私とよくわからないものの遭遇
――店長大丈夫かな?
人生80年としてもそう何度もお目にかかるようなことじゃないレアな事態が勃発した後だというのに、おじさんの退場からものの1分も経たない内にお店の中は平素の姿を取り戻していた。
日本人のスルースキル半端ない。
それとも、ここにいるのは生粋の都会人や都会生活に適応した玄人ばかりで、都会人歴2年と少しの私がまだその『都会人』の域に達していないだけなのかな?
…謎のやばいおじさんを追って、駅エントランスの人混みの中に消えていった店長。
そろそろ仕事帰りの人が増え始めてくる頃だから、おじさん探索の難易度は加速度的に跳ね上がっていくわけだけど…
彼は、無事おじさんから飲食の代金を回収することができるのだろうか?
っていうかおじさんは一体何頼んでたんだろう?
心優しく感受性豊かな私は色々考えてしまうんだけど、平然としてる他のお客さんたちはなんとも思わないんだろうか?
かっこいい都会の女にはなりたいが、この精神は大切にして生きたいものです。
隣の席に放置されたコーヒーカップ?は、まるでさっき洗って拭きましたみたいな感じにきれいピカピカになっていて、何か注がれていたのかを推測する手で借りは1㍉もない。コーヒーカップと言ったのはコーヒー入れるのに似てたからだよ。正式名称なんて知らない。
くんくん匂い嗅げば何系が入っていたのかくらいわかるかもしれないけれど、そんなことしてまでおじさんが飲んだもの調べるのは頭おかしい所業だよ。
やたらきれいになっているのだって、もしかしたらおじさんがべろべろ舐めてきれいにしたのかもしれないわけだから大変危険を伴う行為だ。
「ホットチョコレート一杯で開店から今までずっといたみたいですねえ。」
謎は全て解けたおじさんが飲んでいたのはホットチョコレートだったのだ。
ホットチョコレートとは…、なかなか可愛いものを飲みやがりますね。
っていうかホットチョコレートとココアはどう違うんだろう?
あっ、そういえばココアは登録商標で特別な許可を得た製造者しか使っちゃいけないって聞いたことある。許可が取れないところはホットチョコレートかミルキーカカオなんだって。本当かな?
「わたしがシフト入ってからでも1時間経ってる…」
思ったより短い。
っていうか、なんかその言い方はおかしい気がする。
開店から今までいたんなら、悠々ちゃんがバイトに入ってから今までいるのは当たり前なんじゃないかな…?
「い、今19時ちょっと過ぎてるから…、開店からなら12時間くらいいたことに
なるんじゃないかな?」
「12時間も?それまじやばいですね…」
悠々ちゃんはお水注ぎ片手に目を見開いて心底びっくりした表情をする。
これ本気でやってるのかな?
「このお店ってえ…、開店何時でしたっけ?」
目を細めて顎に手を当て、漫画とかアニメの探偵みたいなポーズで『自分が働いてる店の開店時刻』を推理し始める悠々ちゃん。
7時だよ。
朝の7時だよ。
「あ、朝の7時じゃなかったでしたっけ?」
「朝の?すごいはやいですね。」
「し、出勤前に寄りたい人とかいるからじゃ…、ないですかね?」
「ビジネスチャンスですねえ!」
また汗笑顔になってしまう。
この子も大概だな。
私より2つ3つ年上だと思うんだけど。
注文のやり取り以外で初めて話したけど…、だいたい見た目通りだな。
とろんとしてどこ見てるかわからない垂れ目気味のお目々。
後ろでまとめた髪の毛からちらちらするうなじはとても可愛い。
いつもお口は半開きだけど、喋る前は微かにニコッとするのがとても可愛いのだ。
小柄でほっそい。
凝視するのは恥ずかしいから、視界に入る度にちらちら見てるけど飽きないくらいには可愛いので好きだ。
でもまあ、割とやばい子なのはわかった。
悠々ちゃんは、『出勤前に寄りたい客がいるから朝早くから開店している』という
私の言葉に感心したらしく、なるほどなるほどみたいなことを言ってるけどもうよくわからない。さっきも思ったけどこれ本気なのかな?
もしかして男を狩るための演技なのでは…?
実際可愛らしく見えるし、こういうのに弱い男の人多いのかな?
私も今度真似してみるか?
いや、でも男友達…、っていうか友達自体あんまりいないからな…
私には悠々ちゃんのそれが本気なのか演技なのかの判別はできなかったが、なんだか少し悲しい気持ちになりながら喫茶三日月を後にしたのだった。
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と、いうのがおおよそ今現在からおおよそ5分くらい前のことで、今現在の私はこれまでの人生をおおよそざっと振り返ってみても一番なんだかわからないやばい状況に陥っていた。細かく振り返ってみても、たぶんっていうか絶対に人生最大のやばい危機だし、10分くらい前のおじさんとのことが霞んで見えるくらいやばい。
人混み回避と近道を兼ねて、映画街の雑居ビルとかよくわからんシャッター閉まった建物ばかりのルートを選択したのだけど。
ホテルピリカの角を曲がったすぐ先で、私はよくわからないものと遭遇したのだ。
真っ黒で、全体としてシルエットは犬みたい。オッキイ。
大きな犬ってだけで割とやばいと思うのだけど、薄暗い街灯でもわかるくらい『普通の犬じゃないですよ』っていう、特徴的な特徴があって。
…真っ黒い大きな犬っぽいものは、目が真っ赤だった。
イルミネーション用のLEDでも埋め込まれてるみたいな、冷たい感じの赤。
そして、暗がりでも容易に見て取れるくらい、赤い目をした真っ黒で大きな犬っぽいものの表面は、どろどろしていた。
――うわあ…、やばい…
こういう時って他人事みたいに感じる時がありますよね?
『うわあ、やばい』じゃなくて、何かすぐ行動を起こさないといけないと思うのだけど、体が動かないというか、動けない。
頭じゃ解ってる。
逃げるとか、助けを呼ぶとか、何かしないといけないのは重々わかって承知しているんだけれども、まったく体が動かないというか、動けないのだ。
ぼんやりとしていてはっきりとした赤い目が、ヴォン…という音を立てて軌跡を描く光の剣みたいな感じで…、私の方に向いた。
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