月の影、揺らめく想いは蝋に解かして

QUILL

埋け火

 燦々と照り付ける真昼間の太陽の下、わたしは醜い影になって舌打ちをした。


ほんの些細な口論だった。親友の乃秋のあがわたしの分のビスケットを食べてしまったのだ。わたしが「乃秋ひどい!」とまくしてると、乃秋は静かに謝った。わたしがまだ許せず責め続けると、冷静な顔で「じゃあもう同じ部屋に帰ってこなければいい」と呟いた。わたしはそれが癪に触って山の上の孤児院を飛び出してきたのだ。


「どうしたんだい?」


山の麓で出会ったおじさんは、数秒の沈黙を破ってわたしに問いかけた。答えあぐねるわたしに続けて言った。


「ここじゃあ寒いだろう、中に入りなさい」

その家の庭には、丁寧に手入れされた花水木が紅く色付いていた。


「あ、じゃあ……お邪魔します」


ペコペコとお辞儀しながら、大分日焼けしてしまった風な木製のドアを開けた。




 中は想像した通り、そこまで広くはなかった。おじさんは見た感じ一人暮らしなようだから、寝室とダイニングキッチンとトイレだけでも十分なのだと思う。


「そこにでも座ってなさい」


と、おじさんは椅子を勧めてくれた。わたしは軽くぺこりとしながら椅子に座った。薪ストーブで温まった部屋の中、おじさんはキビキビとした様子でお湯を沸かしたりした。






 数分後お湯が沸いて、おじさんがココアを煎れ始めた時、お腹が鳴った。わたしのコップには砂糖を一杯、おじさんは自分のコップに白い粉末を追加した。


「マシュマロココアを煎れてあげてるけど、お昼ご飯も食べてないの?」


おじさんの言葉に、わたしは頷いた。


「奇遇だね、僕も食べてないんだ」とおじさんは言って、「今あんまり食材は無くて、あるのはこれくらいなんだけどね」と、キッチンの下からカップ麺を取り出した。


「好きな方を選んでくれよ」


おじさんの片手に一つづつ、赤いきつねと緑のたぬきが乗っていた。

わたしは、あの頃のことを思い出した。



父が社長を務めていた会社が破産したのを機に両親が離婚。


その後わたしは母に引き取られ、新たな生活の地図を広げた。安定な暮らしを求めた母の脳裏に過ぎった一人の男は、父のライバル企業の息子。母親はその男と顔見知りになっていて、経済力に惚れて結婚を申し込んだ。その男は昂る夜の捌け口に母を求め、結婚を承諾した。そして始まった第二の共同生活は、身分がものを言わせるようだった。男は夜になると母を使い、母は会計になると彼を使っていた。けれど、母は身の程を弁えず、彼に逆らってしまった。


「年が明けたらお別れしよう」


喧嘩の後、そう言ったあの男の瞳にはもう何の望みも見えなかった。そして母は、あの男にしがみついて、「私はこれからどうしていけばいいの」と言って泣きついた。わたしはただただ情けなくて、そういう意味では泣いていた。もちろん、そんな甘えは許されなくて、一度怒った器の小さい男は冷たく言い放ったのだ。


「家主に口答えをする女に次の夜は来ない」


そして大晦日が来て、最後の晩餐とでも言うように食べたのが、5千円超の年越し蕎麦だった。それも東京で最も名の知れた高級蕎麦屋で。あれは、すごく美味しかった。けれど……。

わたしはそれを全ては食べなかった。何しろ食欲が湧いてこなかった。3口ほど食べて、お椀を置いた。そして、年が明けた。誰もが何かを期待をする新年になり、あの男はレジに1万円札を2枚置いた。


「さよなら、お釣りは好きに使っていいから」


嫌な記憶が蘇り、わたしは顔をしかめた。




 苦い顔を見られぬよう、半ば無意識で目を向けた小窓からは、山の景色が見えた。わたしが今さっき駆け下りて来た斜面は、結構急だったことを知った。


「きつね。赤いきつねが良いな」


わたしがややあって選ぶと、おじさんはまたニッコリと笑った。


「分かった」




 マシュマロココアを啜っていたわたしの正面に、おじさんは腰を下ろした。


「それで君は、一体どうしたの?」


おじさんはマシュマロココアを啜りながら、わたしの顔を控えめに覗き込む。


「第三の人生に疲れたんです」


わたしはため息をつきながら答えた。


「詳しく聞きたいな」


結露した窓の水滴を見ながらそう言ったおじさんも、何かに疲れたような目をしていた。そこに5分の経過を告げるタイマーの音が響いた。


「伸びちゃうから食べながら、ね」




 わたしが話を終えた後、おじさんは物思いに耽っているように見えた。そして、ふと思いついたように言った。


「僕にも昔は娘がいてね」


「どうして過去形なんですか?」


わたしは、当然のようにそんな質問をした。おじさんは、笑いながら目の端を抑えた。わたしはおじさんの潤んだような目を不思議に思いながら聞いた。


「奪われてしまったんだよ」


わたしは悲しみの温度を汲み取って、おじさんの小さな背中をさすった。


「おじさんもまた、数周目の人生を歩んでいるんですね」


わたしが同情を言葉にすると、おじさんは少しだけ肩を震わせた。そして、小窓の下のローチェストへ足を進めた。




 おじさんはローチェストの中からポラロイドを取り出してきた。


「この写真はね、僕と娘の最後を収めた写真なんだよ」


そこに写っていたのは、プリキュアの変身ステッキを手にして、どこかの遊園地で微笑む少女と若かりし頃のおじさんだった。わたしはそれを見て、ため息をついた。


「おじさん、そういうことだったんですね」


わたしはその先の言葉を継げないまま、天井を仰いだ。そして、溢れそうになる涙を拭いながらやっと声を出した。


「ありがとう本当のお父さん、会えて良かった」




 父もまた、すぐには言葉を継げない様子だった。数年分の空白を手繰るように、お互い静寂の中で息をしていた。やがて日が暮れてきて、夕方の鐘がなると、お父さんが口を開いた。


「月葉は今、孤児院に入っているんだね」


わたしはこくりと頷いた。


「僕が君をちゃんと成人させてあげたかった」


「わたしも、ずっと会いたかった」


対面のお父さんは、わたしを抱きしめたりしたそうだけれど、それも咄嗟に手を引っ込めてしまう。


「私が離婚したのには倒産以外に理由があったんだよ」


「え?」


わたしは身を乗り出した。お父さんは苦いような表情を浮かべながら、呟くように言った。


「子供がさ、出来たんだって」


わたしは喉を鳴らして唾を飲み、お父さんはその真実と真逆の決して苦くないココアで喉を潤した。


「君の新しい父親になったあの御曹司とお母さんは、元々顔見知りだったんだ。それもさ、俺の会社が共に高め合ってたライバル企業の社長の息子でさ。でもある日、うちのアイデアがライバルのその会社から新商品として発表されたんだよ。多分スパイがいたんだ。うちは多額の研究費を無駄にしたんだよ、その会社のために。で、ちょうどその頃に例の御曹司がそこの社長になった。お前の最低な母さんが別の男と関係を持って、その果てに新しい命を身篭ったことを伝えてきたのも同じ時期だった」


「それって」


「つまりはそういうことだよ、汚い男女の恋愛事情に人生を狂わされたんだよ、俺は」


お母さんと裕福なだけが取り柄のあの男の身勝手な都合によってお父さん、そして当の私も人生を狂わされてしまったことを知り、燃えるように赤くなった西の空を見ても、途方もなく続いていくこれからの人生はきっと日の目を見ることもないのだから、早いうちにお互いを楽にしてしまった方が良いのではないかとさえ思った。


わたしは皺だらけになったお父さんの腕の中に身体を滑り込ませて、久々の抱擁を求めようとした。けれど、お父さんは華麗に身体をかわして言った。


「もう眠くなってしまったよ、悪いけれどちょっと寝かせてもらうよ」


窓の外はとうとう、宵の色を纏い始めていた。




 父が眠ってから数時間して、外はビュービューと寒風が吹き荒れていた。徐々にずり落ちてきた布団を掛け直してあげ、物が散乱したキッチンを片付けてあげることにした。出しっ放しのボウルや、何枚も使わずに置いてあるキッチンペーパーを集めてあるべき場所に戻そうとしたその時、わたしは父の秘密を知ってしまった。その大量に破られた未使用のキッチンペーパーは、大量の薬を隠すために掛けられていたのだ。お父さんは、限られた時間の中を大切に生きていたのだ。今眠っているのだって、きっと副作用に違いない。お父さんがわたしのために長い間隠してきた秘密。それを知って、涙を零さずにはいられなかった。わたしは、テーブルの上で燃える蝋燭の炎をそっと吹いて消した。




 やがて、今朝方降りてきた山道を炎が連なって降りてくるのが見えた。わたしはその正体をなんとなく察し、目をつぶって待った。やがて扉がノックされ、光ひとつない部屋の中を玄関までわたしは歩いていった。


「はい」


ドアを開けるや否や、乃秋がわたしの顔をランタンで照らし、ぐちゃぐちゃの泣き顔をわたしの胸に押し付けてきた。


「ごねんね、あんな酷いこと言っちゃって」


「わたしもごめん」


そう言ってお互いを慰めあった後で、乃秋は室内に視線を巡らせた。


「月葉のことはさ、一生を掛けて私が守っていくから」


「何それ」


わたしが言うと、乃秋は目を見開いて、「私は月葉が通ってきた産道を辿るように産まれたの」と言った。なんとなくわたしが感じていた姉妹のような距離感は偽物ではなかったのだ。そして、乃秋はベッドで眠るわたしの父に歩み寄って声を掛けた。


「ごめんなさい、私本当はここに来ちゃいけないはずだったのに」


——返事はない。


さっきまで寝息を立てていた父は、いつの間にか静かになっていた。


その横の小窓からは、柔らかい月光が射し込んでいた。わたしは、誰よりも明るく未来を照らしてくれる月のような存在が傍にあったことを知った。


「お父さんの分まで幸せになれるように頑張るからね」


わたしは囁くように言った。


「おやすみ、来世でまた会おうね」


そう言いながら、わたしはゆっくりドアを閉める。


最後に焼き付けた父親の姿は、月の下で少しだけ存在を主張するように光っていた。

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