに——」
「——立てこもりたいのであれば、あんな軍編成にはしない。速度を重視した編成だぞ。それなら連中の意図は奇襲だ」と偉丈夫が応えつつ、自問するように「無人の巨木の森に奇襲か?」と疑問を口にして、「馬鹿馬鹿しい……」と自ら切って捨てた。
「……」
冴えない中年男は無言で肩を竦める。
ペルシアハル帝国は、侵略前の調略の一環として、有利な通商条約の締結を餌に南洋都市国家同盟を唆し、中央王国の辺境伯領に侵攻させることに成功した。南洋都市国家同盟は海上戦力が主力であり、彼らが内陸部に北進する場合、常に兵站の問題に悩まされていた。継戦能力は低く、長期間、ヨハンナ伯の領軍を釘付けにすることは不可能である。其れ故、何事か新たな手立てを講じた筈ではあるが、その手立てが何であったのか見当がつかない。戦理に悖る侵攻の裏側に隠された意図を察することは難しい。
「あったよ〜。はいこれ」
声がした。空間が僅かに揺らくと、ジワリっと、黒き妖精種の少女が滲み出てきた。フワフワと漂いながら、冴えない中年男に近づく。嬉しそうに目を細めながら、箱型の魔道具を手渡した。彼は、少女に礼を返し、彼女の頭をよしよしと撫でた。撫でられ喜ぶ様子はまるで猫のようであった。
「微妙な線が繋がったぜ」と冴えない中年男が嫌味な笑い顔を浮かべる。
「カネヒラ。そりゃ何だ?」と黒鎧にみを包んだドナルドが尋ねる。
「呪物さ。これで迷宮に悪さを仕掛ける。壊れていない物は俺も初見だがな」
■神聖暦三三三年夏季一ノ月二五日 西方域港町の商館執務室
「今世、王国に聖女はいない」と女は嗤う。外法を操る一族の女。その名はバリクィース・コーニア。帝国の暗部組織に組み込まれてはいるが、三代前は南洋都市国家同盟の南端の氏族であった。政争敗れ帝国に亡命するも、氏族に伝わる秘術により帝国内で成り上がった。
「聖女の祈りが無いから、王国の馬鹿どもは、簡単に狂騒状態に陥るのさ」
帝国の遠征軍司令ハールーン・アッシードは、人前で感情を露わにしない。成程、此奴が元凶だったかと不快になるが、彼は表情を変えることはなかった。
「旦那が言ってたよ。坊ちゃんは慎重すぎるのが欠点だとか。だから後押しをお願いされたのさ」
「親父殿が……」
彼の父親は豪胆な軍人ではある。戦術眼にも戦略思考においても優れていた。しかし、屡々政略の議論が抜け落ちている、と言わざるを得ない。無人の荒野に軍旗を掲げて、勝利を高らかに宣言することほど虚しく愚かなことはない。そもそも戦は始めることより終わらせる方が比較にならないほど困難だ。終結を描かずに戦端を開くことなどあってはならない。誰もが知っている事だ。
外法によって、掻き立てられた恐怖と根拠のない万能感が湧き立ち、僅かな可能性を恰も現実であるかの如く錯覚したのであろう。貴族連合は狂騒状態で王国との完全対決の意思を高らかに宣言した。もはや後戻りできなくなった。戦略目標すら定めずして、一体何を成そうというのだ。彼は訝しむ。自分の父親が呆けたのか、あるいは外法の一族の女にいいように操られているのか、と。
「王国の腑抜けどもはお話合いで何とかなると思い込んでいるのさ。付け込んでおやりよ。肥沃な平原は切り取り放題さ」
「それはない。第一殿が出てくれば、貴族連合は間違いなく壊滅する」と彼は低い声で答える。
戦の現実を知る人間の一人として、無邪気に戦を煽る人間たちに指摘すべきことであるが、人の命を楽しみで弄ぶような外法の一族に言うべきことではなかった。
「好都合じゃないか。何のために旦那が私をここに送りつけたと思っている?」
戦理知らずが外法に酔って戦機を語るのかと呆れた。また同時に彼の親父が腑抜けにされて外法の一族に堕ちたのだと、彼は判断した。
「馬鹿どもを誑かす程度じゃないのか?」
彼は薄らと笑みを浮かべて、少々、意地の悪い事を言い、この口煩いだけの素人を煽った。
「はっ!言ってくれるじゃないかッ!」
「ここで凄んだところで何の役にもたたぬぞ」
「旦那のガキだから許してやるさ」
『外法を用いれば、神々の祝福が消え、恩寵は力を失い、東方に向かった勇士は倒れ伏すことでしょう。決して、外法の一族に勝手を許してはなりません』
――――――――――――――――――――
【龍馬】
二足歩行する地竜の一種。アデレイドの魔道具によって騎兵用に家畜化したもの。|体長 一五
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